祓えぬ巫女と喰えぬ鬼

 ただの挨拶。それだけで、思わず笑みが零れてしまった。

「何をされていたんですか?」
「一晩休ませてもらったから、礼をと思ってな」

 朽ちた祠の中を覗いてみると、明らかに浮いた一輪の花が供えられている。

「これは、竜胆じゃないですか」
「りんどう……。この花の名か」
「はい。もしかして、知らないでお供えしたんですか?」
「どうにも人間の嗜むものには疎くてな」

 辺りを見渡してみると、昨日は気づかなかったが、たくさんの竜胆が咲いていた。
 かつては竜胆が映える美しい神社だったのだろう。
 今や誰からの記憶から欠け落ち、忘れ去られてしまった。

「鬼が花を愛でるなど、おかしいか」
「そ、そんなことないですよ! 花を愛でるのに鬼も人も関係ありません!」

 人間だろうが鬼だろうが、花を愛で美しいと感じていい。
 鬼だから花の美しさが分からないなんていう先入観は、今や遅れた考えだ。
 だって、今深雪の隣りに立つ鬼は、花を愛でているから。
 名前を知らずとも、ただ辺りに咲いていただけだとしても、竜胆を見る彼の目には愛しさがある。

「そうか」

 竜胆から深雪へと視線が移る。
 柔らかく細められた琥珀色の瞳は、深雪だけを映していた。

「なら、お前も少しは変わり者だな」
「えっ……?」

 一瞬、何を言われたのか分からず目を瞬かせる。

「普通の人間なら、鬼に近づこうとはしない。ましてや、花を愛でるなどと肯定もしない」

 淡々とした声音なのに、その奥に僅かな興味が滲んでいる。
 竜胆も、深雪も、祠も、全てが初めて目にするものだと言わんばかりの輝いた瞳を向けられた。

「……そう、でしょうか」

 だが、深雪からしてみれば、鬼が花を愛でることは当たり前で肯定も否定も意味を成さないと思う。
 そして、影裂が物珍しそうに深雪を見る理由も。
 言ってしまえば、目の前にいる深雪は妖を祓うことを生業とした黄泉守家の娘。影裂とは敵同士だ。

「私は、普通の人間じゃないですから」

 自嘲気味に笑うと、その言葉の意味が重く伸し掛った。

「祓えぬ巫女ですし」

 影裂は何も言わない。ただ、深雪を見ている。
 いつだって蔑みの色を含んだ視線しか向けられてこなかった深雪には、その視線が不思議と痛くなかった。
 責められているわけでも、試されているわけでもない。
 存在を確かめるように、見られているだけ。
 それだけなのに、胸の奥が僅かにくすぐったくなる。

「でも、こうして花を綺麗だと思えるなら、それでいいと思うんです」

 そっと、祠の中の竜胆へと視線を向ける。
 屋根が朽ちていようと、苔むしていようと、忘れ去られていようと、備えられた竜胆は色鮮やかで。

「誰にも見られなくても、忘れられていても……ちゃんと咲いてるんですから」

 風が吹き、花が小さく揺れた。

「……似ているな」
「え?」
「この花と、お前が」

 祠に備えた竜胆を見たまま、影裂がゆっくりと目を細める。
 一拍遅れて、言葉の意味が落ちてきた。

「え、ええっ……!?」

 ボンッと音が鳴ったと思うくらい顔が赤くなり、思わず声が裏返る。
 素っ頓狂な深雪の声に、影裂は祠から目を離した。

「わ、私はそんな……花みたいに綺麗なものじゃ……!」
「そういう意味ではない」

 首を振りながら、間髪入れずに答える。

「気づかれずとも、そこに在る。誰に認められずとも、咲き続ける」

 淡々としていて文をなぞっているだけにしか聞こえないのに、決して否定しない。
 肯定でもなく、ありのままの事実を語るだけ。

「強い、ということだ」
「っ……」

 曇りのない真っ直ぐな視線を向けて言われてしまえば、何も言い返すことができない。