祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 影が弾けるように広がり、次の瞬間、景色が歪んだ。
 地面も、木々も、空さえも引き裂かれるように遠ざかる。
 踏み込んだはずの足場は消え、代わりに底のない闇が広がった。
 その中を滑る。落ちるのではない。沈むように、進む。
 腕の中の重みだけが、現実を繋ぎ止めていた。

(……まだ、遠いか)

 やけに鮮明な意識の奥で距離を測る。
 知っている場所へ。
 確実に辿り着ける場所へ。
 だが、途中で歪んだ。影の流れが不自然に乱れていく。

「……っ」

 舌打ちを飲み込み、何処までも続く闇を睨め付けた。こうして影に潜るのは慣れたことであるはずなのに、今は何かが違う。
 何処へ辿り着くのか、いつまでも闇が続くのではないかという恐怖が微かながらあった。
 そして、この状態自体が長くはもたない。深く潜りすぎれば、戻れなくなる。
 深雪の血を得て動き回れる程に回復はしたが、癒せるのは傷だけで力までは癒せない。消耗した力を回復させるには、やはり休息が必要だった。
 それでも、止まるわけにはいかない。
 腕の中の呼吸があまりにも浅くなっている。このままでは確実に危ない。
 そこで、弾かれるように視界が開けた。
 消えた足場から飛び降り、その下にあるであろう地面に向かって足を伸ばす。すると、足の裏に柔らかい感触が広がった。

「……は……」

 短く息を吐くと同時に完全に闇が晴れた。視線を下に向けると、草が生い茂る自然に足を踏み入れている。
 周囲を見渡してみれば、そこは見慣れない森だった。
 木々の並びも、空気の重さも、匂いも何もかもが違う。

(ここは……)

 鬼の縄張りがあった山とは違い、完全に見知らぬ場所だ。。
 黄泉守の神社がある山とも明確に異なる気配。もっと濃く、静かで閉じている。
 人の手がほとんど入っていないような、そんな場所。
 だが、不思議と吸い込む空気が苦しくない。深雪と出会ったあの森のような息苦しさが一切感じられなかった。

「ここなら」

 少なくとも、骨喰にすぐに追いつかれることはない。
 鬼というのは、基本的に人里に出ない間は同族と固まって動く。鬼の中でも珍しく、影裂と骨喰、そして紫炎は人里を明確に拒んでいた。
 影裂は人を喰らえぬから。他二人の理由は知らないし、知りたいとも思わない。
 つまり、影裂が知らぬ場所であれば骨喰も知らぬ場所ということ。一先ずは落ち着けそうである。
 影裂は腕の中の深雪を抱え直した。体温が低いまま、意識は戻らない。

「……もう少しだ」

 聞こえているはずもない言葉を落とす。
 腕中野みゆきから視線を外し、前を見据えると足を踏み出した。
 森の奥へ。
 枝を踏み、草を掻き分けながら進む。

(やけに静かだ)

 鳥の声も、虫の音も、ほとんどない。ただ、風が木々を揺らす音だけが微かに響く。
 空を見上げると木々に覆われており、時間の感覚が曖昧になる。
 どれほど歩いたのかも分からない。
 だが、不意に視界が開けた。

「これは……」

 木々の合間にぽつりと佇むようにそれはあった。
 朽ちかけた山小屋。
 自然の中では決して生まれず、人の手で建てられたもの。
 だが、長く使われていないのか、壁は色褪せ、屋根もところどころ歪んでいる。
 それでも、完全に捨てられているわけではない。
 微かに、ほんの微かにだが、人の気配が残っていた。

(気配が強い。頻繁に出入りする人間がいるのか)

 本来なら避けるべきだ。今の状況で、人間と接触するのは危険が多すぎる。
 しかし、腕の中の呼吸が、あまりにも弱い。選んでいる余裕はなかった。

「……入るぞ」

 誰にともなく呟く。
 ゆっくりと戸へ手を掛けると、軋む音を立ててそれは開いた。