祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 鬼を前にして抱くはずの恐怖を抱かず、妖祓いの家系の巫女としての敵意も見せず。

「お前はどうして俺の前で笑う」

 笑ってくれるのだ。
 自らを傷付けて危険な状態に陥ってまで、笑おうとする。
 
(人間の考えることは分からん。知りたいとも思わぬはずなのに……深雪、お前のことを知りたい。そう思ってしまう)

 “あい”とは一体何なのか。
 “すき”とは一体何なのか。
 どうして笑って、どうして悲しんで、どうして慈しむのか。
 鬼だからわからない。だから教えてほしい、そう言えば教えてくれるのだろうか。

「眠れ。眠れば、全て終わっているから」

 いつの日か、こうして腕の中に彼女がいた時に口にした言葉が零れ落ちる。
 眠り、夜を越え、朝を迎えれば全てが終わっている。そう信じたかったのは、紛れもない影裂自身だった。
 顔にかかった深雪の髪を払おうとすると、外で、ぽつりと音がする。
 最初は、気のせいかと思うほど微かなもの。やがて——もう一度。
 ぽつ、ぽつ、と。
 屋根を叩く音が増えていく。
 雨だ。
 気づけば空気は湿り、木々のざわめきも何処か重く沈んでいた。それから、確かな音へと変わる。
 しとしとと。
 一定のリズムで降り続く雨が、山小屋全体を包み込んだ。
 屋根を打つ音。
 壁を伝う水の気配。
 遠くで土を打つ鈍い響き。
 その全てが混ざり合い、静寂をさらに深くする。

(もう、眠ってしまおうか……)

 共に眠ってしまえば、きっとすぐに明日が来る。そうすれば全て終わっている。
 ただ、横たわる深雪を見下ろしてそう思った。
 呼吸はまだある。だが弱い。
 雨音がその微かな生の証すら掻き消してしまいそうで、無意識に耳を澄ませた。
 時間が曖昧になり、どれほどそうしていたのか分からない。
 ただ、変わらぬのは雨の音と、動かぬ少女だけ。
 その静けさが、やけに重く伸し掛かる。
 うつらうつらと船を漕ぎ始めた、その時だった。
 ばん、と。
 不意に、激しい音が空気を裂いた。戸が叩きつけるように開かれる。
 雨風が一気に流れ込み、室内の空気をかき乱した。

「っ……」

 驚いて震える影裂の身体の動きに合わせて、辺りの空気も同時に揺れ動く。
 咄嗟に影という影を伝って辺りに意識を張り巡らせると、視線を入口へと向けた。
 そこに立っていたのは、一人の男。
 歳は、二十前後。全身ずぶ濡れで、肩から水を滴らせている。
 荒い息を吐きながら濡れた腕を拭い、首に掛けた手拭いて顔を拭いた。
 その間にも外の雨は強く、男の背後で激しく降りしきっている。

「……はぁ、最悪や」

 雨音が響き渡る部屋の中に、男の声が静かに落ちる。灯りのない山小屋の中では、奥までよく見えない。
 未だ影裂達には気づかないまま、背負っていた籠を足元に置く。
 濡れた前髪をかき上げ、ようやく顔を上げた。その視線が、室内を捉える。
 そして、止まった。
 影裂と。
 その傍に横たわる深雪に。