祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 中に足を踏み入れた瞬間、乾いた木の匂いが鼻を掠めた。
 長く閉ざされていた空気が一気に解き放たれ、外へと流れ出ていく。
 埃が薄く積もり、床板はところどころ軋んでいた。
 人が使っている気配は、ある。だが、整えられているとは言い難い。
 最低限。
 雨風を凌ぐためだけの場所。そんな印象だった。

「……」

 影裂は言葉を発さず、室内を一瞥する。
 危険は今のところない。そう判断すると、すぐに腕の中の深雪へと意識を戻した。
 深雪の呼吸は浅いまま。規則的ではあるが、弱い。
 気道を確保するためにも寝かせたいところだが、ツギハギだらけの床板の上に寝かせるわけにもいかない。
 しばらく考えた後、躊躇なく羽織を脱いだ。
 そうして、できるだけ大きく開けると床の上に敷いた。
 埃を払う余裕などない。それでも、直接寝かせるよりはましだ。

「……すまん」

 誰に向けたものでもない声が落ちる。
 できるだけ衝撃を与えぬように、そっと深雪をその上へと下ろした。
 壊れ物を扱うかのように、慎重に。
 身体が離れる。その瞬間、ほんの僅かに眉が動いた。
 無意識か、それとも——。

「……」

 目は閉じられたまま、反応はない。頬は青白く、血の気がない姿はまるで幽霊のよう。
 影裂はその様子を見下ろしたまま、動けずにいた。
 何をすればいいのか。
 どうすれば戻るのか。
 分からない。ただ、時間だけが過ぎていく。
 廃神社でしたように額に触れ、もう一度証を刻めばあるいは——とも思ったが、体力が極限まで削られている状態で力を注ぐのは危険過ぎる。
 あの時、自身の霊力とも呼ばれる力を深雪に注いだのは、長らく瘴気に当てられていたから。
 由緒ある家系の巫女とはいえ、生身の人間である以上は鬼よりも脆い。
 一時的にでも人間から妖へと近づけることで、注いだ力が薄れると共に身体を蝕む瘴気も消えていく。生身の人間の状態では、瘴気が薄れる前に事切れてしまうのだ。 
 だから、あの時の影裂は契約を結んだ。ただ、深雪を守るために。

「鬼である俺が、お前をこんなにも——」

 この先に続けるべき言葉は、一体何なのだろうか。
 鬼と人。その間にあるのは明確な敵対関係。それを無視してまで、こうして共にいるのは何故なのか。

『おねえちゃんたちは、ふーふ? それともこいなか?』

 自分よりもよっぽど幼い駿太郎ですら知っていることを影裂は知らない。
 否、教えてくれる人間がいなかった。
 鬼であると知られるだけで敵意を向けられ、人は喰らわぬと言えば鬼なのだからありえないと馬鹿にされる。
 これまでも、今も、人間が嫌いだ。
 一抹の感情の起伏に振り回され、他人どころか種族を超えて害を成す。
 だから、人間は嫌い。
 信じたいとも、信じられたいとも。
 分かり合いとも、知りたいとも思わない。
 そのはずだったのに、たった一人の娘に出会った日から壊れてしまった。

「駿太郎は、若い男女が笑うのは“あいしあっているから”だと言ったが……お前が笑うのは、“あいしている”からなのか?」

 では、“あいしあっている”というのは、どのような状態を指すのだろうか。
 駿太郎にはおじさんと呼ばれ、誰よりも年寄りである自覚はある。千年以上の時を生きる鬼と百年生きられたら十分な人間では、前者が年寄り扱いになるのは当たり前。現に、影裂からしてみれば、深雪はまだ幼子のようなもの。
 それでも、気になる。
 深雪が影裂の前で、隣で、無邪気に笑う理由が。