男に腕を掴まれた瞬間、びくりと肩が揺れた。
振り解こうと思えばできるはずなのに、何故か力が入らない。
「待て」
「な、何か……?」
何かがおかしい。この違和感は一体何だ。
雨が降る中、霞む視界に映る二つの三日月が浮かぶ。
その三日月が、一瞬の内に赤く染まり上がった。
(───鬼)
そこでようやく気がつく。
雨と風でもう解けている包帯から覗く腕にあったはずの傷が、もう消えている。
「何奴っ!」
咄嗟に左手に握っていた打刀を抜き、男の喉元に切っ先を突き立てた。
雨粒が切っ先から滴り落ち、ひとつ落ちるごとに張り詰めた緊張が増す。
「……まさかとは思っていたが、本当に黄泉守の巫女とは」
「貴方は何者だ」
「見て分かるだろう。俺は人ならざる存在、お前の忌み嫌う鬼だ」
斬れ。
本能が叫ぶ。
斬れ。
深冬の声が、母の声が叫ぶ。
斬れ。
深雪自身の声が叫ぶ。
「斬れよ」
男の声が腹の底に落ちた。
やはりそうだ。あの夜、神社まで深雪を運んだのはこの男。
一抹の優しさを見せ、確かな温もりを与えてくれた誰か。
「斬りません」
「……どうして、斬らない」
「嫌だからです」
「何故だ。何故斬らない。お前達黄泉守家は、妖を祓うことを生業としているはずだろう」
「私は、無条件に妖を祓いたくはありません!」
この場に深冬も母もいない。だから、刀を納めたとて誰も叱らない。
「離してください。今なら見逃しますから」
鬼から目を逸らし、強く奥歯を噛みしめる。
この鬼が何処から来たのか、何故傷だらけだったのかなど知りもしない。
ただ、あの夜に向けられた優しさだけは本物であると。
深雪はその優しさだけを信じて、鬼から目を逸らし続けた。
「ここは、ありがとうと言うべきところなのだろうが……」
離されるかと思っていた手に再び力が籠もる。
何をするんだとって振り返る前に、深雪は鬼の前に座り込んでいた。
「お前も手当が必要だ」
「な、何をっ……必要ありません! 早く逃げて───」
言い終えるよりも先に、額に柔らかなものが触れた。
それは一瞬で、それなのに確かに熱を残して離れていく。
驚く間もなく離れていくそれは、妙に熱くて言葉の続きを奪っていった。
「───お礼だ」
「へっ……?」
額に手を添えると、やんわりとした温もりがある。すぐに消えてしまうが、掌いっぱいに感じた。
「逃げるべきはお前の方だろう。ここは、お前が来るような場所ではない」
「そんなことはありません。この森は、我が黄泉守家が管理する神域です。逃げるべきは、貴方の方かと」
「はあ、分からんか。ここは俺達の縄張りだ」
ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
鬼の瞳が再び三日月に戻った頃、あれだけ激しく降っていた雨が止んでいた。
「だから、早く帰れ」
「……帰りません」
「は?」
「帰れないんです。私には、帰る場所がない」
今帰ってしまえば、また妖を見逃したのかと蔑まれる。
つい数刻前に出たばかりなのにもう帰ってきたのかと、愚か者として嘲られる。
そう分かりきっているから、帰りたくない。
否、きっと今戻ったところで自分の居場所など何処にもないのだ。
だから、帰れない。帰る場所がない。
「お前も、同じか」
強く掴んでいた手が離れ、男は顔を伏せた。
振り解こうと思えばできるはずなのに、何故か力が入らない。
「待て」
「な、何か……?」
何かがおかしい。この違和感は一体何だ。
雨が降る中、霞む視界に映る二つの三日月が浮かぶ。
その三日月が、一瞬の内に赤く染まり上がった。
(───鬼)
そこでようやく気がつく。
雨と風でもう解けている包帯から覗く腕にあったはずの傷が、もう消えている。
「何奴っ!」
咄嗟に左手に握っていた打刀を抜き、男の喉元に切っ先を突き立てた。
雨粒が切っ先から滴り落ち、ひとつ落ちるごとに張り詰めた緊張が増す。
「……まさかとは思っていたが、本当に黄泉守の巫女とは」
「貴方は何者だ」
「見て分かるだろう。俺は人ならざる存在、お前の忌み嫌う鬼だ」
斬れ。
本能が叫ぶ。
斬れ。
深冬の声が、母の声が叫ぶ。
斬れ。
深雪自身の声が叫ぶ。
「斬れよ」
男の声が腹の底に落ちた。
やはりそうだ。あの夜、神社まで深雪を運んだのはこの男。
一抹の優しさを見せ、確かな温もりを与えてくれた誰か。
「斬りません」
「……どうして、斬らない」
「嫌だからです」
「何故だ。何故斬らない。お前達黄泉守家は、妖を祓うことを生業としているはずだろう」
「私は、無条件に妖を祓いたくはありません!」
この場に深冬も母もいない。だから、刀を納めたとて誰も叱らない。
「離してください。今なら見逃しますから」
鬼から目を逸らし、強く奥歯を噛みしめる。
この鬼が何処から来たのか、何故傷だらけだったのかなど知りもしない。
ただ、あの夜に向けられた優しさだけは本物であると。
深雪はその優しさだけを信じて、鬼から目を逸らし続けた。
「ここは、ありがとうと言うべきところなのだろうが……」
離されるかと思っていた手に再び力が籠もる。
何をするんだとって振り返る前に、深雪は鬼の前に座り込んでいた。
「お前も手当が必要だ」
「な、何をっ……必要ありません! 早く逃げて───」
言い終えるよりも先に、額に柔らかなものが触れた。
それは一瞬で、それなのに確かに熱を残して離れていく。
驚く間もなく離れていくそれは、妙に熱くて言葉の続きを奪っていった。
「───お礼だ」
「へっ……?」
額に手を添えると、やんわりとした温もりがある。すぐに消えてしまうが、掌いっぱいに感じた。
「逃げるべきはお前の方だろう。ここは、お前が来るような場所ではない」
「そんなことはありません。この森は、我が黄泉守家が管理する神域です。逃げるべきは、貴方の方かと」
「はあ、分からんか。ここは俺達の縄張りだ」
ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
鬼の瞳が再び三日月に戻った頃、あれだけ激しく降っていた雨が止んでいた。
「だから、早く帰れ」
「……帰りません」
「は?」
「帰れないんです。私には、帰る場所がない」
今帰ってしまえば、また妖を見逃したのかと蔑まれる。
つい数刻前に出たばかりなのにもう帰ってきたのかと、愚か者として嘲られる。
そう分かりきっているから、帰りたくない。
否、きっと今戻ったところで自分の居場所など何処にもないのだ。
だから、帰れない。帰る場所がない。
「お前も、同じか」
強く掴んでいた手が離れ、男は顔を伏せた。
