一瞬、時間が止まったように静まった。鬼の目が大きく見開かれる。
その間にも、気配は確実に近づいてきていた。
ざり、と足音。
気配はすぐそこまで来ている。
「……逃げる、だと………?」
男は口をポッカリと開け、何度も同じ言葉を繰り返した。
(選んで)
言葉にはしない願いが、そこには存在する。
逃げるか逃げないか。それは、生きるか死ぬかと紙一重。
真っ赤に染まっていて人ならざる姿をしているはずなのに、この鬼よりも母や深冬の方が余っ程恐ろしく感じる。
鬼とは思えないほどの人間らしい優しさが、鬼からは溢れんばかりに感じられた。
やがて。
「馬鹿だな」
鬼は息を吐くように小さく呟く。呆れたような声音だけれど、微かな喜びが滲んだ。
「いいだろう。逃げるなら——……今だ」
深雪の身体を抱いたまま、鬼は勢いよく立ち上がった。
長い間瘴気に当てられたからか、二人の身体がぐらりと傾く。けれど、鬼の手がしっかりと深雪の手を握った。
「走れるか」
「……はい!」
背後で何かが地を蹴る音が鈍く鳴る。次の瞬間には、もう遅い。
「なら、ついて来い」
二人は同時に駆け出した。
森の奥へ、追われる者同士として。
(この人となら、私は……)
確証のない期待が胸の奥で燻る。どうなるか分からなくても、繋がれた手を振り払おうとは思わない。
突き進み続ける森は、思った以上に深かった。
雨で緩んだ地面が足を取る。枝が頬を掠め、濡れた葉が視界を遮る。
それでも、立ち止まることだけは許されない。
「こっちだ」
鬼は森全体を知り尽くしているかの如く迷いなく進む。
握られた手は強く、けれど、決して痛くはなかった。
———ヒュン。
その時、深雪の右頬を何かが光の速さで通り過ぎる。
避ける暇もなく、右頬には赤い一線が刻まれた。ズキリとした痛みが遅れてやってくる。
そして、その痛みに気づくと同時に背後で気配が膨れ上がった。
ざり、ざり、と複数の足音が確実に距離を詰めてくる。
「……速い」
徐々に深雪の息が上がる反面、鬼の呼吸は乱れていない。
巫女装束の深雪も身重だが、着物に羽織ものを身に纏う鬼の方が余っ程身軽に感じられた。
「追いつかれるな」
鬼は首だけで振り返りつつ短く言い、足をさらに速めた。
けれど次の瞬間、目の前に現れた大木に骨の刃が深く突き刺さる。行き止まりだと知らしめるかの如く。
「見つけたぞ、影裂」
二人の歩みが止まると同時に、背後から若い男の声がした。
振り返る間もなく、黒い影が木々の間を滑るように迫る。
「っ……!」
鬼——影裂が深雪を強く引き寄せた。
その直後、深雪の耳のすぐ横を何かが掠める。
木の幹に何かがぶつかる鈍い音が鼓膜を揺らす。
目を向けた先に突き刺さっていたのは——骨。鋭く削られた、刃のような骨片。
「骨喰……」
「逃がすと思った?」
霧の向こうから現れたのは、細身の鬼だった。
その間にも、気配は確実に近づいてきていた。
ざり、と足音。
気配はすぐそこまで来ている。
「……逃げる、だと………?」
男は口をポッカリと開け、何度も同じ言葉を繰り返した。
(選んで)
言葉にはしない願いが、そこには存在する。
逃げるか逃げないか。それは、生きるか死ぬかと紙一重。
真っ赤に染まっていて人ならざる姿をしているはずなのに、この鬼よりも母や深冬の方が余っ程恐ろしく感じる。
鬼とは思えないほどの人間らしい優しさが、鬼からは溢れんばかりに感じられた。
やがて。
「馬鹿だな」
鬼は息を吐くように小さく呟く。呆れたような声音だけれど、微かな喜びが滲んだ。
「いいだろう。逃げるなら——……今だ」
深雪の身体を抱いたまま、鬼は勢いよく立ち上がった。
長い間瘴気に当てられたからか、二人の身体がぐらりと傾く。けれど、鬼の手がしっかりと深雪の手を握った。
「走れるか」
「……はい!」
背後で何かが地を蹴る音が鈍く鳴る。次の瞬間には、もう遅い。
「なら、ついて来い」
二人は同時に駆け出した。
森の奥へ、追われる者同士として。
(この人となら、私は……)
確証のない期待が胸の奥で燻る。どうなるか分からなくても、繋がれた手を振り払おうとは思わない。
突き進み続ける森は、思った以上に深かった。
雨で緩んだ地面が足を取る。枝が頬を掠め、濡れた葉が視界を遮る。
それでも、立ち止まることだけは許されない。
「こっちだ」
鬼は森全体を知り尽くしているかの如く迷いなく進む。
握られた手は強く、けれど、決して痛くはなかった。
———ヒュン。
その時、深雪の右頬を何かが光の速さで通り過ぎる。
避ける暇もなく、右頬には赤い一線が刻まれた。ズキリとした痛みが遅れてやってくる。
そして、その痛みに気づくと同時に背後で気配が膨れ上がった。
ざり、ざり、と複数の足音が確実に距離を詰めてくる。
「……速い」
徐々に深雪の息が上がる反面、鬼の呼吸は乱れていない。
巫女装束の深雪も身重だが、着物に羽織ものを身に纏う鬼の方が余っ程身軽に感じられた。
「追いつかれるな」
鬼は首だけで振り返りつつ短く言い、足をさらに速めた。
けれど次の瞬間、目の前に現れた大木に骨の刃が深く突き刺さる。行き止まりだと知らしめるかの如く。
「見つけたぞ、影裂」
二人の歩みが止まると同時に、背後から若い男の声がした。
振り返る間もなく、黒い影が木々の間を滑るように迫る。
「っ……!」
鬼——影裂が深雪を強く引き寄せた。
その直後、深雪の耳のすぐ横を何かが掠める。
木の幹に何かがぶつかる鈍い音が鼓膜を揺らす。
目を向けた先に突き刺さっていたのは——骨。鋭く削られた、刃のような骨片。
「骨喰……」
「逃がすと思った?」
霧の向こうから現れたのは、細身の鬼だった。

