村を離れてから、どれほど歩いただろうか。
人の気配が遠ざかり、代わりに森の匂いが濃くなる。
湿った土と、重なり合う葉のざわめき。耳に届くのは、風と、時折響く鳥の声だけ。
静かだった。
あまりにも静かで、あまりにも不自然だ。
「……どうかしましたか?」
隣を歩く影裂の足が不意に止まったことに気づき、深雪は声を掛けた。
影裂はすぐには答えない。
視線だけを、ゆっくりと森の奥へ向けていた。
「いや」
短く返された声は、いつもと変わらない。
だが、その一言の奥にほんの小さな違和感が混じっていた。
「気のせいだ」
深雪も同じように森の奥へと目を向ける。
だが、見えるのは木々と影ばかりで、何も異常は感じ取れない。
それでも、胸の奥に微かなざわめきが残った。
(……何か、いる?)
確信はない。
ただ、空気がほんの僅かに張り詰めているような気がした。
風の流れが、止まる。
先程まで耳に届いていた葉擦れの音が、不意に途切れた。
木々のざわめきも、遠くの鳥の声も、まるで誰かが掻き消したかのように、すっと消えた。
静かすぎる。
息を吸う音さえ、やけに大きく感じられる。
足を一歩踏み出すと、踏みしめたはずの土の感触が妙に遠かった。
「——止まれ」
その声にはっとした深雪は、影裂の背に隠れるようにして様子を窺う。
影裂につられるようにしてゆっくりと振り返る。
そこには——誰も、いない。
木々の間に人影などなく、揺れるはずの枝葉も微動だにしない。
ただ、静寂だけがあった。
「何でしょうか、この空気」
深雪とて巫女の身。突如として変わった空気の異常さに気づけぬほど鈍感ではない。
なのに、どれだけ目を凝らしてもそれらしきものは見当たらない。
それでも確かに、“何か”がそこにいた。
「深雪。用心しろ」
「はい」
左腰に提げた打刀に手を掛け、静かに鯉口を切る。
右。左。背後。満遍なく辺りに視線を巡らせた。
けれど、何もない。それなのに、感じる気配は消えない。
何かに見られているような、纏わり付く嫌な気配が変わらず漂っている。
(この気配は、妖……でも、瘴気が出るわけでも姿があるわけでもない?)
自身の経験でもも説明のつかない状況に、柄を握る右手が震えた。
とくり、と心臓が脈打つその音に合わせるように——足元で何かが揺れる。
「何?」
「もう追いついたか」
黄昏時も終わる頃、辺りを照らす灯りがなくなっていく。
光の裏には影があるもの。
影裂は静かに前へ手を伸ばすと、影の中で何かを掴む素振りを見せた。
あの雨が降る夜にも見た漆黒の刀が引き抜かれる。
「深雪は黄泉守の巫女だったな」
「ええ、そうですが」
「ならば妖との戦い方も心得ているだろう。祓わずとも、時間稼ぎ程度はできるな」
「おまかせください!」
祓えないものを祓えと言われても、できるはずがない。
前までの環境なら、それでも祓うことが仕事だと言って強要された。
けれど、今隣りにいる人は強要すること無く、できうる技量から役目を与えてくれる。
祓わなくて良いと言われることがこんなにも楽なのだと、初めて気づかされた。

