嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 見たことも聞いたこともない外の世界。
 偽りだらけの碌でもない外の世界。
 けれど、見てみたいと思ってしまう外の世界。

「っ!」

 顎に触れていた手を掴んで、音羽は強く頷いた。
 同意したことで、その先に何が待っているのかなんて関係ない。
 手を振り払う選択肢がなければ、橘の娘の立場を捨てることに対して迷いはなかった。
 気づけば、考えるよりも先に身体が動いている。
 この手を離してしまえば、もう二度と外へは行けない気がしたから。
 真白は一瞬だけ目を丸くし、それから堪えきれなかったように吹き出した。

「ははっ」

 低く零れた笑い声が、静まり返った部屋に溶けていく。
 音羽は驚いたように瞬きを繰り返した。
 今まで、こんなふうに笑う人を見たことがなかった。
 父のように冷たくもない。
 女中のように作られた優しさでもない。
 心の底から愉快だと言わんばかりの笑い方。
 真白はひとしきり笑ったあと、掴まれたままの手へ視線を落とした。

「困りましたね」

 そう言いながらも、少しも困っているようには見えない。
 むしろ、何処か楽しげですらあった。

「俺、面倒事は嫌いなんですが」
「……?」
「姫様はどうやら、とんでもなく厄介らしい」

 くすり、とまた笑う。
 その声音に、音羽の胸が僅かに熱を持った。
 厄介。そう言われたはずなのに、不思議と嫌ではない。
 真白はゆっくりと音羽の顎から手を離すと、そのまま立ち上がった。

「では」

 真白は振り返り、怪しく目を光らせる。
 月明かりの差し込む部屋の中で、その姿だけが妙に現実離れして見えた。
 そして、悪戯を思いついた子供のように笑う。

「攫って差し上げましょうか。姫様」

 隙間から入り込んできた夜風が、音羽の髪をさらりと撫でていく。

「……っ」

 思わず肩を震わせ、きゅっと目を瞑る。けれど、冷たいはずの風は、不思議と嫌ではなかった。
 まるで、外の世界そのものが手を伸ばしてきたようで。
 気づけば、音羽の身体は吸い寄せられるように動き出していた。重たい着物の裾を引き摺りながら、一歩、また一歩と真白へ近づく。
 止まれなかった。
 止まりたいとも、思わなかった。
 逃げないことを確かめるように、真白はそんな音羽を静かに見下ろしている。
 やがて、その手がゆっくりと差し出された。音羽は躊躇うことなく、ひやりとしたその手を取る。
 真白は一瞬だけ目を細めると、そっと音羽の手を持ち上げた。

「……?」

 何をされるのか分からず、小さく首を傾げた次の瞬間。
 手の甲に、柔らかな熱が落ちた。

「!!」

 初めて感じる感触に、思わずビクリと肩を震わす。すぐに心臓が激しく暴れ出した。
 息を呑み、反射的に真白を見上げる。
 真白はそんな音羽の反応を面白がるように、くすりと喉を鳴らした。

「おや」

 わざとらしく眉を下げ、音羽の視線よりも下になるように屈んで見上げる。

「攫われる覚悟はあったのでは?」

 音羽の顔が一気に熱を持つ。手で触れなくとも分かるほどに、体温が上がっている。
 慌てて手を引こうとするが、真白はすぐには離してくれない。
 指先を絡めるでもなく、ただ包み込むように握ったまま、ふっと表情を和らげる。

「何かあれば、俺を呼ぶといい」

 ただ優しさだけを宿して、今までよりもずっと静かな声で言った。
 軽口のようでいて、不思議と嘘には聞こえない。
 真白はゆっくりと手を離した。
 離れた場所だけが、熱を残す。そしてそのまま、音羽から一歩距離を取った。

「迎えに来れるかどうかは、保証できませんけど」

 そう言って微笑む姿は、まるで最初から、音羽をこの場所から連れ去るためだけに現れた妖のようだった。