祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 妖相手に祓わなくて良いと言われたからか、迷いなく刀を抜ける。
 眼前に刀を構え、そっと視線を足元に下げた。
 地面。そこに落ちた、自分達の影。その一部が、ゆらりと、あり得ない方向へ歪んだ。
 風はない。
 動く理由など、何処にもない。
 それなのに、影だけがそこに“意思”を持つかのように蠢いている。

「影裂さん」
「それは俺の能力ではないぞ」
「え……」

 鬼には多種多様の異能が生まれながらに与えられる。それは生きる上で、人を喰らうために最適化された力。
 肉体の再生。常人を遥かに凌ぐ膂力。夜に溶ける気配。
 それらに加え、個々に宿る“異能”。
 影に潜り、影を操る者。骨を生み出し、自在に作り出す者。
 同じ鬼であっても、その在り方は大きく異なる。
 だが、どれも例外な人を狩るための力だった。
 黄泉守家は、そうした人ならざる妖を祓うことを生業としている。ゆえに深雪も、これまで幾度か異能を持つ鬼と刃を交えてきた。
 だが、そのどれとも違う。
 目の前にいる鬼は影を操り、姿を消し、空間すら歪めるような力を持ちながら、人を喰らわない。
 そして、その影を“縛り”としても扱う異端。
 影裂。
 さらに、その影すら捉え侵す異能を持つ鬼。
 骨を生み、操り、増殖させる捕食者。
 骨喰。
 二つの異能は相反するようでいて、あまりにも相性が悪かった。
 
「喰らったか」

 一体何を喰らったというのか。人間か、同族か、異能か。
 これから起きるであろう惨劇を想像し、ぞわり、と背筋が粟立つ。
 逃げなければ。本能が、そう告げた。

「……来た」

 その一言で空気が変わる。
 深雪の足が、半歩だけ後ろへ下がった。
 ——ざり。
 すぐ背後で土を踏む音。今度は、はっきりと聞こえた。
 振り返る。
 だが、そこには何もいない。木々の影が重なり合うだけの、変わらぬ森が広がっているだけ。
 それなのに、確かに“何か”がいる。
 見えないまま、距離だけが詰まってくる。

「え……?」
「下がれ」

 言葉の意味を理解するよりも先に、身体が反応した。
 半歩、後ろへ。
 先程までただ静かだった森が、今は息を潜めて“何か”を待っているようだった。
 風はない。
 葉も揺れない。
 肌に触れる空気だけが、じわりと重くなる。

「隠れているつもりか」

 吐き捨てるように言い放つ。その声音には、確信があった。
 それから、その言葉に応じるかのように影が波打つ。
 足元の黒が不自然に揺れた。
 影だけがざらりと撫でられたように歪んでいく。

「……っ」

 ——ぎし。
 乾いた音が何処からともなく響いた。それは一つではない。
 ぎし、ぎし、と。
 複数の音が四方から重なる。耳に纏わり付く、不快な軋み。

(この音……)

 胸の奥が強く脈打つ。
 鼓動が激しく響くごとに、記憶が勝手に引きずり出された。
 あの夜。
 骨喰が生み出した、あの異形の獣。

「来るぞ」

 低く告げたその瞬間、影が裂けた。