日の落ちた山は冷え込みが厳しい。
七珠那は自分の腕をさすりつつ、少しでも体を温めようとした。
不幸にも今日は新月。月で時間を測ることもかなわない。
ひょっとしたら、今はそれでよかったのかもしれないと七珠那は思う。
御野山へ足を踏み入れてからずっと、七珠那は無心になって足を動かし続けた。
時間が分かってしまえば、その長さに心が挫けていたに違いない。
着物の裾は土と泥に汚れ、草履も足袋も夜露にぬれてぐっしょりと湿っている。
指先の感覚は、とっくの昔に消えていた。
歩けども歩けども、道は開けない。なのに小さな光は、七珠那を誘い、ひたすら急かす。
七珠那は凍えた息を吐きながら、いつかのことを懐かしく思った。
あれは、七珠那がまだ新入りの石拾いだった頃。雪の降る日。
ちらつく程度だった雪は、いつの間にか風に巻き上げられ、七珠那の頬や手足を打ちつけるようになった。
綿の入った上着を体に巻き付けていても、冷気は体を刺す。
だんだんと七珠那の足は重くなり、とうとう膝をついてしまった。
(おかあさん……! おかあさん……助けて。七珠那を助けて)
叫ぶ声すらも、吹雪にさらわれる。
両親を妖魔に殺され、生まれ育った里を出て、一人で働く。
全てを飲み込んだつもりでも、七珠那はまだ十を過ぎたばかりの子どもだった。つらい時に、亡き母を求めることは仕方のないことだった。
涙と吹雪でかすむ視界に、七珠那はかすかな光を捉えた──そう、今のように。まるで導くかの如く。
光は、瞬き、揺らぎ、七珠那を呼ぶ。七珠那はほとんど反射的に、光を追いかけることになった。
その先で、見たのだ。
手を広げ、七珠那を待つ人影を。
光を背に佇むその影の顔形はわからない。だが、なよやかな体躯は間違いなく女性のもので、それは七珠那の母に似ているような気がした。
(おかあさん?)
七珠那は無我夢中で駆け寄った。雪に足を取られながらも走り、光に飛びこむように抱き着いた。
(おかあさん──!)
その瞬間、何やら暖かいものに包まれたような気がして、ほっとして、七珠那は意識を手放したのだった。
「もし、御野山の神が、望む場所へ、人の元へお導きくださるのなら」
七珠那はもう十六。両親の死はすっかり受け入れていた。
御野山を彷徨うことも、いつの間にかつらいと思わなくなった。
あの時、神の情けで母と出会わせてくれたのなら、どうかもう一度と祈る。
「──会わせてください」
今の七珠那が会いたいのは、両親ではなかった。両親が住む神々の庭へ、まだ行きたいとはまだ思えない。
七珠那が帰りたい場所は、行きたい場所はただ一つだけ。
「どうか、圭章様の元へ導いてください」
まだ、生きたい。役に立ちたい。愛しい気持ちを伝えたい。手を取り合い、この先を歩みたい。
未来の約束をしたばかりなのだ。来年があるのだと、お互いに疑っていなかった。
だから──
「会いたいの! 一緒にいたい! どうか──!」
光は進むのを止め、七珠那を待つように漂っている。
そこに、なにかあるのかもしれない。そんな予感に導かれて、懸命に手を伸ばした。
(つかまえた──!)
光が手の中に納まる。感じたのは、暖かな──熱い程の温度だった。
「七珠那!」
そして、声が聞こえる。
七珠那が待ち焦がれた声だった。
声を聴いただけで、張り詰めていたものがほどけていく。
安堵のあまり、膝から力が抜けそうになるのを、七珠那はかろうじて堪えた。
ここは幼い少女にしか許されない不帰の山なのだ。
大人の男である圭章が、立ち入ることなど、出来ないはず。
「──七珠那!」
だというのに、間違いない。
光の向こうから抜け出る様にして現れた姿に、七珠那は驚きのあまり息を止めてしまった。
「圭章様、どうして──!」
凍えた喉から、掠れた声が零れ落ちる。
「この山は、男の人が、大人が立ち入っては……」
「わかってる」
圭章は短く言い、七珠那の言葉を遮った。
「だが、お導きくださった。だから、大丈夫。きっと一緒に帰れる」
そのまま、掴んだ七珠那の腕を引き、その胸へと抱き寄せた。
温かな体温。大きく上下する胸。せわしなく吐き出される息。
七珠那のために、懸命に山を探したのだということが、言葉なくともわかる。
七珠那は、婚約者の腕の中で、深い息を吐いた。こんなに幸せなことは無かった。
帰るべき場所へ帰ることが出来たと思えたのだ。
「圭章様も、あの光を?」
「あぁ──」
ならば、やはり御野山の神がなされたことなのだ。
意図せず足を踏み入れることになった七珠那を憐れんで、下さったに違いない。
「おそらく、如何なる策略があったとしても、この山で七珠那を害することはできないのだと思う」
「え──?」
理解できないまま、七珠那は圭章の胸に手を突き、顔を上げた。
「七珠那は、かつて、ここで母を求めて彷徨ったのだろう?」
「それは、そうです──けれど……!」
「この山には、子を求める母君がおわすではないか」
圭章が、御野山の頂上がある方向を指す。
一拍遅れて、七珠那はようやくその答えに思い至った。
「天御玉比売?」
子を失い、この山に籠ることなった女神。
悲しみのあまり、子と同じ嫁入り前の娘達以外を拒んだ。
「あぁ、天御玉比売が七珠那に加護をくださったのだろう」
「天御玉比売は子宝と豊穣の神なのに、どうして……」
どうして、あちらとこちらに作用する加護の力を授けることができたのか。
言葉にならない疑問を読み取り、圭章は言う。
「比売は、子を失ったことを嘆き、山を閉ざした。子宝と豊穣と──結界の神と呼ぶべきなのかもしれない」
あぁ、と七珠那は声をこぼした。
(なら、私がこの山でお会いしたのは、おかあさんではなかったのね……)
七珠那はすでに、加護をあたえし神との対話を終えていたのだ。気づかぬうちに。
そのことを、少しだけ悲しいと思う。
同時に、七珠那が慰められたように、子を失った母神の御心も慰められていたのであればと思った。
「比売が私を拒絶するはずがない」
圭章が、含み笑いの声で言う。
「娘婿の顔を見たいと思うのも、試したいと思うのも、母心なのだろうから」
神様だというのに、あまりにも人臭い理屈に、思わず七珠那も笑ってしまった。
ひとしきり微笑みを交わし合い、どちらからともなく、七珠那と圭章は山頂へと顔を向けた。
人知れず見守ってくれた母なる神に、深々と首を垂れた。
顔を上げれば、疲労の色の濃い顔に、心からの安堵を浮かべた圭章と目が合った。
伸びかけの髪は乱れ、目の下には隈が刻まれている。
きっと自分も同じような顔をしているのだろう。酷い身なりなのもお互い様だ。
その姿すらも、忘れたくないほど愛おしいと思える。
「帰ろう。七珠那」
「はい──!」
気づけば常闇にはわずかな日の光が差し始めている。
七珠那は圭章に手を引かれ──やがて、七珠那が圭章を導きながら山を下っていった。
七珠那は自分の腕をさすりつつ、少しでも体を温めようとした。
不幸にも今日は新月。月で時間を測ることもかなわない。
ひょっとしたら、今はそれでよかったのかもしれないと七珠那は思う。
御野山へ足を踏み入れてからずっと、七珠那は無心になって足を動かし続けた。
時間が分かってしまえば、その長さに心が挫けていたに違いない。
着物の裾は土と泥に汚れ、草履も足袋も夜露にぬれてぐっしょりと湿っている。
指先の感覚は、とっくの昔に消えていた。
歩けども歩けども、道は開けない。なのに小さな光は、七珠那を誘い、ひたすら急かす。
七珠那は凍えた息を吐きながら、いつかのことを懐かしく思った。
あれは、七珠那がまだ新入りの石拾いだった頃。雪の降る日。
ちらつく程度だった雪は、いつの間にか風に巻き上げられ、七珠那の頬や手足を打ちつけるようになった。
綿の入った上着を体に巻き付けていても、冷気は体を刺す。
だんだんと七珠那の足は重くなり、とうとう膝をついてしまった。
(おかあさん……! おかあさん……助けて。七珠那を助けて)
叫ぶ声すらも、吹雪にさらわれる。
両親を妖魔に殺され、生まれ育った里を出て、一人で働く。
全てを飲み込んだつもりでも、七珠那はまだ十を過ぎたばかりの子どもだった。つらい時に、亡き母を求めることは仕方のないことだった。
涙と吹雪でかすむ視界に、七珠那はかすかな光を捉えた──そう、今のように。まるで導くかの如く。
光は、瞬き、揺らぎ、七珠那を呼ぶ。七珠那はほとんど反射的に、光を追いかけることになった。
その先で、見たのだ。
手を広げ、七珠那を待つ人影を。
光を背に佇むその影の顔形はわからない。だが、なよやかな体躯は間違いなく女性のもので、それは七珠那の母に似ているような気がした。
(おかあさん?)
七珠那は無我夢中で駆け寄った。雪に足を取られながらも走り、光に飛びこむように抱き着いた。
(おかあさん──!)
その瞬間、何やら暖かいものに包まれたような気がして、ほっとして、七珠那は意識を手放したのだった。
「もし、御野山の神が、望む場所へ、人の元へお導きくださるのなら」
七珠那はもう十六。両親の死はすっかり受け入れていた。
御野山を彷徨うことも、いつの間にかつらいと思わなくなった。
あの時、神の情けで母と出会わせてくれたのなら、どうかもう一度と祈る。
「──会わせてください」
今の七珠那が会いたいのは、両親ではなかった。両親が住む神々の庭へ、まだ行きたいとはまだ思えない。
七珠那が帰りたい場所は、行きたい場所はただ一つだけ。
「どうか、圭章様の元へ導いてください」
まだ、生きたい。役に立ちたい。愛しい気持ちを伝えたい。手を取り合い、この先を歩みたい。
未来の約束をしたばかりなのだ。来年があるのだと、お互いに疑っていなかった。
だから──
「会いたいの! 一緒にいたい! どうか──!」
光は進むのを止め、七珠那を待つように漂っている。
そこに、なにかあるのかもしれない。そんな予感に導かれて、懸命に手を伸ばした。
(つかまえた──!)
光が手の中に納まる。感じたのは、暖かな──熱い程の温度だった。
「七珠那!」
そして、声が聞こえる。
七珠那が待ち焦がれた声だった。
声を聴いただけで、張り詰めていたものがほどけていく。
安堵のあまり、膝から力が抜けそうになるのを、七珠那はかろうじて堪えた。
ここは幼い少女にしか許されない不帰の山なのだ。
大人の男である圭章が、立ち入ることなど、出来ないはず。
「──七珠那!」
だというのに、間違いない。
光の向こうから抜け出る様にして現れた姿に、七珠那は驚きのあまり息を止めてしまった。
「圭章様、どうして──!」
凍えた喉から、掠れた声が零れ落ちる。
「この山は、男の人が、大人が立ち入っては……」
「わかってる」
圭章は短く言い、七珠那の言葉を遮った。
「だが、お導きくださった。だから、大丈夫。きっと一緒に帰れる」
そのまま、掴んだ七珠那の腕を引き、その胸へと抱き寄せた。
温かな体温。大きく上下する胸。せわしなく吐き出される息。
七珠那のために、懸命に山を探したのだということが、言葉なくともわかる。
七珠那は、婚約者の腕の中で、深い息を吐いた。こんなに幸せなことは無かった。
帰るべき場所へ帰ることが出来たと思えたのだ。
「圭章様も、あの光を?」
「あぁ──」
ならば、やはり御野山の神がなされたことなのだ。
意図せず足を踏み入れることになった七珠那を憐れんで、下さったに違いない。
「おそらく、如何なる策略があったとしても、この山で七珠那を害することはできないのだと思う」
「え──?」
理解できないまま、七珠那は圭章の胸に手を突き、顔を上げた。
「七珠那は、かつて、ここで母を求めて彷徨ったのだろう?」
「それは、そうです──けれど……!」
「この山には、子を求める母君がおわすではないか」
圭章が、御野山の頂上がある方向を指す。
一拍遅れて、七珠那はようやくその答えに思い至った。
「天御玉比売?」
子を失い、この山に籠ることなった女神。
悲しみのあまり、子と同じ嫁入り前の娘達以外を拒んだ。
「あぁ、天御玉比売が七珠那に加護をくださったのだろう」
「天御玉比売は子宝と豊穣の神なのに、どうして……」
どうして、あちらとこちらに作用する加護の力を授けることができたのか。
言葉にならない疑問を読み取り、圭章は言う。
「比売は、子を失ったことを嘆き、山を閉ざした。子宝と豊穣と──結界の神と呼ぶべきなのかもしれない」
あぁ、と七珠那は声をこぼした。
(なら、私がこの山でお会いしたのは、おかあさんではなかったのね……)
七珠那はすでに、加護をあたえし神との対話を終えていたのだ。気づかぬうちに。
そのことを、少しだけ悲しいと思う。
同時に、七珠那が慰められたように、子を失った母神の御心も慰められていたのであればと思った。
「比売が私を拒絶するはずがない」
圭章が、含み笑いの声で言う。
「娘婿の顔を見たいと思うのも、試したいと思うのも、母心なのだろうから」
神様だというのに、あまりにも人臭い理屈に、思わず七珠那も笑ってしまった。
ひとしきり微笑みを交わし合い、どちらからともなく、七珠那と圭章は山頂へと顔を向けた。
人知れず見守ってくれた母なる神に、深々と首を垂れた。
顔を上げれば、疲労の色の濃い顔に、心からの安堵を浮かべた圭章と目が合った。
伸びかけの髪は乱れ、目の下には隈が刻まれている。
きっと自分も同じような顔をしているのだろう。酷い身なりなのもお互い様だ。
その姿すらも、忘れたくないほど愛おしいと思える。
「帰ろう。七珠那」
「はい──!」
気づけば常闇にはわずかな日の光が差し始めている。
七珠那は圭章に手を引かれ──やがて、七珠那が圭章を導きながら山を下っていった。
