七珠那が空の裂け目を見たのは、圭章の家からしばらく歩いた先にある商店街だった。
様々な店が並ぶそこには、人々が賑々しく行き交っている。活気のある場所なのだ。
七珠那は店と店の間に積み上げられた空き箱に腰を下ろし、頭を抱えていた。
衝動的に宮水家を出てきてしまった。頭はとうに冷えている。
(戻らないと……戻って謝らないと……)
そう思うのに、七珠那の足はなかなか動かない。
圭章の元しか、今の七珠那に行く場所はない。わかっていても、どの面を下げて、という気持ちがある。
それに、再びあの役立たずの置物のような生活をすることを考えると、息が詰まりそうになる。
悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。
七珠那は、訝しく思いながら、通りへと顔を出した。
そこから見える光景に、七珠那は顔を青ざめた。
空に生まれた裂け目──あちらとこちらを繋ぐ門。そこから、小さな鼠のような妖魔が群れとなって姿を見せていた。
灰褐色の毛に真っすぐ伸びた小さな耳。尾は羽で覆われており、尾を振り回しながら空を飛んでいた。
急降下した妖魔は、口を開き、牙をむき出しにして逃げようとする人々に襲い掛かる。
木の板、買い物袋、風呂敷──人々はあの手この手で、妖魔を振り落とそうと必死だった。
妖魔は、神々がおわす世界とこちらの世界の間に住むという、異形の存在だ。
血を求め、門を開いて人の世に現れる。人に食らいつき、建物を破壊し、生活を脅かす。
門が、いつどこに開かれるのかは、わからない。
誰にも気づかれず開いた門からやってきた妖魔が、森や影に潜み、人を襲うこともある。
人々は、有史以来、この異形のものと戦い続けているのだ。
「逃げろ! 急げ! 建物に入れ!」
大きな声で指示が飛ぶ。見れば、妖魔の向こうから、帯刀した男たちが走ってくるのが見えた。濃紺の洋袴と肩章のつけられた立て襟の上着を身に着けている。これが、首都の守代の制服であることを、七珠那は学んでいた。
巡回中の守代が駆け付けたのだ。
指示に従い、人々はめいめいに建物へと引っ込む。
七珠那は、未だにそこから動けなかった。山里育ちの七珠那にとって、妖魔は山に住む、獰猛な獣のようなものだった。
不意に現れ、大きな被害をもたらし、いつの間にか消える。これほどの数の妖魔を見たことがなかった。
(こんなの……知らない!)
守代の一人が、刀を抜く。
振りかざした軌跡をなぞるように木の葉が舞う。けれど、それは妖魔に届かず、はらりと地面に落ちた。
次いで別の守代から繰り出された雷は、かろうじて妖魔を捉えた。だが、あの数の内の数匹では、妖魔にとって痛手にはならない。
「さっさと去れ! 走れ!」
怒鳴り声が、七珠那の背中を叩く。
七珠那は、ようやく走りだした。足が縺れ、倒れかけたが寸前で踏ん張る。
よろめきながらも、再び足を踏み出す七珠那の目に、地面に倒れた子供の姿が飛び込んできた。
逃げている途中に親とはぐれてしまったのか。地面にうつ伏せで倒れたまま、泣き声をあげている。
その頭上を、妖魔が旋回している。まるで獲物の狩り時を測るように。
「──危ない!」
七珠那は、姿勢を低くしたまま、子供に駆け寄った。
腕で妖魔をけん制しながら、子供を助け起こす。その傍に、駆け寄ってくる女がいた。
「あぁ! 太一郎!」
「かあさまぁ……!」
母親だ。七珠那は、どうにか子供を母親の手に預け、せかすようにその背を押す。
「急いで──! 逃げて!」
逃げる人の波の中に押し込み、七珠那もまた揉まれながらも飛び込んだ。
その直後。
どん、と肩に強い衝撃を受け、七珠那は人の群れの中から弾き飛ばされてしまった。
七珠那は、尻もちをつく。体に走った鈍い痛みに呻いた。
「女! 邪魔だ!」
痛みをこらえ、体を起こした七珠那のすぐ傍で、不穏の羽ばたきの音が聞こえた。
(あ……駄目だ……)
逃げる隙がない。このままでは妖魔に喰らわれる。
だが、目前を迸った炎によって、七珠那に牙を突き立てる前に妖魔は焼き払われた。
そのことに、安堵の息をつく暇はなかった。
ごう、と音を立てる炎は、そのまま空気を飲み込み膨れあがる。熱が肌を焦がす。息ができないほどの熱──。
熱風にあぶられ、七珠那の髪が舞う。
「七珠那!」
声が、聞こえた。
炎は七珠那を焼く前に、突如出現した波によってかき消されたのだった。
「七珠那、無事か?」
「圭章様……! どうして……」
振り向いた先に、抜き身の刀を下げ、息を切らしながら、走り寄ってくる婚約者の姿があった。
七珠那は目を丸くした。
「探しに来た」
「そんな……! 私なんて……!」
あれほど暴言を吐いて、飛び出してきたのに探しに来てくれたのか。
感謝と申し訳なさがいっしょくたになって、突き上げてくる。
けれど、それを言葉や態度にする余裕などなかった。
圭章は、七珠那を助け起こすと、守るようにその腕で囲い込んだ。
前線で戦う守代たちをすり抜け、小さな妖魔は、七珠那達の方へと向かってくる。
「くそ……数が多いな……!」
圭章は、その端正な顔を汗にまみれさせ、七珠那を庇いつつ刀を振るう。その刃の軌跡に、水が迸る。
水の加護の祝具だ。
「に、逃げなければ……! 逃げましょう! 圭章様!」
相手の数が多い。圭章は守代を退いており、足手まといの七珠那がいる。
(それに……足!)
圭章の体は、刀を振るうたびに揺れる。軸が定まらない。怪我で守代を引退したと聞いた。
怪我は、足なのだ。
この場にとどまることは、危険でしかない。
七珠那は圭章の着物を後ろから引きつつ、言った。
「いいや」
圭章は、懐からまだ白鞘に納められたままの小刀を取り出した。
七珠那は、あっと声を上げた。白木の柄の部分に、小さな透明な石がはめ込まれていた。
「それ、は……」
「見ていなさい。七珠那」
圭章は、そっと七珠那の体から手を離すと、自分の後ろに押しやる。
「──祝石は加護を授けた神や加護を象徴する色に染まる」
圭章は、静かな声で言う。
「炎の赤、草の翠、水の蒼、毒の耐性を持つ祝石は、薬祖神の瞳の色だと言う紫に。なら、透明は?」
問いかけるような独り言。七珠那は返事が出来ない。わかるはずもないのだから。
「その力は何だ? 少なくとも、何らかの事象を引き起こすものではない」
「加護が宿っていない可能性も……!」
「いいや、まさか!」
自身のない七珠那の返答は、強い言葉で否定される。
「神々の加護はその時必要とされるものが与えられると言われている。始めは全てを燃やし尽くす炎を、炎に紛れ人を襲う妖魔が現れれば水を、水辺で大波を起こす妖魔が現れれば草木を──今、首都を最も悩ませているものは、これだ」
七珠那は、圭章が泰然の佇む後ろ姿を見た。その視線の先には妖魔が未だに街を荒らしている。
飛び交う小さな数多の影。宙を泳ぐ妖魔を、地上から離れることのできない守代は、なかなか撃ち落とすことが出来ない。
建物の玻璃が割れ、悲鳴が聞こえる。どうにか引きずり降ろされた妖魔が断末魔を上げる。
その間にも空の亀裂は僅かに小さくなっただけで、絶えず妖魔が吐き出されている。
(小さいのに、数が多い──なかなか、門が閉じないから、被害が広がる)
小さな農村を悩ませた妖魔とは、まるで別な姿だった。
「私達が──私が最も欲して、願った力は何だ? この加護の力が私の元へ来たというのなら、私が願ったからではないのか──」
圭章は、鞘から小刀を抜く。片手に構え、妖魔へと向けた。
「私の予想が正しければ、お前が授かった加護は、これだ!」
長い腕がしなる。
小刀は空を滑り、妖魔を打ち落とすと思いきや、その傍を素通りした。
「嘘……」
刀は、信じられないことに、門の傍──空へと突き刺さっている。
白い閃光が迸る。
闇を湛えた門は、一瞬にして光で満たされ、明らかに速度を上げて、ぽっかりと開いた口を閉ざし始めていた。
「門そのものを強制的に閉ざす力」
そして、ほどなく門は閉ざされる。
「七珠那、お前が授かった力は呪いなんかじゃない。──本当に素晴らしいものだ。」
圭章は、振り返りざまに微笑む。自信にあふれた、誇らしげな笑み。
七珠那が初めて見た、彼の表情だった。
様々な店が並ぶそこには、人々が賑々しく行き交っている。活気のある場所なのだ。
七珠那は店と店の間に積み上げられた空き箱に腰を下ろし、頭を抱えていた。
衝動的に宮水家を出てきてしまった。頭はとうに冷えている。
(戻らないと……戻って謝らないと……)
そう思うのに、七珠那の足はなかなか動かない。
圭章の元しか、今の七珠那に行く場所はない。わかっていても、どの面を下げて、という気持ちがある。
それに、再びあの役立たずの置物のような生活をすることを考えると、息が詰まりそうになる。
悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。
七珠那は、訝しく思いながら、通りへと顔を出した。
そこから見える光景に、七珠那は顔を青ざめた。
空に生まれた裂け目──あちらとこちらを繋ぐ門。そこから、小さな鼠のような妖魔が群れとなって姿を見せていた。
灰褐色の毛に真っすぐ伸びた小さな耳。尾は羽で覆われており、尾を振り回しながら空を飛んでいた。
急降下した妖魔は、口を開き、牙をむき出しにして逃げようとする人々に襲い掛かる。
木の板、買い物袋、風呂敷──人々はあの手この手で、妖魔を振り落とそうと必死だった。
妖魔は、神々がおわす世界とこちらの世界の間に住むという、異形の存在だ。
血を求め、門を開いて人の世に現れる。人に食らいつき、建物を破壊し、生活を脅かす。
門が、いつどこに開かれるのかは、わからない。
誰にも気づかれず開いた門からやってきた妖魔が、森や影に潜み、人を襲うこともある。
人々は、有史以来、この異形のものと戦い続けているのだ。
「逃げろ! 急げ! 建物に入れ!」
大きな声で指示が飛ぶ。見れば、妖魔の向こうから、帯刀した男たちが走ってくるのが見えた。濃紺の洋袴と肩章のつけられた立て襟の上着を身に着けている。これが、首都の守代の制服であることを、七珠那は学んでいた。
巡回中の守代が駆け付けたのだ。
指示に従い、人々はめいめいに建物へと引っ込む。
七珠那は、未だにそこから動けなかった。山里育ちの七珠那にとって、妖魔は山に住む、獰猛な獣のようなものだった。
不意に現れ、大きな被害をもたらし、いつの間にか消える。これほどの数の妖魔を見たことがなかった。
(こんなの……知らない!)
守代の一人が、刀を抜く。
振りかざした軌跡をなぞるように木の葉が舞う。けれど、それは妖魔に届かず、はらりと地面に落ちた。
次いで別の守代から繰り出された雷は、かろうじて妖魔を捉えた。だが、あの数の内の数匹では、妖魔にとって痛手にはならない。
「さっさと去れ! 走れ!」
怒鳴り声が、七珠那の背中を叩く。
七珠那は、ようやく走りだした。足が縺れ、倒れかけたが寸前で踏ん張る。
よろめきながらも、再び足を踏み出す七珠那の目に、地面に倒れた子供の姿が飛び込んできた。
逃げている途中に親とはぐれてしまったのか。地面にうつ伏せで倒れたまま、泣き声をあげている。
その頭上を、妖魔が旋回している。まるで獲物の狩り時を測るように。
「──危ない!」
七珠那は、姿勢を低くしたまま、子供に駆け寄った。
腕で妖魔をけん制しながら、子供を助け起こす。その傍に、駆け寄ってくる女がいた。
「あぁ! 太一郎!」
「かあさまぁ……!」
母親だ。七珠那は、どうにか子供を母親の手に預け、せかすようにその背を押す。
「急いで──! 逃げて!」
逃げる人の波の中に押し込み、七珠那もまた揉まれながらも飛び込んだ。
その直後。
どん、と肩に強い衝撃を受け、七珠那は人の群れの中から弾き飛ばされてしまった。
七珠那は、尻もちをつく。体に走った鈍い痛みに呻いた。
「女! 邪魔だ!」
痛みをこらえ、体を起こした七珠那のすぐ傍で、不穏の羽ばたきの音が聞こえた。
(あ……駄目だ……)
逃げる隙がない。このままでは妖魔に喰らわれる。
だが、目前を迸った炎によって、七珠那に牙を突き立てる前に妖魔は焼き払われた。
そのことに、安堵の息をつく暇はなかった。
ごう、と音を立てる炎は、そのまま空気を飲み込み膨れあがる。熱が肌を焦がす。息ができないほどの熱──。
熱風にあぶられ、七珠那の髪が舞う。
「七珠那!」
声が、聞こえた。
炎は七珠那を焼く前に、突如出現した波によってかき消されたのだった。
「七珠那、無事か?」
「圭章様……! どうして……」
振り向いた先に、抜き身の刀を下げ、息を切らしながら、走り寄ってくる婚約者の姿があった。
七珠那は目を丸くした。
「探しに来た」
「そんな……! 私なんて……!」
あれほど暴言を吐いて、飛び出してきたのに探しに来てくれたのか。
感謝と申し訳なさがいっしょくたになって、突き上げてくる。
けれど、それを言葉や態度にする余裕などなかった。
圭章は、七珠那を助け起こすと、守るようにその腕で囲い込んだ。
前線で戦う守代たちをすり抜け、小さな妖魔は、七珠那達の方へと向かってくる。
「くそ……数が多いな……!」
圭章は、その端正な顔を汗にまみれさせ、七珠那を庇いつつ刀を振るう。その刃の軌跡に、水が迸る。
水の加護の祝具だ。
「に、逃げなければ……! 逃げましょう! 圭章様!」
相手の数が多い。圭章は守代を退いており、足手まといの七珠那がいる。
(それに……足!)
圭章の体は、刀を振るうたびに揺れる。軸が定まらない。怪我で守代を引退したと聞いた。
怪我は、足なのだ。
この場にとどまることは、危険でしかない。
七珠那は圭章の着物を後ろから引きつつ、言った。
「いいや」
圭章は、懐からまだ白鞘に納められたままの小刀を取り出した。
七珠那は、あっと声を上げた。白木の柄の部分に、小さな透明な石がはめ込まれていた。
「それ、は……」
「見ていなさい。七珠那」
圭章は、そっと七珠那の体から手を離すと、自分の後ろに押しやる。
「──祝石は加護を授けた神や加護を象徴する色に染まる」
圭章は、静かな声で言う。
「炎の赤、草の翠、水の蒼、毒の耐性を持つ祝石は、薬祖神の瞳の色だと言う紫に。なら、透明は?」
問いかけるような独り言。七珠那は返事が出来ない。わかるはずもないのだから。
「その力は何だ? 少なくとも、何らかの事象を引き起こすものではない」
「加護が宿っていない可能性も……!」
「いいや、まさか!」
自身のない七珠那の返答は、強い言葉で否定される。
「神々の加護はその時必要とされるものが与えられると言われている。始めは全てを燃やし尽くす炎を、炎に紛れ人を襲う妖魔が現れれば水を、水辺で大波を起こす妖魔が現れれば草木を──今、首都を最も悩ませているものは、これだ」
七珠那は、圭章が泰然の佇む後ろ姿を見た。その視線の先には妖魔が未だに街を荒らしている。
飛び交う小さな数多の影。宙を泳ぐ妖魔を、地上から離れることのできない守代は、なかなか撃ち落とすことが出来ない。
建物の玻璃が割れ、悲鳴が聞こえる。どうにか引きずり降ろされた妖魔が断末魔を上げる。
その間にも空の亀裂は僅かに小さくなっただけで、絶えず妖魔が吐き出されている。
(小さいのに、数が多い──なかなか、門が閉じないから、被害が広がる)
小さな農村を悩ませた妖魔とは、まるで別な姿だった。
「私達が──私が最も欲して、願った力は何だ? この加護の力が私の元へ来たというのなら、私が願ったからではないのか──」
圭章は、鞘から小刀を抜く。片手に構え、妖魔へと向けた。
「私の予想が正しければ、お前が授かった加護は、これだ!」
長い腕がしなる。
小刀は空を滑り、妖魔を打ち落とすと思いきや、その傍を素通りした。
「嘘……」
刀は、信じられないことに、門の傍──空へと突き刺さっている。
白い閃光が迸る。
闇を湛えた門は、一瞬にして光で満たされ、明らかに速度を上げて、ぽっかりと開いた口を閉ざし始めていた。
「門そのものを強制的に閉ざす力」
そして、ほどなく門は閉ざされる。
「七珠那、お前が授かった力は呪いなんかじゃない。──本当に素晴らしいものだ。」
圭章は、振り返りざまに微笑む。自信にあふれた、誇らしげな笑み。
七珠那が初めて見た、彼の表情だった。
