嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 長い黒髪をゆっくりと梳かし、さらり、と髪が肩を滑り落ちる様子を横目で見る。
 櫛を通すたび、艶のある黒が朝日に淡く照らされた。
 鏡台の前に座り髪を整えるのは、毎朝繰り返している変わらない習慣。
 起きて、身支度を整えて、部屋の中で一日を過ごす。
 ただ、それだけの毎日。
 外へ出ることもない。
 誰かと話すこともない。
 この髪を誰かに褒められることも、触れられることもないまま、静かに時間だけが過ぎていく。
 いつも通りの朝。
 いつも通りの支度。
 それなのに、気を抜けば頭の中に真白の声が蘇る。

『攫って差し上げましょうか。姫様』

 櫛を動かす手が止まった。
 鏡の中の自分と目が合い、そこに映ったものを見て思わず目を瞬かせる。
 深いことは何も考えていないはずなのに、頬がほんの少しだけ赤い。否、何も考えていないからこそか。

「……っ」

 はっとしたように目を逸らし、音羽は慌てて自分の頬へ触れた。
 熱い。まるで熱でも出しているみたいに、じわじわと熱が広がっている。
 どうして、ただ言葉を交わしただけなのに。
 ほんの少し、触れられただけなのに。
 指先が、無意識のうちに手の甲をなぞる。
 昨夜、真白が口づけを落とした場所。当然、もう熱など残っているはずがない。
 それなのに、そこだけ妙に意識してしまう。
 音羽は誤魔化すように再び櫛を動かした。さらり、と黒髪が揺れる。
 けれど、一度乱れた心はなかなか元には戻らなかった。
 攫うなんて、普通なら恐ろしい言葉のはずなのに。
 どうしてあんなにも甘く聞こえてしまったのだろう。

(本当に、外に出られるの?)

 自分でも理解できない感情に戸惑いながら、音羽は小さく息を吐いた。
 櫛を机へ戻し、鏡台の前でぼんやりと膝を抱える。
 胸の奥が落ち着かない。
 昨夜からずっと、何かが変わってしまった気がする。
 今までは、この部屋の中だけが世界だった。
 閉ざされた障子も、静まり返った空気も、父から与えられる“罰”も。全部、仕方のないことだと思っていた。
 そうやって生きるしかないのだと、諦めていた。

『全部捨てて逃げましょうか』

 けれど、真白はそんな毎日を否定するのを当たり前だと言うような態度を取った。
 音羽が此処から出ていくことなど、最初から出来て当然だと言うように。

「……」

 鏡の中の自分を見つめる。
 白い肌。
 細い肩。
 閉じ込められたまま育った、何も知らない娘。そんな自分が、本当に外へ出ていいのだろうか。
 怖くないわけではない。
 もし父に知られたら。
 もし橘の名に傷が付いたら。
 もし本当に、自分が忌み子だったら。
 考えれば考えるほど、不安は尽きない。
 それでも、心の何処かで、期待してしまっている自分がいた。
 真白なら。あの嘘つきの陰陽師なら、本当にこの場所から連れ出してくれるのではないかと。

 ───コンコン。

 その時、控えめに障子が叩かれる音がした。
 反射的に振り返れば、障子の向こうに人影が映っていた。