日暮れ前に首都を出て、圭章は衿禾と共に、御野山の麓──加護の里を目指した。
宿場町で馬車を降り、ともかく一番の早馬をと願って手配してもらった。自分たちが腰かける場所など、荷馬車だろうがなんでも構わなかった。そうして不眠不休で街道を駆け、西へ行くこと半日。
日付が変わり、夜明けまで一刻という頃だった。
新月の夜だった。太陽の気配はまだ遠く、濃厚な夜の気配が、未だに空に漂っている。
「何事ですか!」
未だに眠りに包まれる加護の里をたたき起こす無礼な客に、明官は狼狽していた。
寝乱れた姿の上に羽織りだけをかぶった姿で現れた彼は、圭章と衿禾を見て唖然とした。
「一体、これは──!」
「七珠那が拉致されて、この里へ連れて来られたはずだ。明官殿、お前も共犯ではないだろうな」
圭章は、明官に凄む。
「七珠那? 何故あの娘が今更? 拉致って……そんな、まさか」
明官は、信じられない様子で青ざめていた。
圭章と衿禾は顔を見合わせ、頷いた。少なくとも、この驚き様は嘘ではない。
「少なくとも、ここに連れて来られたはずだ。不審な者や馬車を見なかったか?」
「し、知りませんよ! そんなの。この里は静かな里です。寝ずの作業をするものもおります。馬車や何人もぞろぞろとやってくれば、誰かしらが気づくはずです」
「しかし──!」
「誰か──! 誰か! 起きて! お願い!」
明官の声を裂いて、女の声が響く。夜を切り裂くような叫び声だった。
まだ幼い少女が、ふらつきながら駆けてくるのが見える。
質素な身なりをした少女の顔を、圭章は覚えていた。
「あれは、確か中屋敷の……」
「かえでです。──かえで! 何があったの!」
衿禾が声を張り上げると、かえでが近づいて来る。
その顔は、土で汚れていて、枝で切ったのか頬に何筋もの切り傷があった。拭うのを忘れた涙の跡が、残っている。
「衿禾様!」
そして、圭章の姿を認め、耐えかねたように体を折った。咽び泣く声がする。
「申し訳──申し訳ございません! 私……、私が……!」
「一体何があったんだ! どうしてかえでがここにいるんだ!」
明官は混乱しきっていた。早口にかえでを問いただす。かえでは、つっかえながら、答えた。
「七珠那が……東の入口から御野山に、入りました……!」
「そんな──馬鹿な……!」
「脅されて、逃げようとしたら殺されちゃうから……! 私に、加護の里に行けって、知らせてって……でも、一人で残って、七珠那が山に」
かえでの震える指先が、御野山を差す。
その稜線は暗がりに沈んで見えない。山の麓の森からは、枝葉をこすり合う音が聞こえる。人ならざる者が声にならない声でささやき合い、まるで圭章を、無力な人間を嘲笑っているように思えた。
(七珠那──!)
「なりません!」
圭章の足が、真っ先に動いた。御野山へと駆けだそうとする腕を、衿禾が掴んだ。
「許しもなく、御野山へ入れば神の怒りに触れます。帰れなくなるんです」
「しかし──七珠那が中に!」
足を止め、圭章は思考を巡らせる。
「明官様殿、他の石拾いを借りれませんか?」
思いつきの言葉だったが、元巫女だった衿禾は、圭章の言わんとすることを察したようだった。
「そうだわ……!」
早口で明官に伝える。
「明官様! 石拾い達に、夜が明け次第山に入ってもらって、七珠那を探してもらうことはできませんか?」
「そんなこと──出来るわけがない!」
明官は、即座に衿禾の提案を切って落とす。
「ただでさえ、今の石拾いは入って来たばかりで山に慣れていないんだ! 人探しなんてできるはずがない! それに、見つけたところで七珠那を連れて山を出られる保証はないじゃないか!」
危険は冒せない。明官の言うことも当然のことなのだ。
圭章は、愕然と御野山を見上げた。恵みをもたらすはずの霊山。神の山。
それが、今、圭章からかけがえのないものを取り上げようとしている。
圭章は、集った面々の顔を順に眺めた。
明官は、気まずそうに目を逸らし、衿禾は悲しそうにまつげを伏せた。かえでは──視線があった途端、一層涙をあふれさせ、苦しそうに喘いだ。
誰も言葉にしない。だからこそ、何を思っているのか、嫌と言う程わかってしまう。
(──打つ手が、ない)
許しなく山に入れば出ることは叶わず、探しに行きたくても行けない。誰かに頼みたくてもそれを許されない。
圭章は、膝から力が抜けていくのを感じた。
圭章に残された道は、将来を誓った相手を諦めるか、敢えて不帰の山に踏み込み、心中するかだ。踏み込んだとて、出会えるかもわからないのに。
(英雄だと持ち上げられて、偉そうなことを言って──なのに何もできない)
己の無力さに打ちひしがれる圭章に、誰もが掛ける言葉を持たなかった。
──顔を上げて──
どこからともなく促す声が聞こえてきて、圭章ははじかれたように頭を上げた。
明官の声でも、かえでの声でも、衿禾の声でもない。頭に直接語り掛けてくるような、幻のようなか細い声。
常闇に閉ざされた森を見つめる圭章の目に、淡い光が飛び込んでくる。
まるで、消え入りそうな蝋燭のような。夜空に見え隠れする小さな星のような。
「衿禾殿……あれは……」
「何? 何かありますの?」
巫女であった衿禾に尋ねるも、彼女は見えていないようだった。
(私にだけ見えるということなのか……)
瞬きをしても、光は消えず、圭章を待つように揺れている。
(お導き、下さる……?)
圭章は立ち上がった。光は弱弱しく闇に線を描きながら、離れて行こうとする。まるで圭章を誘うように。
もしもこれが、神が下された奇跡なのなら、その先に愛しい人がいるのだろう。
一縷の望みを見出し、圭章の胸は大きく脈打った。
(何故……? 七珠那が勤勉な石拾いだったからなのか? 悪意に呑まれた無辜の民を救おうということなのか?)
それだけがわからない。
「宮水様……?」
圭章はふらりと立ち上がり、注連縄に近づいて行った。明官が訝しみ、頼りない声をかける。
(何かが、引っかかる……何かを見落としている?)
七珠那と出会ってからのことを、圭章は走馬灯のように思い返していた。
義母の振袖を身に着け、感激する姿。喜びを分かち合った日。中屋敷夫妻に傷つけられ、青ざめた顔。拳銃を前に圭章の誓いを、潤んだ目で見つめていたこと。嬉しそうに働く姿。圭章の言葉に腹を立て、真っ赤になった顔。
そして記憶は、初めて出会った日へとさかのぼっていく。
里を去る挨拶をする七珠那の後ろ姿。しゃんと伸びた背筋。うつむくことのない顔。
石拾いの粗末な衣服を身に着けながらも、折れない気持ちがそこにはあった。
その姿に、見惚れてしまった。
──亡くなった母に会った気がするんです。──
吹雪に視界を奪われながら、母を恋しがり、泣きながら彷徨ったのだとい言う。
今も、あの日のように、山を歩き回っているのだろうか。
(あぁ──そうか)
圭章の頭に、閃くものがある。小さな光が結ばれ形になる。
(七珠那は無事だ。絶対に。守られているから。この山のどこかで私を待っているのだろう)
子を恋しがる母もまた、この山にはいるのだ。
もう、迷いは無かった。
「行ってくる」
圭章は、短く告げ、注連縄の前に一度頭を垂れた。
「宮水様!? 駄目です。山に入っては──」
「何も問題はない」
衿禾の声に、圭章は言い放ち、彼女の手が袂を摑まえる前に注連縄を跨ぎ越した。
「義母上に、挨拶をしにいくだけなのだから」
母を求めてさまよう七珠那が、子を亡くして悲しむ母と──天御玉比売と巡り合った。
ただ、それだけの話なのだ。
宿場町で馬車を降り、ともかく一番の早馬をと願って手配してもらった。自分たちが腰かける場所など、荷馬車だろうがなんでも構わなかった。そうして不眠不休で街道を駆け、西へ行くこと半日。
日付が変わり、夜明けまで一刻という頃だった。
新月の夜だった。太陽の気配はまだ遠く、濃厚な夜の気配が、未だに空に漂っている。
「何事ですか!」
未だに眠りに包まれる加護の里をたたき起こす無礼な客に、明官は狼狽していた。
寝乱れた姿の上に羽織りだけをかぶった姿で現れた彼は、圭章と衿禾を見て唖然とした。
「一体、これは──!」
「七珠那が拉致されて、この里へ連れて来られたはずだ。明官殿、お前も共犯ではないだろうな」
圭章は、明官に凄む。
「七珠那? 何故あの娘が今更? 拉致って……そんな、まさか」
明官は、信じられない様子で青ざめていた。
圭章と衿禾は顔を見合わせ、頷いた。少なくとも、この驚き様は嘘ではない。
「少なくとも、ここに連れて来られたはずだ。不審な者や馬車を見なかったか?」
「し、知りませんよ! そんなの。この里は静かな里です。寝ずの作業をするものもおります。馬車や何人もぞろぞろとやってくれば、誰かしらが気づくはずです」
「しかし──!」
「誰か──! 誰か! 起きて! お願い!」
明官の声を裂いて、女の声が響く。夜を切り裂くような叫び声だった。
まだ幼い少女が、ふらつきながら駆けてくるのが見える。
質素な身なりをした少女の顔を、圭章は覚えていた。
「あれは、確か中屋敷の……」
「かえでです。──かえで! 何があったの!」
衿禾が声を張り上げると、かえでが近づいて来る。
その顔は、土で汚れていて、枝で切ったのか頬に何筋もの切り傷があった。拭うのを忘れた涙の跡が、残っている。
「衿禾様!」
そして、圭章の姿を認め、耐えかねたように体を折った。咽び泣く声がする。
「申し訳──申し訳ございません! 私……、私が……!」
「一体何があったんだ! どうしてかえでがここにいるんだ!」
明官は混乱しきっていた。早口にかえでを問いただす。かえでは、つっかえながら、答えた。
「七珠那が……東の入口から御野山に、入りました……!」
「そんな──馬鹿な……!」
「脅されて、逃げようとしたら殺されちゃうから……! 私に、加護の里に行けって、知らせてって……でも、一人で残って、七珠那が山に」
かえでの震える指先が、御野山を差す。
その稜線は暗がりに沈んで見えない。山の麓の森からは、枝葉をこすり合う音が聞こえる。人ならざる者が声にならない声でささやき合い、まるで圭章を、無力な人間を嘲笑っているように思えた。
(七珠那──!)
「なりません!」
圭章の足が、真っ先に動いた。御野山へと駆けだそうとする腕を、衿禾が掴んだ。
「許しもなく、御野山へ入れば神の怒りに触れます。帰れなくなるんです」
「しかし──七珠那が中に!」
足を止め、圭章は思考を巡らせる。
「明官様殿、他の石拾いを借りれませんか?」
思いつきの言葉だったが、元巫女だった衿禾は、圭章の言わんとすることを察したようだった。
「そうだわ……!」
早口で明官に伝える。
「明官様! 石拾い達に、夜が明け次第山に入ってもらって、七珠那を探してもらうことはできませんか?」
「そんなこと──出来るわけがない!」
明官は、即座に衿禾の提案を切って落とす。
「ただでさえ、今の石拾いは入って来たばかりで山に慣れていないんだ! 人探しなんてできるはずがない! それに、見つけたところで七珠那を連れて山を出られる保証はないじゃないか!」
危険は冒せない。明官の言うことも当然のことなのだ。
圭章は、愕然と御野山を見上げた。恵みをもたらすはずの霊山。神の山。
それが、今、圭章からかけがえのないものを取り上げようとしている。
圭章は、集った面々の顔を順に眺めた。
明官は、気まずそうに目を逸らし、衿禾は悲しそうにまつげを伏せた。かえでは──視線があった途端、一層涙をあふれさせ、苦しそうに喘いだ。
誰も言葉にしない。だからこそ、何を思っているのか、嫌と言う程わかってしまう。
(──打つ手が、ない)
許しなく山に入れば出ることは叶わず、探しに行きたくても行けない。誰かに頼みたくてもそれを許されない。
圭章は、膝から力が抜けていくのを感じた。
圭章に残された道は、将来を誓った相手を諦めるか、敢えて不帰の山に踏み込み、心中するかだ。踏み込んだとて、出会えるかもわからないのに。
(英雄だと持ち上げられて、偉そうなことを言って──なのに何もできない)
己の無力さに打ちひしがれる圭章に、誰もが掛ける言葉を持たなかった。
──顔を上げて──
どこからともなく促す声が聞こえてきて、圭章ははじかれたように頭を上げた。
明官の声でも、かえでの声でも、衿禾の声でもない。頭に直接語り掛けてくるような、幻のようなか細い声。
常闇に閉ざされた森を見つめる圭章の目に、淡い光が飛び込んでくる。
まるで、消え入りそうな蝋燭のような。夜空に見え隠れする小さな星のような。
「衿禾殿……あれは……」
「何? 何かありますの?」
巫女であった衿禾に尋ねるも、彼女は見えていないようだった。
(私にだけ見えるということなのか……)
瞬きをしても、光は消えず、圭章を待つように揺れている。
(お導き、下さる……?)
圭章は立ち上がった。光は弱弱しく闇に線を描きながら、離れて行こうとする。まるで圭章を誘うように。
もしもこれが、神が下された奇跡なのなら、その先に愛しい人がいるのだろう。
一縷の望みを見出し、圭章の胸は大きく脈打った。
(何故……? 七珠那が勤勉な石拾いだったからなのか? 悪意に呑まれた無辜の民を救おうということなのか?)
それだけがわからない。
「宮水様……?」
圭章はふらりと立ち上がり、注連縄に近づいて行った。明官が訝しみ、頼りない声をかける。
(何かが、引っかかる……何かを見落としている?)
七珠那と出会ってからのことを、圭章は走馬灯のように思い返していた。
義母の振袖を身に着け、感激する姿。喜びを分かち合った日。中屋敷夫妻に傷つけられ、青ざめた顔。拳銃を前に圭章の誓いを、潤んだ目で見つめていたこと。嬉しそうに働く姿。圭章の言葉に腹を立て、真っ赤になった顔。
そして記憶は、初めて出会った日へとさかのぼっていく。
里を去る挨拶をする七珠那の後ろ姿。しゃんと伸びた背筋。うつむくことのない顔。
石拾いの粗末な衣服を身に着けながらも、折れない気持ちがそこにはあった。
その姿に、見惚れてしまった。
──亡くなった母に会った気がするんです。──
吹雪に視界を奪われながら、母を恋しがり、泣きながら彷徨ったのだとい言う。
今も、あの日のように、山を歩き回っているのだろうか。
(あぁ──そうか)
圭章の頭に、閃くものがある。小さな光が結ばれ形になる。
(七珠那は無事だ。絶対に。守られているから。この山のどこかで私を待っているのだろう)
子を恋しがる母もまた、この山にはいるのだ。
もう、迷いは無かった。
「行ってくる」
圭章は、短く告げ、注連縄の前に一度頭を垂れた。
「宮水様!? 駄目です。山に入っては──」
「何も問題はない」
衿禾の声に、圭章は言い放ち、彼女の手が袂を摑まえる前に注連縄を跨ぎ越した。
「義母上に、挨拶をしにいくだけなのだから」
母を求めてさまよう七珠那が、子を亡くして悲しむ母と──天御玉比売と巡り合った。
ただ、それだけの話なのだ。
