祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 あまりにも静かに、あまりにも自然に、深雪はそう言った。
 影裂の瞳が僅かに揺れ、そしてもう一度強く奥歯を噛みしめる。

「馬鹿を言うな」

 低く、押し返すような声のその奥にあるのは、怒りではない。
 困惑と、ほんの微かな焦り。
 人間と鬼の価値観が合致しないことを体現する苦しげなものだった。

「そんなものを、許していいはずがない」
「どうしてですか?」

 さっきから影裂の顔が歪んで見える。靄が掛かったように目の前がぼやけたかと思えば、すぐにはっきりと見えだして。

「傷ついているのは、私です。でも、これは嫌じゃなかった。それに」

 痛いはずの傷も耐えられて、迫りくる恐怖にも耐えられて、やっと自分が存在する意味を見つけられた。
 血の一つや二つ、どうってことないと言いたい。
 影裂が気にすることではないと、貴方は人を喰らわないのだからそれでいいと言いたいのに。
 何故か、上手く声を出すことができない。

「……触れられる理由が、できるなら」

 それはほとんど独り言のようで、ほとんど息と変わらない声が溢れただけだった。
 けれど、確かに届く距離にある。
 今も鼓動を感じられる距離に彼がいるから。身を寄せ合っているから。
 影裂は、何も言わない。
 否、言えない。ただ、目の前の少女を見ることしかままらなかった。
 自分とはまるで違う理屈で立っている存在を理解できない。
 だが、目を逸らすことも、できなかった。

「……っ、あ………」
「深雪っ!?」
 
 呼ばれた声が遠い。揺れる視界が、黒に塗り潰されていく。
 倒れ込んだ先にあったのが、誰のものなのかすら分からないまま——。
 意識が落ちた。
 ぽすん、と鈍い音を立てて、深雪の身体が影裂の胸へと預けられる。

「おい……っ」

 影裂は倒れ込んできた深雪の身体を慌てて抱き留めた。
 あまりにも軽い、軽すぎる。
 そこにあるはずの腕の中の重みが、不自然なほどに頼りない。

「しっかりしろ……!」

 揺さぶるようにして名前を呼ぶが、ぐったりと項垂れる深雪から返事はない。
 閉じられた瞼。
 血の気の失せた頬。
 微かに上下する胸だけが、辛うじて生を示している。
 その様子に、影裂の喉が詰まった。

「……くそ」

 こうなることが分かっていたから、拒んだのだとは言えなかった。
 分かっていても尚、鬼としての本能に抗えなかったのは自分自身。相手が深雪でなければ、きっと今頃食い殺していると。
 それだけ深雪という存在が異質で、特別なのか思い知ってしまう。
 そんな愚かな自分へ向けて、抑えきれなかった本能へ向けて、そして、腕の中で倒れた少女へと視線を落とす。