祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 ふと、隣に気配を感じる。
 音もなく歩み寄ってきたのだろう。気配だけが、静かにそこにあった。
 影裂は、川縁に立ったまま、じっと水面を見下ろしている。
 流れる水を追うでもなく、ただそこにあるものを確かめるように。細められた琥珀の瞳が、揺れる光を映していた。
 足元の水がきらりと跳ねると、その度に僅かに視線が揺れる。
 けれど、それ以上近づこうとはしない。
 踏み入れるでもなく、離れるでもなく。一定の距離を保ったまま、その場に留まっている。
 まるで、知らないものに触れるかどうか、測っているように。
 あるいは、その一歩を踏み出していいのか、迷っているかのように。

「……水、か」

 低く落ちた声には、何処か警戒の色が混じっていた。
 影裂は水面から視線を外さないまま、僅かに足を引く。流れる水音が、かえってその沈黙を際立たせた。
 触れれば何かが変わる。
 そんな気配を無意識に避けているようにも見える。
 人の暮らしの中にある、ごく当たり前のもの。けれど、彼にとっては縁のないもの。
 踏み込めば戻れなくなるような、そんな境界線のように水はそこにあった。

「苦手ですか? 冷たくて気持ちいいですよ」

 差し出された手と、水面とを見比べる。
 ほんの一瞬の逡巡。やがて観念したように、ゆっくりと膝を折った。
 躊躇いがちな動きで、指先を水へと近づける。

「……っ」

 触れたその瞬間、びくり、と肩が揺れた。
 指先から一気に冷たさが走る。鋭く、けれど何処か澄んだ感触が、皮膚を掠めて抜けていく。
 流れる水は容赦なく熱を奪い、触れた場所からじわじわと冷えが広がった。
 思わず、手を引きかける。けれど、指先を残したまま止まった。

「冷たいな」
「ふふ、そうでしょう?」

 ほんの少し緩んだ空気。
 その遣り取りを少し離れたところからじっと見ていた駿太郎が、にやり、と口元を歪めた。
 両手で水を掬い上げると、顔を上げる。
 溢れそうなほどに手の中に溜めて、狙いを定めるように二人を見比べて勢いよく放った。

「えいっ!」
「きゃっ!」

 ぱしゃり、と弾けた水が深雪の頬と袖を濡らす。
 一瞬遅れて冷たさがじわりと広がった。
 驚いて目を見開く深雪を見て、駿太郎は楽しそうに笑う。

「な、何するの!」
「えへへー」
「もう……!」

 無邪気な笑い声が河原に響き渡る。
 もう一度水を掬おうとするのを見て、深雪も少しだけ身を乗り出した。
 袴の裾を捲り上げ、袖口を襷掛けでまとめると、ザブザブと川に入っていく。
 川に手を入れる駿太郎の前に行くと、水を両手いっぱいに掬った。

「いたずらっ子には、こうだっ!」

 掬い上げた水を容赦なく駿太郎へと投げ放つ。
 小さな水飛沫が弾け、笑い声が重なった。

(人のこというのは、何故こんなにも美しいのだろう)

 その様子を影裂は少し離れた場所から見ていた。
 濡れることも気にせず笑う深雪。
 はしゃぎ回る駿太郎。
 ただそれだけの光景。意味もなく、理由もなく、そこにある時間。

「……冷たい………」