祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 何処まで逃げられるか、どれだけ楽しませてくれるか見ものである。
 そう言わない代わりに笑みを零した時、背後で枝を踏む音が鳴った。

「……なんで君が来ちゃうかなぁ」

 骨の獣の頭を撫でながら、ゆらりと振り返る。と、その瞬間。
 ちり、と頬を小さな炎が焼いた。
 日に当たってこなかった白い肌が黒く焦げる。しかし、それも一瞬のことですぐに消えた。

紫炎(しえん)
「骨喰よ。何故この我を連れて行かぬのだ! 鬼でもあろうものが人間を庇うなど言語道断!」

 恐らく、鬼の一族の中でこの鬼が一番鬼らしい。
 額から伸びる二本の角。口から覗く牙、溢れ出す炎。赤黒い肌。その姿形は、誰もが想像する鬼そのものだ。

「あーあー。むさっ苦しいんだよ紫炎は。そんな大声出しちゃ気づかれるよ?」
「気づかれることを何故恐れる必要がある!? こんな場所から傍観せずともこちらから向かえば良いものを」
「少し厄介なことになったから慎重に動いてるんだよ。あんたにゃ向いてないから、さっさと帰んな」
「貴様っ!」

 感情の起伏に呼応して、紫炎の口からは炎が溢れ出す。
 骨の獣が骨喰を庇うようにして前に飛び出した。紫炎に向かってグルルと唸る。

「下がんな」

 勘定による抑揚のない短い一言が落ちる。
 それだけで、骨の獣はぴたりと動きを止めた。唸り声を喉の奥に押し込めるようにして、ゆっくりと身を引く。
 それを横目に、骨喰は肩を竦めた。

「やめとけって。ここで暴れたら、せっかくの“獲物”が逃げる」
「逃がすものか!」

 怒声と共に、紫炎の足元から炎が噴き上がる。
 湿った地面が一瞬で乾き、ひび割れ、焦げた匂いが立ち込めた。

「鬼が人間に肩入れするなど——……恥を知れ!」

 吐き捨てるような言葉は、向けられた本人に届くことはない。
 少し前まで河原にいたはずの三人の姿はとうに消えていた。サラサラと流れる川のせせらぎがあるだけ。
 怒りの熱に呼応するように、周囲の空気が揺らいだ。

「恥、ねえ」

 骨喰はくつりと笑った。
 まるでそれが、どうでもいいと言わんばかりに。

「俺はさ、“面白いかどうか”で動いてるだけなんだよ」

 足元の骨を軽く蹴る。転がったそれが、また新たな形を作り始める。

「今すぐ殺すのは、つまらない」

 ぎし、と音を立てて、もう一体の骨の獣が立ち上がった。

「追い詰めて、削って、逃げ場をなくして——……その時の顔を見る方が、ずっといいだろ?」
「……狂っているな」

 紫炎の声が低く沈む。怒りだけではない、明確な嫌悪が混じっていた。
 その言葉に、骨喰の細められた赤い瞳が愉しげに歪んむ。

「鬼は力だ。強さだ。蹂躙するものだ」

 一歩、踏み出すと、炎がその歩みに付き従うように揺れた。

「遊びなど要らぬ。弱きものは焼き尽くせばよい!」

 その言葉と同時に、炎が膨れ上がる。木々の影を舐め、闇を押し返すほどの熱が肌を焼いた。

「だからさぁ」

 骨喰はため息混じりに呟くと、徐ろに突き出した右掌を地面に向けた。
 次の瞬間、地面に散らばっていた骨が一斉に跳ね上がる。
 紫炎の足元へ、影へ、音もなく突き刺さった。

「うるさいんだよ」

 ぎし、と。
 骨が影に食い込む音がした。ほんの一瞬、紫炎の動きが止まる。

「……くっ」
「ほら、こういうの」

 骨喰は楽しげに首を傾げ、舞台に立つ演者のようにわざとらしく両手を広げた。

「真正面からぶつかるだけが、戦いじゃないだろ?」

 拘束は長くは持たない。気休め程度の足止め、時間稼ぎでしかない。
 それでも、その“一瞬”で十分だった。
 熱を冷ます方法は、何も水だけではないから。
 くるりと背を向けると、首だけで振り返り吐き捨てた。

「帰れって言っただろ。ここから先は、俺の獲物だ」

 ひらり、と手を振りながら歩き出し、骨の獣達がその後に続いた。
 炎の熱だけをその場に残して、足音が遠ざかる。

「……骨喰……!」

 低く唸る声が、背後に落ちた。だが、振り返ることはない。
 ただ、その口元には、先程よりも深い笑みが浮かんでいた。