祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 しばしの沈黙の後、男は首に掛けていた手拭いを床に落とした。

「は……あ、あんたら…誰や」

 一瞬にして細められた目に警戒心が滲む。それは影裂の赤く染まった目も同じ。
 男は影裂に問いながらも、踏み込まない距離を保ち続けた。
 暗がりに慣れた瞳が、ゆっくりと二人をなぞる。
 影裂。
 その傍に横たわる深雪。
 そして、ボロボロになった影裂の着物に着いた血。
 男は驚いて逃げ出すこともせず、ただ静かにそれらを目で見て状況を理解しようとしていた。

「……」

 男の表情がほんの僅かに引き締まる。貼り付けたような笑みがすっと消え、やけに真剣な顔つきになった。
 一歩、踏み出しかけて止まる。影裂の視線とぶつかった。
 眼力だけで射殺さんばかりの圧力。男はその視線に一瞬怯みつつも、また影裂の目を見た。
 琥珀色の目が一瞬だけ赤くなったのは気の所為ではない。
 
「それ以上近づくな」

 男に見えぬ位置で影の中に手を入れ、ぎゅっと手を握り締める。影裂の纏う空気が変わったのを感じたのか、男は明確に冷や汗を流した。
 空気が音もなく貼る。ただ、互いの存在を測り合う沈黙。
 男の足元で影が僅かに揺れる。反射的に視線がそこへと引っ張られ、男の身体は精神的にその場に拘束された。
 それだけで、異質さは十分。普通の人間なら引くか、恐れる。
 だが、男は顔を上げると影裂の琥珀色の目を見つめた。

「近づかへんと、死ぬで」

 感情の起伏をほとんど含まない声で、男は事実を淡々と口にした。
 男が近づいたことで何が変わるのか分からないはずなのに、その言葉はあまりにも的を得ている。
 ただの人間であるはずなのに、男が纏う空気が変わった気がした。

「その子、血を失いすぎや」

 冷静に状況を把握しようとする男の言葉に、影裂の眉が寄る。
 分かっている。だが、それを言われたところでどうすることもできない。

「お前に何ができる」

 突き放すような言葉は、試すように、疑うように、低く棘を宿していた。
 けれど、男は決して怯まない。冷や汗こそ流していても、視線は真っ直ぐと影裂に向いている。
 影の中で形作った刀を握る影裂と違い、男は背筋を伸ばして立っているだけ。逃げ出す素振りも襲いかかる素振りもない。
 それだけで、普通の人間ではないと分かる。
 少なくとも、ただの山菜採りではない。そう判断するには、十分だった。

「できるかどうかやなくて、やるしかない状況やろ」

 言い切るその声に揺らぎはない。押しつけるでもなく、ただ事実を置くだけの響き。
 影裂は何も返さず、男を見据えたまま動かない。
 影がじわりと足元でうねった。
 男が影裂に襲い掛かるよりも、座っている所から立ち上がり黒い刀を振るう方が余っ程ど速い。
 その均衡を崩さないまま、ゆっくりと視線が落ちた。深雪へ。
 浅い呼吸。
 色の失われた頬。
 胸の上下は、今にも途切れそうで触れることすら恐ろしい。
 ぎし、と奥歯が鳴る。
 分かっている。このままでは、深雪の身体は持たないことくらい。

(だが、信用できるはずがない)

 得体の知れない男、何をするかも分からない。ここで触れさせれば、最悪の可能性もある。
 だが、そのどれもが目の前の現実に押し潰されていく。
 もう一度、深雪を見る。その小さな呼吸が、答えだった。