祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 ——音が、消えた。
 雨の残り香も、地下に満ちていた湿った気配も、全てが遠のく。
 一瞬前まで確かにあった空気が、すとんと抜け落ちたように静まり返った。

「やっぱりな」

 小さく息を吐くように、誠十郎は肩の力を抜いた。
 張り詰めていた空気の中で、ただ一人だけ緊張から外れたように頷く。
 口元には、得心がいった者の静かな笑み。
 探り当てたのではない。“辿り着いた”という確信がそこにあった。

「別に驚かんよ。ここまで見といて、今更やろ」

 あっけらかんとした声音。
 張り詰めた空気の中で、その軽さだけが異質だった。

「……恐れはないのか」
「ないな」

 試すような響きを含ませた問をすれば、誠十郎は少しだけ考える素振りを見せてから答える。

「少なくとも、今は」

 おまけ程度に付け加えられた言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
 その言葉に、僅かな現実味が混じる。

「人食う気やったら、とっくにやっとるやろ。それに」

 そう言いながら、誠十郎の視線がふと横へ流れる。
 檻の奥。
 暗がりの中で、小さな影がかすかに揺れた。
 命は、無表情のままじっとこちらを見ている。けれど、その指は白くなるほどに鉄格子を強く握りしめていた。
 誠十郎の声に反応しているのは明らかだった。呼ばれているわけでもないのに。ただ、その存在を確かめるように。

「こいつも、鬼や。せやけど───害、ないやろ?」

 問いかけるようでいて、既に答えを知っている口調は変わらない。
 影裂は、視線を命へと向けた。
 無表情の少女。だが、その目は何処か縋るように、誠十郎を追っている。

「せやから、鬼やからどうこうって話でもないやろ」

 その言葉は、いつかの深雪が口にしたものに似ていた。

『そ、そんなことないですよ! 花を愛でるのに鬼も人も関係ありません!』

 鬼でも花を愛でていいと。人を喰らわぬのなら人間と変わらないと。深雪は言った。
 だが、誠十郎と深雪の考え方は決定的に違う。そこにあるのは、情ではない。
 誠十郎が持つのは、理屈と——利用価値。

「なぁ」

 誠十郎は静かに、底の知れない不敵な笑みを浮かべた。

「協力せぇへん?」

 さらりと投げられた一言が、あまりにも軽い。
 だが、その実、場の空気を根こそぎ変えるには十分だった。
 警戒も、緊張も、全てを無視した提案。ようやく本題に入れたとでも言いたげに、僅かに口元を緩めた。

「お互い、得する話やで」
「……協力だと?」

 影裂の口元が歪んだ。
 笑みではない。不信をそのまま形にしたような表情になる。
 いつでも切り捨てられる距離。
 いつでも踏み込める間合い。
 その緊張の中で、影裂は低く問うた。

「何をさせるつもりだ」

 低く、刃のように研ぎ澄まされた声音によって、距離は決定的に開いた。
 これ以上踏み込めば斬られる——そう言外に突きつける圧。
 だが、誠十郎は、それを受けてもなお肩の力を抜いたままだった。

「そう構えんでもええやん」

 困ったように、ほんの少しだけ眉を下げてみせる。まるで、過剰に警戒されていることを不思議がるようだ。
 だが、その仕草にはどこか芝居じみた軽さある。
 緊張に呑まれていない。むしろ、その緊張すら計算に入れているような。
 首を傾げたまま、気負いのない声で言った。

「俺はな」

 愛おしさを一心に込めた目で命を見つめ、一拍開けて続ける。

「鬼と人は、分かり合えると思っとる」

 迷いのないその一言は、誠十郎の覚悟そのものを表していた。