祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 少しずつ足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。
 残されたのは静寂だけ。

(まさかこんなことになるなんてな……)

 山小屋にいた時よりも幾分か顔色が良くなったように見える深雪へと視線を落とす。
 首元を締めていた襟が少し開かれていた。ただ呼吸しやすくするためだとは思うが、どうにも気になる。
 そっと掛け布団を首元まで掛けると、ついでのように手を口へと近づけた。
 微かに息を感じる。確かに呼吸をしていた。

「深雪」

 名前を呼べば返事があるはずだった。「何ですか?」とか何とか言って笑いながら振り返ってくれるはずだった。
 けれど、今は呼び掛けても返事はない。反応が返ってくることもなかった。
 それでもいいと、何度か名前を口にしながら寝顔を見つめる。
 鬼である影裂にとって妖を祓う巫女である深雪は敵。目など覚まさないままで良い。それなのに、早く目覚めてほしいと、笑顔を見せてほしいと思ってしまっていた。

(ゆっくり休んでくれ。どうか、俺を人殺しの鬼にはしてくれるな)

 人を喰らいたくない。その想いの隣には、人を殺したくないという想いがある。
 人間を生かしたいだとか、守りたいだとかそういうことではなく、ただ自分をこれ以上鬼にしたくないだけ。
 けれど、深雪のことになるとそんな考えが消える。
 深雪だけは生かしたい。この手で守りたい。そして、生きて笑ってほしいと。

「鬼と人、か」

 噛み締めるようにそう呟いた時、ふと、何かの気配を感じた。
 背後。
 部屋の外。
 人のものではない、何か。
 極めて微かだが、確かに存在する違和感がそこにはある。

(何者だ)

 視線を静かに障子の方へ向けた。
 音はしない。だが、そこに“何か”がいる。息を潜めるようにこちら窺っている。
 影裂は音を立てずに立ち上がると、ゆっくりと障子へと近づいた。
 伸ばした手が紙一枚を隔てた向こうへと触れかけた、その瞬間。
 すっ、と。
 気配が、消えた。

「……何だったんだ」

 後少しで障子に触れるというところで影裂の手が止まり、開けることはしなかった。
 ただ、しばしその場に立ち尽くし、やがて静かに手を下ろす。

(……隠しているな)

 確信に近い感覚が不意に胸の中に浮かんだ。
 この家には何かがある。それを確かめるように、影裂はゆっくりと振り返った。
 畳の上で眠る深雪。
 その姿を目にし、再び彼女の傍に腰を下ろす。手の届く距離にいると言うだけで、溢れんばかりの安心感が浮かんだ。

「───やって。ほんまに偶然やったの」

 その時、部屋の外からやけに張り上げた誠十郎の声が聞こえてきた。その後にはあの女の無機質な声が重なる。

「人様を連れ出して」
「ボッロい小屋ん中おるよりマシやろっ!」

 そんな遣り取りと共に、足音が戻ってきた。
 廊下を踏む、規則正しい音。先ほどとは違う複数のもの。
 影裂の視線がゆっくりと戸口へと向いた。
 気配を消すようなそれではない。隠す気のない、生活の音。だが、先ほど感じた“何か”とは質が違う。
 やがて、障子が静かに開いた。

「待たせたな」

 誠十郎だった。
 手には盆を持ち、湯気の立つ器と、布や包みを幾つか載せている。
 その背後に、先ほどの女が控えていた。
 女は一歩だけ室内へ踏み入り、深雪の様子を確かめるように視線を落とす。
 影裂と視線が合い、咄嗟に目を逸らすと女は静かに部屋の中に入った。

「熱は……ないようですね」

 低く、落ち着いた声。
 影裂へと向けられたわけではない。
 だが、聞かせるようでもあった。

「血の気が薄い。貧血でしょう。急に動かしたのもよくありません」

 淡々と事実を告げるその声に、責めるような意図は全く含まれない。

「分かっとる」

 誠十郎が軽く返すと、盆を脇に置いた。