祓えぬ巫女と喰えぬ鬼


「ここは、何処だ?」

 低い声が、静かに落ちた。
 立ち止まった影裂の視線の先には、見慣れぬ景色が広がっている。
 開けた空間。踏み固められた土の道。等間隔に並ぶ家々からは、薄く煙が立ち上っていた。
 人の気配が、そこかしこにある。

「村のようですね。山の反対側に、こんな場所があったとは」

 普段、神社がある山に籠もって生活していた深雪にとっても、人里というものは新鮮に感じられた。
 幼い頃はよく山を下ったものだが、近頃は修行だの任務だので山に籠もりきりだったのである。

「人が多い」
「村だから普通だと思うんですけど、もしかして初めてですか?」
「人混みは好かんし、森から出たのは初めてだ」

 人を食らって力を得る鬼にとって、人里は餌の宝庫だ。
 逆に、人を喰らうことを嫌う影裂からしてみれば、息苦しい場所のようである。
 辺りを見渡しながら怪訝な顔をする影裂を見て、深雪はくすりと小さく笑った。

「人が暮らしている場所。食べたり、働いたり、そういう日常があるところです」

 影裂は答えない。ただ、じっとその光景を見つめている。
 行き交う人影。桶を抱えた女。走り回る子供。軒先で談笑する老人。
 どれも、彼にとっては縁のないものばかりだった。

「妙な場所だな」
「妙、ですか?」
「ああ。隙だらけだ」

 ぽつりと落ちた言葉に、思わず苦笑が漏れた。

「そんな見方をするなんて珍しい」
「事実だろう。これだけ人がいれば、何処からでも襲える」
「襲わないでくださいね?」

 揶揄いのつもりで言ったのだが、辺りを見渡していた影裂の目が見開いたまま止まった。
 それからゆっくりと深雪を見て、琥珀色の目を歪める。

「……俺は、喰えぬ鬼だ」
「そうでしたね」

 間髪入れずに返すと、影裂は一瞬だけ目を細めた。
 それ以上は何も言わない。ただ、再び村の方へと視線を戻す。
 その横顔を見ながら、深雪は一歩前に出た。

「行きましょう」
「何処へだ」
「何処って、中に決まっているじゃないですか」
「鬼を人間が暮らす世界へ入れるのか」
「人を喰えない貴方は、人間と何も変わりませんよ」

 喰らわない、ではなく、喰らえない。
 わざとその部分を強調して言った深雪は、振り返って笑った。

「せっかく来たんですから。少しぐらい見ていきましょう!」

 妖と人間が共存できる世界。そんなものがあるのなら、求めたいと思う。
 この世には、鬼でありながら人を喰らうことを拒み、花を愛でる人間らしい鬼がいるのだから。

「お前は本当に……」

 その先に何と続けようとしたのか、深雪の笑顔を見ると影裂は忘れてしまった。
 呆れたように言いかけた代わりに、ほんの僅かに口元が緩む。

「分かった」

 返事を聞いた深雪は嬉しそうに頷くと、くるりと踵を返す。

「では、行きましょう」

 軽やかな足取りで村へと向かう。その背を影裂は少し遅れて追った。
 人の匂いが濃くなる。
 賑やかな人々の声が、拒まれること無くすんなりと耳に届く。
 何も知らない世界の中へ、二人は並んで足を踏み入れた。