祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 選べる余地など最初からない。ここまで逃げてくることだけで精一杯で、それ以上のことが影裂にできるはずもなかった。
 山小屋の入口に突っ立ったままの男は、もう一度念を押すように言う。

「このまま放っといたら、持たんで」

 影裂でも分かる。このまま寝かせるだけで留まっていれば、いずれ深雪の目は二度と開かなくなることくらい。
 男の迷いのない言葉に、視線が一瞬だけ深雪へ落ちた。
 影の中で握っていた手を離し、広げていた影を少し縮める。

「……何があったんや」

 深雪を見つめる影裂の横顔を見つめながら、男は問う。今度は、少しだけ声の色を落として。
 詰問ではなく確認。
 床の上で眠る深雪がこうなってしまった原因に、少なからず影裂が関係していると予測すればなおのこと。
 だからこそ、見ず知らずの男に自分達が置かれている境遇を語って聞かせるわけにはいかない。
 そのはずなのに、深雪の顔を見ていると口を開いてしまっていた。

「俺達は追われている。まともに休めていない中で逃げていたから、限界が来たらしい」
「追われてる……なるほどな。そら倒れるわ」

 男は小さく息を吐きながら呟き、影裂の言葉を嘘ではないと判断したらしい。
 説明は少ないが、確かに筋は通っている。
 そして何より、目の前の状況がそれを裏付けていた。

「ちょっとどいて」

 乱暴に草履を脱ぎ捨てると、大股で深雪に近づきすぐ傍に膝を着いた。
 真っ白な首筋に触れようとする手を振り払いそうになるが、ぐっと抑え込む。

「何か心得があるのか?」
「まあ、少しな」

 決して信用しろとは言ってこない。信じられなかったら手を切り落としても良い、そう深雪を見る横顔は物語っている。
 距離も、声も、ただ事実を重ねるだけ。
 影裂の手が僅かに動き、深雪の肩へ置かれていたそれが離れる。
 心得があるのなら知識のある男にこの場は任せる方が良い。そう思えないほど影裂は世間知らずではなかった。
 完全ではない。だが、許した。

「……頼む」

 人間は嫌いだが、無条件に喰らい殺したいとは思わない。
 何より、深雪の前で誰かを手に掛けるなどできるはずもなかった。きっと、この男が自分に対して敵意を向ければ受け入れてしまう。
 最も、深雪へ危害を加えようものなら容赦はしないが。

「おう」

 男は小さく頷くと、すぐに動いた。
 山小屋の入口付近に置いていた籠を引き寄せ、中から幾つかの草を取り出す。
 未だに降り続いている雨によって濡れてしまっているが、それを気にする様子はなかった。
 そして籠の中からすり鉢と棒を取り出すと、上がり框に座り込む。

「……鉄分が足りてへんから………」

 何やら一人でぶつぶつと呟き始めた。影裂には男の背中しか見えず、何をしているのか分からない。
 それでも、漂ってくる青い匂いは感じた。
 すり鉢の中に草を入れると、棒で磨り潰していく。簡易的な調合だが、その動きには無駄がない。

「慣れてるな」
「まーな」

 影裂の呟きに答えつつも、手は止まらない。
 すり鉢の中で草が完全に擦り潰れると、さらに別の草を混ぜる。
 細く裂き、重ね、押し潰す。
 その動きは、完全に慣れている者の動きだった。