宮水家での生活が始まり、二週間近く経った。
朝は緩やかに始まり、夜は穏やかに終わっていく。平坦で平和で──居心地の悪い毎日だった。
ほんの半月前まで、御野山を歩き回っていたのに、宮水家では七珠那の役目は無かった。
炊事も洗濯も掃除も、清子か通いの使用人が済ませることになっているため、七珠那が手伝おうとすると、苦笑いと共に遠慮されてしまった。
七珠那は部屋にいて、日がな本をめくるようになった。時々庭を散歩した。
圭章は、仕事で忙しいらしく、家にいている間は作業場や自室に籠っている状態だった。
「人が多いと、妖魔も引き付けられるんでしょうかね。近くで何度も出ていて、討伐が行われて……。祝具も損なわれると、旦那様の仕事が増えますから」
清子がそう心配そうにつぶやいていた。
退屈を慰めるように、清子が宮水家御用達だという呉服店や小間物の店を呼んでくれることもあった。
煌びやかな帯や美しい簪や櫛をいくら眺めて、七珠那の心は踊らない。
(村とも、加護の里とも全然違う。違うはずなのに、でも……)
噂に違わず、宮水家は経済的に豊かなようだった。
清子は気に入ったものを買うように勧めてくれるのだが、いくら美しいものでも、七珠那は一つも欲しいとは思わなかった。
(役目がないのが怖い……。どうしてだろう。ごくつぶしに戻ったような気がする……。まったく違うのに)
そんな風に思って、時々泣きたくなりさえした。
決して邪険にさえているわけではないことは、わかっていた。
圭章は、最初に宣言した通り、朝昼夕のいずれかは七珠那と食卓を共にしてくれる。
「不便はないか?」
その度に、彼は七珠那に聞くのだ。
「いえ……大変よくしていただいています」
七珠那はいつもそう答える。
「何かあれば、清子に言うといい。あれは、特に女の世話を焼くのが好きなようだ。母もよく世話をしていたから」
「はい……」
労働をしなくていい日々。欲しいものがあればお金を気にすることなく買ってもいいと言われている。
間違いなく恵まれているのだが、七珠那は、いつまでたってもこの幸せを謳歌する気になれなかった。
(綺麗な帯も簪も嫌いじゃないんだけど……)
言葉にできない違和感だけが、胸の奥につっかえていた。
「昨日の夜、無垢石が届いた。近いうちに祈祷を頼みたい」
「も、勿論です!」
七珠那はぱっと顔を上げた。ようやく自分の役目が来たと思おうと、嬉しかった。
しかし、一抹の不安もある。
(何の加護なのか、わからない。圭章様はわかっているのかしら?)
圭章は七珠那が生んだ祝石が間違いなく加護の力があると言った。
(神の加護を受けた覚えもないのに……)
「……今日は何をしていた?」
圭章に問われて、七珠那は慌てて応えた。
口数が多いわけではない彼が、この時だけは、七珠那に話題を差し向けてくれる。
「読書を少し」
少しどころではなく、ほぼ一日本を読んでいたとは言いにくかった。
会話のきっかけを逃すまいと思うのに、七珠那が彼に伝えられることはほとんどないのが心苦しかった。
「昨日も本を読んでいたではないか」
圭章は、心底不思議そうにしている。
「娘というのは、外に行きたがるものではないのか? お前はずっと家にいてばかりなのだな」
大雑把なくくり方だと思いながら、七珠那は曖昧に笑った。
「外に出て、甘味を喫するなり、着物や小物を見繕ってくればいいだろう」
「よくわからなくて……。首都は広くて物も多いですし……。その、私は、貧しい農村の出です。着飾る風習もなくって」
「あぁ、そうか」
圭章は、変化の乏しい顔を、僅かに渋くする。
妻になる女が、見栄えをしない上、その努力もしないと知って気分を害したのかもしれない。
(そう思ったけど……)
七珠那の瞳にはなぜか、その表情が焼き付いてしまった。
「働いていた方が気が楽なんです。あの、家事とかお手伝いさせていただけませんか?」
七珠那は思い切って言ったが、圭章の返事は、やはり同じ調子だった。
「変わった娘だな。無垢石拾いが苦ではないといい、今度は働きたいと言う」
「おかしなことでしょうか? 私は、誰かの役に立ちたくって、その一心で働いてきたんです。急にそれがなくなると、心細くなります……」
七珠那は懸命に続けた。
「親が亡くなって、誰も気にかけてくれなくなって、役立たずって言われて悲しかった。自分に役目があると、認めてもらえたような気持ちになって、ここにいていいんだって思えたんです。だから……」
「そうやって務めて、今までの大きな役目から離れた休息だと思えばいい。楽しめばよいだろうに」
「でも、私は……何かしたくて……!」
「楽していいと言っているのに、何が不満なのかわからないな」
あぁ、と圭章が言う。声ににじむ、湿っぽい感触に、七珠那はこれまでずっと感じてきた違和感の正体を知った。
「散々苦労してきただろうに。楽しみ方が、楽の仕方がわからないのか」
その言葉。
いたわるようなのに、七珠那の神経をざらりと嫌な手触りで撫でていく。
「──哀れなものだな」
そしてそれは、七珠那を最も傷つける言葉だった。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
苦労の多い道のりだったかもしれない。でも、不幸じゃないと、顔を上げてきた七珠那は顔を上げて生きてきた。
目の前にあるのが他に選択肢のない一本道だとしても、七珠那は自分の意志で足を踏み出し、役目に真面目に向き合ってきた。
その気持ちを、努力を、踏みにじる言葉なのだ。
は、と短く息を吐いた。
「あなたは……!」
直後、熱いものが、胸から喉へと一気に駆け上がった。間違いなく、怒りだった。
いけない、と自制しても、もう遅かった。
七珠那は、圭章を見据えて、言い放っていた。
「あなたは、私を憐れむために連れてきたんですか?」
急激な身の回りの変化、大事なものを取り上げられたような日々に、七珠那の心は確実にすり減っていたのだ。
(圭章様は、悪い人じゃない、嫌な人じゃない。それはわかる。でも、婚約者を金で買ったと言われている理由も、わかった気がする)
同じことをしたのではないだろうか。家に放っておいて、好きにしていいと言った。
彼にとっては気遣いなのだ。自分は婚約者をかまってやれない代わりに、欲しいものを買えばいい、行きたい所に行けばいい。
多忙な中、せめて食卓を共にしようというのも、妻となる者への、彼なりの誠意なのだろう。
喜ぶ女は、喜ぶだろう。財布の大きな放任の夫を持って、これ幸いと浪費に勤しむ。
だが、七珠那はそうではない。おそらく、前の婚約者も違った。
七珠那にとって、圭章の振る舞いは、哀れな女へ豊かな財産で施しをしているように感じるものだった。
「そうやって施しをして、慈悲を垂れるために、妻にしたんですか?」
圭章は、唖然とした表情で七珠那を見ていた。
まるで邪気のない表情に、七珠那は胸が痛くなる。
「私は、選べなくても自分で決めたつもりです! 自分で無垢石拾いになるって決めて、自分で、あなたの妻になるって決意したんです! 誰かの役に立ちたくて……! 何かしたくて……!」
「少し落ち着け……」
「それを、後悔したことなんてない! 石拾いだって、誇りを持って務めてきたんです!」
圭章は、狼狽えた様子で七珠那に手を伸ばした。
大きな掌はけれど、空を彷徨った挙句、力なく彼の膝に落ちた。
「なのに、私は施しをせずにはいられないほど、可哀そうなんですか……」
こらえきれなくなった涙が、七珠那の頬を一筋伝う。
七珠那はそれを隠すように、額を畳にこすりつけるほど低く、低く頭を下げた。
「ごめんなさい、私……。口が過ぎました。申し訳ございません」
七珠那には、もう行く場所がない。
慈悲を垂れてくれるなと責めても、七珠那は彼の慈悲にすがる以外に生きていく手立てがないのだ。
その情けなさといったら。
「構わない。顔をあげなさい」
決して怒った様子のない声が、一層七珠那を苛む。
「すいません、少し外で頭を冷やします。本当に、申し訳ございませんでした」
七珠那は圭章の顔を見れないまま、部屋を出た。
朝は緩やかに始まり、夜は穏やかに終わっていく。平坦で平和で──居心地の悪い毎日だった。
ほんの半月前まで、御野山を歩き回っていたのに、宮水家では七珠那の役目は無かった。
炊事も洗濯も掃除も、清子か通いの使用人が済ませることになっているため、七珠那が手伝おうとすると、苦笑いと共に遠慮されてしまった。
七珠那は部屋にいて、日がな本をめくるようになった。時々庭を散歩した。
圭章は、仕事で忙しいらしく、家にいている間は作業場や自室に籠っている状態だった。
「人が多いと、妖魔も引き付けられるんでしょうかね。近くで何度も出ていて、討伐が行われて……。祝具も損なわれると、旦那様の仕事が増えますから」
清子がそう心配そうにつぶやいていた。
退屈を慰めるように、清子が宮水家御用達だという呉服店や小間物の店を呼んでくれることもあった。
煌びやかな帯や美しい簪や櫛をいくら眺めて、七珠那の心は踊らない。
(村とも、加護の里とも全然違う。違うはずなのに、でも……)
噂に違わず、宮水家は経済的に豊かなようだった。
清子は気に入ったものを買うように勧めてくれるのだが、いくら美しいものでも、七珠那は一つも欲しいとは思わなかった。
(役目がないのが怖い……。どうしてだろう。ごくつぶしに戻ったような気がする……。まったく違うのに)
そんな風に思って、時々泣きたくなりさえした。
決して邪険にさえているわけではないことは、わかっていた。
圭章は、最初に宣言した通り、朝昼夕のいずれかは七珠那と食卓を共にしてくれる。
「不便はないか?」
その度に、彼は七珠那に聞くのだ。
「いえ……大変よくしていただいています」
七珠那はいつもそう答える。
「何かあれば、清子に言うといい。あれは、特に女の世話を焼くのが好きなようだ。母もよく世話をしていたから」
「はい……」
労働をしなくていい日々。欲しいものがあればお金を気にすることなく買ってもいいと言われている。
間違いなく恵まれているのだが、七珠那は、いつまでたってもこの幸せを謳歌する気になれなかった。
(綺麗な帯も簪も嫌いじゃないんだけど……)
言葉にできない違和感だけが、胸の奥につっかえていた。
「昨日の夜、無垢石が届いた。近いうちに祈祷を頼みたい」
「も、勿論です!」
七珠那はぱっと顔を上げた。ようやく自分の役目が来たと思おうと、嬉しかった。
しかし、一抹の不安もある。
(何の加護なのか、わからない。圭章様はわかっているのかしら?)
圭章は七珠那が生んだ祝石が間違いなく加護の力があると言った。
(神の加護を受けた覚えもないのに……)
「……今日は何をしていた?」
圭章に問われて、七珠那は慌てて応えた。
口数が多いわけではない彼が、この時だけは、七珠那に話題を差し向けてくれる。
「読書を少し」
少しどころではなく、ほぼ一日本を読んでいたとは言いにくかった。
会話のきっかけを逃すまいと思うのに、七珠那が彼に伝えられることはほとんどないのが心苦しかった。
「昨日も本を読んでいたではないか」
圭章は、心底不思議そうにしている。
「娘というのは、外に行きたがるものではないのか? お前はずっと家にいてばかりなのだな」
大雑把なくくり方だと思いながら、七珠那は曖昧に笑った。
「外に出て、甘味を喫するなり、着物や小物を見繕ってくればいいだろう」
「よくわからなくて……。首都は広くて物も多いですし……。その、私は、貧しい農村の出です。着飾る風習もなくって」
「あぁ、そうか」
圭章は、変化の乏しい顔を、僅かに渋くする。
妻になる女が、見栄えをしない上、その努力もしないと知って気分を害したのかもしれない。
(そう思ったけど……)
七珠那の瞳にはなぜか、その表情が焼き付いてしまった。
「働いていた方が気が楽なんです。あの、家事とかお手伝いさせていただけませんか?」
七珠那は思い切って言ったが、圭章の返事は、やはり同じ調子だった。
「変わった娘だな。無垢石拾いが苦ではないといい、今度は働きたいと言う」
「おかしなことでしょうか? 私は、誰かの役に立ちたくって、その一心で働いてきたんです。急にそれがなくなると、心細くなります……」
七珠那は懸命に続けた。
「親が亡くなって、誰も気にかけてくれなくなって、役立たずって言われて悲しかった。自分に役目があると、認めてもらえたような気持ちになって、ここにいていいんだって思えたんです。だから……」
「そうやって務めて、今までの大きな役目から離れた休息だと思えばいい。楽しめばよいだろうに」
「でも、私は……何かしたくて……!」
「楽していいと言っているのに、何が不満なのかわからないな」
あぁ、と圭章が言う。声ににじむ、湿っぽい感触に、七珠那はこれまでずっと感じてきた違和感の正体を知った。
「散々苦労してきただろうに。楽しみ方が、楽の仕方がわからないのか」
その言葉。
いたわるようなのに、七珠那の神経をざらりと嫌な手触りで撫でていく。
「──哀れなものだな」
そしてそれは、七珠那を最も傷つける言葉だった。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
苦労の多い道のりだったかもしれない。でも、不幸じゃないと、顔を上げてきた七珠那は顔を上げて生きてきた。
目の前にあるのが他に選択肢のない一本道だとしても、七珠那は自分の意志で足を踏み出し、役目に真面目に向き合ってきた。
その気持ちを、努力を、踏みにじる言葉なのだ。
は、と短く息を吐いた。
「あなたは……!」
直後、熱いものが、胸から喉へと一気に駆け上がった。間違いなく、怒りだった。
いけない、と自制しても、もう遅かった。
七珠那は、圭章を見据えて、言い放っていた。
「あなたは、私を憐れむために連れてきたんですか?」
急激な身の回りの変化、大事なものを取り上げられたような日々に、七珠那の心は確実にすり減っていたのだ。
(圭章様は、悪い人じゃない、嫌な人じゃない。それはわかる。でも、婚約者を金で買ったと言われている理由も、わかった気がする)
同じことをしたのではないだろうか。家に放っておいて、好きにしていいと言った。
彼にとっては気遣いなのだ。自分は婚約者をかまってやれない代わりに、欲しいものを買えばいい、行きたい所に行けばいい。
多忙な中、せめて食卓を共にしようというのも、妻となる者への、彼なりの誠意なのだろう。
喜ぶ女は、喜ぶだろう。財布の大きな放任の夫を持って、これ幸いと浪費に勤しむ。
だが、七珠那はそうではない。おそらく、前の婚約者も違った。
七珠那にとって、圭章の振る舞いは、哀れな女へ豊かな財産で施しをしているように感じるものだった。
「そうやって施しをして、慈悲を垂れるために、妻にしたんですか?」
圭章は、唖然とした表情で七珠那を見ていた。
まるで邪気のない表情に、七珠那は胸が痛くなる。
「私は、選べなくても自分で決めたつもりです! 自分で無垢石拾いになるって決めて、自分で、あなたの妻になるって決意したんです! 誰かの役に立ちたくて……! 何かしたくて……!」
「少し落ち着け……」
「それを、後悔したことなんてない! 石拾いだって、誇りを持って務めてきたんです!」
圭章は、狼狽えた様子で七珠那に手を伸ばした。
大きな掌はけれど、空を彷徨った挙句、力なく彼の膝に落ちた。
「なのに、私は施しをせずにはいられないほど、可哀そうなんですか……」
こらえきれなくなった涙が、七珠那の頬を一筋伝う。
七珠那はそれを隠すように、額を畳にこすりつけるほど低く、低く頭を下げた。
「ごめんなさい、私……。口が過ぎました。申し訳ございません」
七珠那には、もう行く場所がない。
慈悲を垂れてくれるなと責めても、七珠那は彼の慈悲にすがる以外に生きていく手立てがないのだ。
その情けなさといったら。
「構わない。顔をあげなさい」
決して怒った様子のない声が、一層七珠那を苛む。
「すいません、少し外で頭を冷やします。本当に、申し訳ございませんでした」
七珠那は圭章の顔を見れないまま、部屋を出た。
