祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 だが、静寂の中でそれらしい音は聞こえてこない。先程の気配など無かったように、辺りにある影に神経を繋げたとて何も感じられなかった。
 しばらくの間、影裂も誠十郎も口を開かない時間が続く。
 深雪の呼吸だけが微かに部屋に満ちていた。
 一定ではない。
 だが、先ほどよりは落ち着いている。その変化を確かめるように、影裂はじっと見つめていた。

「……一旦、寝かせとけばええやろ」

 散らかっていた器や手拭いをまとめながら、ぽつりと呟く。

「しばらくしたら、もう一回飲ませる。それまでは動かさん方がええ」

 医者見習いとしての判断は冷静で的確なもの。
 淡々と物事を片付けることができて、無駄な情を持たずにいられる誠十郎のような人間が医者に向いているのだろう。
 あの女がずっと無表情でいるのも、揺れ動く命の一つ一つに翻弄されない鉛の神経を持っているから。
 影裂は何も答えず、ただ、深雪の顔をもう一度だけ見た。
 事あるごとに誠十郎が笑みを消して真顔になるのは、誰かの命を握った時。今回は、それが深雪のものであった。

「影裂。少し、ええか」

 盆の上に全てを揃えて載せると、不意に誠十郎は顔を上げた。
 そこにあの人の良さそうな笑みはない。
 誰かの命を握っている時に見せる、感情を殺した静かな眼差しが向けられた。

「何だ」
「ちょいと見てもらいたいもんがあんねん」

 その提案で影裂の中の警戒心が一気に膨れ上がる。分かりやすく怪訝な表情になる影裂を見て、誠十郎は分かっていたことのように目を見続けた。

「……今か」
「今やからや」

 深雪が眠っている今だからこそ、影裂を連れ出せる。そう判断したのだろう。
 未だ誠十郎は起きている深雪を見ていない。どんな声をしていて、どんな瞳の色をしているのかなど知らないまま。
 だから、今この場で誰よりも警戒心を向けているのは、深雪に対してだった。

「その子は、しばらくは大丈夫や。さっきの見たやろ」

 ただ薬を飲ませただけ。何の草でできているのか分からない薬を飲まされる場面を見せられて、何が大丈夫なのか。
 誠十郎について行っている間、誰が深雪を見てやるのか。

(離れるべきではない)

 少なくとも、あの女は信用ならない。人間らしい感情の起伏を一切見せず、何を考えているのか分からないのだ。
 だが、同時に先程から感じている“違和感”が、頭を離れなかった。
 この家の奥にある何か。
 それを誠十郎は“見せようとしている”。逃げも隠れもせずにだ。
 僅かな沈黙の後、やがて影裂は口を開いた。

「短く済ませろ」

 一秒でも長く深雪から離れるのは気が引ける。それでも、誠十郎が何を見せようとしているのかも気になる。
 少し前に感じたあの気配の正体も早々に暴きたいところだ。

「話が早くて助かるわ」

 小さく笑みを落とすと、盆を置いたまま立ち上がって部屋を出ようとする。影裂も遅れて立ち上がり、部屋の外へと歩き出した。
 部屋を出る直前、静かに振り返る。畳の上で眠る深雪の顔が、先程よりも穏やかに見えた。
 呼吸も微かにだが整っている。

(……すぐ戻る)

 声には出さず、ひっそりとそう決めた。
 そして、誠十郎の後を追う。
 廊下は静かで足音だけがやけに響いていた。