祓えぬ巫女と喰えぬ鬼


 気づけば、もう一度水面へ手を伸ばしていた。
 冷たさが指先を伝う。その向こうで、また笑い声が響く。

(……これが)

 答えのない問が浮かぶと共に、胸の奥に熱が灯る。
 知らないはずの感覚。
 けれど、嫌ではなかった。

「おじさんもこっちきなよー!」

 駿太郎はにかっと笑うと、今度は影裂へと狙いを定めた。
 容赦なく放たれた水が、影裂の胸元に当たって弾ける。衣の一部が濡れ、ひやりとした感触が肌へと伝わった。

「……おい」

 そんなものは何処吹く風とばかりに、駿太郎は声を弾ませた。
 両手で水を掬い上げ、そのまま勢いよく振りかぶる。
 きらり、と陽の光を弾いた水が空中で揺れて、次の瞬間には迷いなく放たれた。

「わあい!」
「逃げろー」

 深雪もつられるように笑いながら、ばしゃばしゃと水を蹴って走り出した。
 浅瀬とはいえ足元は不安定で、進む度に水飛沫が大きく跳ねる。
 そんな二人の背を見て、影裂は小さく息を吐いた。

「……人の子というのは」

 目を瞑りたくなるほど、眩しい。
 穢れを知らず、嘘を知らず。それなのに、時に悲しみ、時に喜ぶ。
 そんな人間が持つ、汚くも美しい産物が目の前では二つも輝いていた。
 影裂はゆっくりと一歩、川へ足を踏み入れる。ひやりとした感触が足元から伝わるが、気にも留めない。
 そのまま、二人の後を追うように歩き出した。

「影裂さんは速いから、捕まらないようにしないとね」
「じゃあ、おじさんがおにねー!」

 逃げる者と、追う者。
 いつの日か月日が流れ、駿太郎が成長した時。
 幼い頃に出会った琥珀色の目を持つ男は、本物の鬼であったと知る日が来るのだろうか。

(どうか、知らぬまま……変わらないでいてくれ)

 次第に歩みは速まり、やがて軽く水を蹴るようになる。
 ぱしゃり、と水が跳ねた。

「捕まえた」

 低く落ちた声と同時に、影裂の手が駿太郎の襟元をひょいと掴んだ。
 母猫が子猫を咥えるようにして、駿太郎の身体はぐにゃりと曲がる。

「わーっ、つかまった!」

 宙に浮いたまま、駿太郎は楽しそうに足をばたつかせる。

「逃げ足だけは早いな」

 呆れたように言いながらも、その声音は何処か柔らかい。
 歪な二人の様子に気づいた深雪が、慌てて引き返してきた。

「駿太郎君、大丈夫——」

 そこまで言いかけて、ふと足を止めた。
 影裂の腕に捕まったまま笑っている駿太郎。その姿に、自然と頬が緩む。

「もう、捕まっちゃったね」

 くすりと笑って近づくと、そのまま勢いを殺しきれずに——。

「えいっ」

 ぽす、と。
 駿太郎を挟むようにして、影裂の方へと身を預けた。

「何を……っ」

 不意を突かれた影裂の声が僅かに揺れる。
 駿太郎が間で挟まれ、きゃはは、と笑い声を上げた。

「捕まえられちゃいました」

 悪びれもなく、深雪はそう言って笑う。
 気づけば、三人の距離はほとんどなくなっていた。
 濡れた衣が触れ合い、体温がじんわりと伝わる。離れようと思えば離れられる距離。
 けれど、誰もすぐには動かなかった。

「……お前達は本当に」

 心底呆れたとばかりの声が零れ落ちる。
 けれど、その腕は駿太郎を離すことなく、ほんの僅かに力を緩めただけだった。
 水音と笑い声の中で、その一瞬だけ静かな温もりがそこにあった。