畳一面に広げられた色鮮やかな振袖に、七珠那はわぁと感嘆の声を上げた。
「本当に、私がお借りしてもいいんでしょうか?」
宮水の大奥様──七珠那の義母となる予定の方のものだ。
顔合わせもしていない七珠那が勝手に使っていいものだろうか。
「構わない。母にはすでに七珠那のことは伝えてある」
圭章が、鷹揚に構えている。
「母も、先の婚約が破綻したことを悲しんでいた。そのまま相手探しもお見合いも交わし続けていた私が、自分で婚約者を見つけてきたのだから、大喜びしている。今から、自分の何を譲ろうか、引き継いでもらおうかと考えているような人なんだ」
「本当に、七珠那様に着ていただけるのなら、大奥様もおよろこびでしょうね。さぁ、七珠那様、お好みのものがあれば!」
清子が広げてくれた振袖は、圭章の母が嫁入りの際に持って来たものだと言う。
赤地に瑞雲と松竹梅、白地に菊と鶴、臙脂と白黒の市松模様に金で花輪をあしらったもの。それに、絞りの宝尽くし。
どれもこれも、美しく上等なものだというものが分かる。恐る恐る指先で触れると滑らかな生地の手触り。
「七珠那の好みもあるだろうが──出来るなら、私はこれを七珠那に着て欲しい」
圭章が手に取ったのは、臙脂と白黒の市松模様の振袖だった。
大奥様の振袖のほとんどが古典的な柄で、普遍的な美しさを持つものばかりだった。
その中で唯一、雰囲気が違う。はっきりとした色合いと金の模様が、個性的で目を引く。
「母が、父との見合いの際に仕立てたものだと聞いている。思い入れのあるものだと」
「そんな大事なものを……私がお借りするわけには……」
恐れ多く感じる七珠那に圭章は優し気に目を細めた。
「大事なものだからこそ、七珠那に着て欲しい。それに、これが一番七珠那に似合うと思う」
その言葉に、七珠那は無言で頷いた。
喜びが胸に詰まって、言葉にならなかったのだ。
忙しい合間を縫って、圭章が振袖選びに付き合ってくれていること。七珠那のために選んでくれたこと。
全てが幸せで、この振袖を着た姿が圭章にどう見えるのかと想像するだけで、夢見心地になった。
振袖は準備が間に合いそうだったが、問題は洋装だった。
洋装を着る機会は増えてきたとはいえ、慰労会のような特別な時に着るものとなれば、専用で仕立て屋に頼むことになる。
だが、慰労会までが近い今、どの仕立て屋も舞踏会用のご婦人の衣装づくりでが境になっているはずだ。
新しく仕立てることは不可能だ。
結局、圭章は玖遠に相談を持ち掛けたらしい。
玖遠もまた、古くからの守代の家系。宮水家や中屋敷家に劣るが、財力もある。なにより既婚者だ。
この手の話には詳しいだろうという圭章の考えだった。
「お任せください!」
尊敬する先輩からの相談に、彼はそう胸を叩いたのだとか。
其の結果、七珠那は衿禾の衣装を借り受けることになった。
衿禾が昨年の身に着けていたものだ。
仕立て屋に持ち込み、寸法を七珠那に合わせてもらい、出来る範囲で装飾を加えて、手直しをしてもらった。
艶のある水色の生地で仕立てられた衣装は、紺色の縁取りと襟元に襞があるだけの装飾の少ないものだった。
衿禾が纏えば、大人びた清楚な美しさを引き立てるだろう。一方で、七珠那はまだ十六。顔立ちにも幼さが残っている。胸元に花飾りを加え、襟元に小粒真珠を縫い付けた。裾に花の刺繍を施し、華やかさを加える。
それだけで、各段に可愛らしいさが際立つ衣装へと変わっていった。
その衣装を作った鷹司家なじみの店に頼み込んで、どうにか前夜祭の前日中には仕上げてもらうことが出来た。
──そして、前夜祭当日の朝──
七珠那は、衿禾に付き添われて仕立て屋に赴き、衣装を引き取ったのだった。
「本当に、ありがとうございます。衿禾様」
「いいのよ。素敵に仕上がってよかったわ」
用事を終えた衿禾と七珠那は、喫茶店で休憩をすることになった。
七珠那が引き留めたのだ。衿禾に落ち着いた場所で、聞いてみたい話があった。
準備が忙しいのはお互いに百も承知で、申し訳ない気持ちはあった。
衣装の準備だけではない。踊らないと言えども、七珠那は踵のある靴や裾の長い洋装には不慣れだった。歩き方や裾のさばき方を学ぶ必要があった。
衿禾のお古の靴や衣装を譲ってもらい、練習にも付き合ってもらい、どうにか不格好にならないまでに所作を身に着けることが出来た。それに加えて、祈祷や女主人の役割もある。
だが、慰労会が終われば、ここまで頻繁に顔を合わせる機会もなくなるのだろうと思うと、今しかないという気持ちになった。
「──何か、聞きたいことか話したいことがあったんじゃないの?」
衿禾の前に、見たことのない黒い飲み物が運ばれて来る。
それに気を取られていた七珠那は、衿禾の言葉にどきりとした。
まだ、衿禾に何も言っていない。
「どうして……」
「七珠那ってば、ようやく衣装の問題が片付いたのに、ずっと思いつめたような顔をしているんだもの」
七珠那は思わず、自分の頬に手を添えた。
「それに、今まで何度も何か言いたそうな顔をしていたわ」
衿禾は、微笑ましそうに笑って、急かしもしないで七珠那が話し出すのを待っていた。
やがて、七珠那のお茶が運ばれてくる。ゆっくりと揺れる水面が落ち着くのを眺めていた七珠那は、ようやく切り出した。
「衿禾様は、加護を受けた時のことを、覚えていますか?」
「少しだけ。どうして?」
「私、加護を受けた時のことを覚えていなくて。いつ受けたのかも」
巫女は神からの力を預かる。
そんな加護を受けた者として、どの神が見出してくれたのかわからないことは恥ずかしいことだと思っていた。
聞きたくても聞けない。でも、衿禾なら──加護の里にいた時から七珠那を気にかけてくれていた彼女なら、軽蔑することなく聞いてくれるかもしれない。
そんな風な葛藤を繰り返し、ようやく疑問を口にする覚悟が出来たのだった。
「確か、七珠那のは、結界の神の加護だったのよね」
「そういうことになっています。でも自信がなくって」
七珠那の返答は、心もとないものになる。
上の人間がそう言ったというだけで、確証はない。
こんな状態で、守代達の上に立つような人に会って大丈夫なのかと不安になってしまう。
それに、七珠那には、結界の神から加護を受ける心当たりがなかった。
結界の神は──大山土命と呼ばれる男神だ。かつて、天御玉比売が籠る前の御野山へ分け入り、木々を担ぎ、神の世界と人の世界に境目を作ったと言われている。
確かに、妖魔が現れる門は、あちらとこちらの間だ。それを閉じることは、彼が境目を作った逸話と似ている気もする。
「他の方が加護を受けた時のことを聞けば、何か思い出すかもって……。確か、神々との対話があるって聞いたんですが」
「私が加護を受けた時は、儀式の中だったのだけれど……」
衿禾は細い指を唇にあてつつ、記憶を探っている。
「幼馴染の愚痴を言った気がするわ」
「愚痴、ですか?」
予想外だった。七珠那は目を軽く見開く。
「夫──玖遠とは、幼馴染なの。小さい頃よく遊んだわ」
初めて聞く話に、七珠那は興味津々になる。
「私が巫女になるって決めた時に、泣きながら強い守代になって、迎えに行くって、言ってくれたの」
衿禾は恥ずかしそうに、手を顔の前で振りながら笑った。
「でも、私ってば感激するどころか呆れちゃって。夫が年下だから、ずっと弟みたいに思ってたんだけど……泣きながらっていうのが今まで通り、頼りなく見えて。せめて、涙をこらえてくれって思ったわ」
その姿を思い出したのか、衿禾はくつくつと笑った。
「そういう愚痴を言ったような気がするの。雷の神様も、玖遠に同情したのかしら」
「雷の神様も、姉さん女房でしたよね」
「そう──。でも、正直、 あんまり覚えていないの。気のせいだったような気もする。巫女の中には全く覚えていない人もいるし、忘れちゃったって言う人もいたわ。対話があるって言われているけれど、記憶に無いんじゃぁ、ね……」
衿禾はまとめると、卓の上に置いてある七珠那の手を取った。
「だから、ね。記憶に無いことを恥じる必要も怖がる必要もないの。ましてや、七珠那が自分を責める必要はないわ」
「衿禾様」
「神様が七珠那のことを気に入ってくださったの。呪いだなんて、とんでもないわ。私、七珠那ならどの神様に気に入られても不思議じゃないって思ってるのよ」
力強い言葉だった。
「ずっと真面目に石拾いをしていたんだもの。七珠那がどれほど一生懸命だったのか、我慢強いのかも──私は知ってるつもりよ」
衿禾は、七珠那と同じぐらいの時期に加護の里にやって来た巫女だった。
七珠那が最も年若い石拾いだった頃のことも、よく知っている。
七珠那はようやく、目元を緩めた。
彼女だからこそ、説得力のある言葉だった。それだけではない。同じことを、言ってくれた人がいるのだ。
「圭章様も、そう言ってくださいました」
「やっぱり! なら絶対そうよ!」
はしゃぐ衿禾に、七珠那もまた笑った。
(大丈夫、ね……きっと)
衿禾と話をして、気分が軽くなった。
礼を言い、店を出て、そこで衿禾と別れた。
衿禾はこれから家に帰って、前夜祭のために髪を整えたり、化粧をしたりするらしい。
(私も準備をしないと)
七珠那もまた、宮水家と反対方向に足を踏み出した。
七珠那は、このまま直接宮水家が懇意にしている美容院に行くことになっている。美容院で着付けと身支度を整えてもらい、馬車を手配して、圭章とは鳳寿館の前で合流することになっている。
洋装もその美容院で着付けてもらうから、衣装もあずかってもらう予定だった。
「一緒に行ってやりたかったんだが」
そう申し訳なさそうにしていた圭章は、前夜祭の直前まで、なにやら打ち合わせがあるらしい。
(圭章様は、似合うと言ってくださるかしら)
七珠那は思いながら、洋装の包みを抱きしめた。
信じてくれている人が、こんなにもいる。
前夜祭では、加護を受けたことを誇りに思い、しっかりと胸を張るのだ。
(これを着て、圭章様の隣に立つの。相応しいように、姿勢を伸ばして、顔を上げて)
そう決意して、美容院に向かっていた七珠那だったが、表通りを一本それたところで、突然手を掴また。
七珠那は小さく飛び上がった。
振り向いて、驚愕のあまり動きが止まってしまった。
「七珠那」
かえでが、爛々と光る目で七珠那を見ていたのだ。
「七珠那一緒に来て。馬車に乗るの」
かえでの後ろには、馬車が止められている。たっぷりとした襞を作った布が掛けられた窓からは、中の様子が見えない。
「なにを……」
七珠那はかえでの手を振り払おうとした。
だが、小さな手にどうしてそんな力があるのか、かえでの手は離れない。それどころか、痛い程強く握ってくるではないか。
「離して、かえで!」
「七珠那は御野山に、加護の里に帰るの!」
「は?」
「里に帰って、石拾いをするの。そうすれば、皆助かるでしょう? 七珠那は石拾いなんだから、無垢石を拾うのよ!」
「何を、言ってるの……」
七珠那には、かえでが正気でないように思えた。背筋に冷たいものが滑り落ちていく。
「馬鹿なことを言わないで!」
強く言い放って、七珠那は手を思いっきり振った。かえでの手をなんとか振り払う。
「私は、圭章様と婚約したの。彼と一緒にいて、彼を支えるの!」
「でも……そんなの、ずるいわ!」
「ずるいだなんて……! かえで、あなたはそればかり……!」
「乗れ」
押し問答をする二人に焦れたように、馬車の扉が開く。
暗がりの中から伸びてきた手は刃を握っている。その刃は──なんと、かえでの首筋に当てられた。
「な!」
予想外の事態に狼狽える七珠那に、男が顎でしゃくる。
「乗れ。でなければ、この娘の命が無いぞ」
「本当に、私がお借りしてもいいんでしょうか?」
宮水の大奥様──七珠那の義母となる予定の方のものだ。
顔合わせもしていない七珠那が勝手に使っていいものだろうか。
「構わない。母にはすでに七珠那のことは伝えてある」
圭章が、鷹揚に構えている。
「母も、先の婚約が破綻したことを悲しんでいた。そのまま相手探しもお見合いも交わし続けていた私が、自分で婚約者を見つけてきたのだから、大喜びしている。今から、自分の何を譲ろうか、引き継いでもらおうかと考えているような人なんだ」
「本当に、七珠那様に着ていただけるのなら、大奥様もおよろこびでしょうね。さぁ、七珠那様、お好みのものがあれば!」
清子が広げてくれた振袖は、圭章の母が嫁入りの際に持って来たものだと言う。
赤地に瑞雲と松竹梅、白地に菊と鶴、臙脂と白黒の市松模様に金で花輪をあしらったもの。それに、絞りの宝尽くし。
どれもこれも、美しく上等なものだというものが分かる。恐る恐る指先で触れると滑らかな生地の手触り。
「七珠那の好みもあるだろうが──出来るなら、私はこれを七珠那に着て欲しい」
圭章が手に取ったのは、臙脂と白黒の市松模様の振袖だった。
大奥様の振袖のほとんどが古典的な柄で、普遍的な美しさを持つものばかりだった。
その中で唯一、雰囲気が違う。はっきりとした色合いと金の模様が、個性的で目を引く。
「母が、父との見合いの際に仕立てたものだと聞いている。思い入れのあるものだと」
「そんな大事なものを……私がお借りするわけには……」
恐れ多く感じる七珠那に圭章は優し気に目を細めた。
「大事なものだからこそ、七珠那に着て欲しい。それに、これが一番七珠那に似合うと思う」
その言葉に、七珠那は無言で頷いた。
喜びが胸に詰まって、言葉にならなかったのだ。
忙しい合間を縫って、圭章が振袖選びに付き合ってくれていること。七珠那のために選んでくれたこと。
全てが幸せで、この振袖を着た姿が圭章にどう見えるのかと想像するだけで、夢見心地になった。
振袖は準備が間に合いそうだったが、問題は洋装だった。
洋装を着る機会は増えてきたとはいえ、慰労会のような特別な時に着るものとなれば、専用で仕立て屋に頼むことになる。
だが、慰労会までが近い今、どの仕立て屋も舞踏会用のご婦人の衣装づくりでが境になっているはずだ。
新しく仕立てることは不可能だ。
結局、圭章は玖遠に相談を持ち掛けたらしい。
玖遠もまた、古くからの守代の家系。宮水家や中屋敷家に劣るが、財力もある。なにより既婚者だ。
この手の話には詳しいだろうという圭章の考えだった。
「お任せください!」
尊敬する先輩からの相談に、彼はそう胸を叩いたのだとか。
其の結果、七珠那は衿禾の衣装を借り受けることになった。
衿禾が昨年の身に着けていたものだ。
仕立て屋に持ち込み、寸法を七珠那に合わせてもらい、出来る範囲で装飾を加えて、手直しをしてもらった。
艶のある水色の生地で仕立てられた衣装は、紺色の縁取りと襟元に襞があるだけの装飾の少ないものだった。
衿禾が纏えば、大人びた清楚な美しさを引き立てるだろう。一方で、七珠那はまだ十六。顔立ちにも幼さが残っている。胸元に花飾りを加え、襟元に小粒真珠を縫い付けた。裾に花の刺繍を施し、華やかさを加える。
それだけで、各段に可愛らしいさが際立つ衣装へと変わっていった。
その衣装を作った鷹司家なじみの店に頼み込んで、どうにか前夜祭の前日中には仕上げてもらうことが出来た。
──そして、前夜祭当日の朝──
七珠那は、衿禾に付き添われて仕立て屋に赴き、衣装を引き取ったのだった。
「本当に、ありがとうございます。衿禾様」
「いいのよ。素敵に仕上がってよかったわ」
用事を終えた衿禾と七珠那は、喫茶店で休憩をすることになった。
七珠那が引き留めたのだ。衿禾に落ち着いた場所で、聞いてみたい話があった。
準備が忙しいのはお互いに百も承知で、申し訳ない気持ちはあった。
衣装の準備だけではない。踊らないと言えども、七珠那は踵のある靴や裾の長い洋装には不慣れだった。歩き方や裾のさばき方を学ぶ必要があった。
衿禾のお古の靴や衣装を譲ってもらい、練習にも付き合ってもらい、どうにか不格好にならないまでに所作を身に着けることが出来た。それに加えて、祈祷や女主人の役割もある。
だが、慰労会が終われば、ここまで頻繁に顔を合わせる機会もなくなるのだろうと思うと、今しかないという気持ちになった。
「──何か、聞きたいことか話したいことがあったんじゃないの?」
衿禾の前に、見たことのない黒い飲み物が運ばれて来る。
それに気を取られていた七珠那は、衿禾の言葉にどきりとした。
まだ、衿禾に何も言っていない。
「どうして……」
「七珠那ってば、ようやく衣装の問題が片付いたのに、ずっと思いつめたような顔をしているんだもの」
七珠那は思わず、自分の頬に手を添えた。
「それに、今まで何度も何か言いたそうな顔をしていたわ」
衿禾は、微笑ましそうに笑って、急かしもしないで七珠那が話し出すのを待っていた。
やがて、七珠那のお茶が運ばれてくる。ゆっくりと揺れる水面が落ち着くのを眺めていた七珠那は、ようやく切り出した。
「衿禾様は、加護を受けた時のことを、覚えていますか?」
「少しだけ。どうして?」
「私、加護を受けた時のことを覚えていなくて。いつ受けたのかも」
巫女は神からの力を預かる。
そんな加護を受けた者として、どの神が見出してくれたのかわからないことは恥ずかしいことだと思っていた。
聞きたくても聞けない。でも、衿禾なら──加護の里にいた時から七珠那を気にかけてくれていた彼女なら、軽蔑することなく聞いてくれるかもしれない。
そんな風な葛藤を繰り返し、ようやく疑問を口にする覚悟が出来たのだった。
「確か、七珠那のは、結界の神の加護だったのよね」
「そういうことになっています。でも自信がなくって」
七珠那の返答は、心もとないものになる。
上の人間がそう言ったというだけで、確証はない。
こんな状態で、守代達の上に立つような人に会って大丈夫なのかと不安になってしまう。
それに、七珠那には、結界の神から加護を受ける心当たりがなかった。
結界の神は──大山土命と呼ばれる男神だ。かつて、天御玉比売が籠る前の御野山へ分け入り、木々を担ぎ、神の世界と人の世界に境目を作ったと言われている。
確かに、妖魔が現れる門は、あちらとこちらの間だ。それを閉じることは、彼が境目を作った逸話と似ている気もする。
「他の方が加護を受けた時のことを聞けば、何か思い出すかもって……。確か、神々との対話があるって聞いたんですが」
「私が加護を受けた時は、儀式の中だったのだけれど……」
衿禾は細い指を唇にあてつつ、記憶を探っている。
「幼馴染の愚痴を言った気がするわ」
「愚痴、ですか?」
予想外だった。七珠那は目を軽く見開く。
「夫──玖遠とは、幼馴染なの。小さい頃よく遊んだわ」
初めて聞く話に、七珠那は興味津々になる。
「私が巫女になるって決めた時に、泣きながら強い守代になって、迎えに行くって、言ってくれたの」
衿禾は恥ずかしそうに、手を顔の前で振りながら笑った。
「でも、私ってば感激するどころか呆れちゃって。夫が年下だから、ずっと弟みたいに思ってたんだけど……泣きながらっていうのが今まで通り、頼りなく見えて。せめて、涙をこらえてくれって思ったわ」
その姿を思い出したのか、衿禾はくつくつと笑った。
「そういう愚痴を言ったような気がするの。雷の神様も、玖遠に同情したのかしら」
「雷の神様も、姉さん女房でしたよね」
「そう──。でも、正直、 あんまり覚えていないの。気のせいだったような気もする。巫女の中には全く覚えていない人もいるし、忘れちゃったって言う人もいたわ。対話があるって言われているけれど、記憶に無いんじゃぁ、ね……」
衿禾はまとめると、卓の上に置いてある七珠那の手を取った。
「だから、ね。記憶に無いことを恥じる必要も怖がる必要もないの。ましてや、七珠那が自分を責める必要はないわ」
「衿禾様」
「神様が七珠那のことを気に入ってくださったの。呪いだなんて、とんでもないわ。私、七珠那ならどの神様に気に入られても不思議じゃないって思ってるのよ」
力強い言葉だった。
「ずっと真面目に石拾いをしていたんだもの。七珠那がどれほど一生懸命だったのか、我慢強いのかも──私は知ってるつもりよ」
衿禾は、七珠那と同じぐらいの時期に加護の里にやって来た巫女だった。
七珠那が最も年若い石拾いだった頃のことも、よく知っている。
七珠那はようやく、目元を緩めた。
彼女だからこそ、説得力のある言葉だった。それだけではない。同じことを、言ってくれた人がいるのだ。
「圭章様も、そう言ってくださいました」
「やっぱり! なら絶対そうよ!」
はしゃぐ衿禾に、七珠那もまた笑った。
(大丈夫、ね……きっと)
衿禾と話をして、気分が軽くなった。
礼を言い、店を出て、そこで衿禾と別れた。
衿禾はこれから家に帰って、前夜祭のために髪を整えたり、化粧をしたりするらしい。
(私も準備をしないと)
七珠那もまた、宮水家と反対方向に足を踏み出した。
七珠那は、このまま直接宮水家が懇意にしている美容院に行くことになっている。美容院で着付けと身支度を整えてもらい、馬車を手配して、圭章とは鳳寿館の前で合流することになっている。
洋装もその美容院で着付けてもらうから、衣装もあずかってもらう予定だった。
「一緒に行ってやりたかったんだが」
そう申し訳なさそうにしていた圭章は、前夜祭の直前まで、なにやら打ち合わせがあるらしい。
(圭章様は、似合うと言ってくださるかしら)
七珠那は思いながら、洋装の包みを抱きしめた。
信じてくれている人が、こんなにもいる。
前夜祭では、加護を受けたことを誇りに思い、しっかりと胸を張るのだ。
(これを着て、圭章様の隣に立つの。相応しいように、姿勢を伸ばして、顔を上げて)
そう決意して、美容院に向かっていた七珠那だったが、表通りを一本それたところで、突然手を掴また。
七珠那は小さく飛び上がった。
振り向いて、驚愕のあまり動きが止まってしまった。
「七珠那」
かえでが、爛々と光る目で七珠那を見ていたのだ。
「七珠那一緒に来て。馬車に乗るの」
かえでの後ろには、馬車が止められている。たっぷりとした襞を作った布が掛けられた窓からは、中の様子が見えない。
「なにを……」
七珠那はかえでの手を振り払おうとした。
だが、小さな手にどうしてそんな力があるのか、かえでの手は離れない。それどころか、痛い程強く握ってくるではないか。
「離して、かえで!」
「七珠那は御野山に、加護の里に帰るの!」
「は?」
「里に帰って、石拾いをするの。そうすれば、皆助かるでしょう? 七珠那は石拾いなんだから、無垢石を拾うのよ!」
「何を、言ってるの……」
七珠那には、かえでが正気でないように思えた。背筋に冷たいものが滑り落ちていく。
「馬鹿なことを言わないで!」
強く言い放って、七珠那は手を思いっきり振った。かえでの手をなんとか振り払う。
「私は、圭章様と婚約したの。彼と一緒にいて、彼を支えるの!」
「でも……そんなの、ずるいわ!」
「ずるいだなんて……! かえで、あなたはそればかり……!」
「乗れ」
押し問答をする二人に焦れたように、馬車の扉が開く。
暗がりの中から伸びてきた手は刃を握っている。その刃は──なんと、かえでの首筋に当てられた。
「な!」
予想外の事態に狼狽える七珠那に、男が顎でしゃくる。
「乗れ。でなければ、この娘の命が無いぞ」
