そのタキシード、ちょっと待った

 席に戻ると、伊織の席にいた女子たちの姿はなくなっていた。
 やっと落ち着けると腰を下ろし、ちらりと横に視線を向ける。隣に座る准は変わらず莉奈と話しをしていたようだったが、伊織に気付くと体ごとこちらに向けた。

「やっと戻ったか。大変そうだったな」
「……そう思ってんなら助けろよな」
「自業自得だろ。八方美人はやめろっていつも言ってる」

 准の鋭い指摘にぐうの音も返せずに、口をとがらせる。すると奥から、くすりと笑い声が聞こえた。
視線を上げると、准の隣で莉奈が小さく笑っていた。
「あ、すみません。おふたり仲良しなんだなって」
 にこやかに話す莉奈からは嫌な感じを一切感じない。
「中学からの腐れ縁だからな」
 准がさらりと答えると、莉奈は「へぇ!」と目を開いて驚いていた。
「あ、じゃぁ藤瀬先輩は知ってるんですか? 碓氷先輩の恋人」
「へ?」
 恋人、という単語に、思わず間の抜けた声が漏れる。
 どうやら准は莉奈に、自身に恋人がいることをすでに話したらしい。

「どんな方なんですか? 俄然興味あります!」
 前のめりに訊ねる莉奈に、伊織は言葉を詰まらせた。
 だって自分のことなのだ。なんて言えば良いのかわからない。
 
 その時、邪な考えが伊織の頭をかすめた。
 もし莉奈がもうすでに准を狙っているのなら。諦めさせるなら今のうちかもしれない。  
 伊織はごくりと喉を鳴らした後、ゆっくりと口を開いた。
「す、すごくかわいい子……かな?」
 口にした瞬間、全身からぶわっと汗が滲んだ。
 もちろん自分のことをかわいいと思っているわけじゃない。ただ、かわいいと言えば莉奈も諦めてくれるかもしれない、と思ったのだ。
 
 そこで伊織は、はたと思い出した。いや、忘れていたわけではない。ただ、うっかりしていたのだ。
 恐る恐る隣に目を向ける。
 そこには、今にも吹き出しそうな口を必死で隠して、小刻みに肩を揺らす准がいた。
 その姿に、ぶわりと熱が顔へ集まっていく。
 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。いや、穴がなくても今すぐにスコップで穴を掘り、自分を埋めてしまいたい。
 
 伊織が自画自賛しているなど露も思っていない莉奈は、一層目を輝かせた。
「藤瀬先輩もかわいいって太鼓判なら、相当かわいい方なんですね!」
 純朴な返事に、ますます伊織の顔が赤みを増す。
 准はひとしきり肩を揺らすと、小さく息を整えて口を緩めた。
「そう。すげぇかわいい恋人」
 口元は笑っているはずなのに、それは冗談だと流してしまうにはあまりに真剣に聞えた。

「ちょっとお人好しすぎて心配なんだけど、まぁそこも含めて全部、かわいいって思ってる」
 さらさらと砂のように零れ落ちる准の惚気に、伊織は目を見開いた。
 もちろんこれはあくまで伊織の言葉に対する准なりのユーモア。言ってしまえばその場のノリだ。
 そう分かっているのに、心はときめかずにはいられない。頭とは裏腹にどこまでも高鳴る鼓動に、伊織はもう口を閉ざすしかなかった。

「へぇー。碓氷先輩、めちゃくちゃべた惚れじゃないですか!」
 にやにやと准をみる莉奈は、純粋に准の恋バナを楽しんでいるようだった。
 なんだかいたたまれなくて、伊織が腰を上げようとしたとき。床に置いていた伊織の右手に、ふいに温かなものが触れた。
 えっと視線を落とすと、そこには伊織の手より一回り大きな准の手が重ねられていた。
 思わず顔を上げる。
 准はいたずらそうに目を細めて微笑むと、ゆっくり伊織の指を絡めとった。

「私、愛されるより愛したいタイプなんで、碓氷先輩と同じタイプだと思うんですよね」
 目の前では莉奈が、自分の恋愛観を語っている。その声が耳に届いているはずなのに、意識はすべて指先に奪われ、何一つ内容は入ってこなかった。
  
 ――たかが手を触られているだけじゃないか。
 それなのに、まるでいけないことでもしているような、そんな気分になる。
 アルコールは一滴も飲んでいないはずなのに、その時の伊織は、お酒よりもたちの悪い熱に浮かされたようだった。

 ◇◇◇

 新歓が終わった帰り道。
 まだ少し冷たい春の夜風に当たりながら、伊織と准は並んで歩いていた。
「最後の原、めちゃくちゃ慌ててたな」
「あいつはお前にちょっと頼りすぎてんだよ」
 さきの出来事を思い出して少し不機嫌そうな准に、伊織は小さく笑った。

 一次会が終わり、二次会のカラオケにみんなが向かう中、伊織は原に今日は帰ることを告げた。
『えっ? 伊織二次会行かへんの? いや、待てって。お前が行かへんと、新入生の女子たちも行かんてなるやん!』
 女子に囲まれれば囲まれたで怒るくせに、いないといないで怒るなんて、どれだけ身勝手な奴なんだ。
 そう思うものの、求められれば断れないのが自分だ。どうしたものかと伊織が悩んでいると、
『伊織を客寄せパンダに使うな』
 准がピシャリと言い切った。
 准の至極まっとうな正論に加え、その圧倒的な威圧感に、原はそれ以上何も言えなくなった。
 そして、縋るような視線だけを伊織に残し、原は二次会へ去っていった。

「そもそも伊織がいないと嫌とか言ってる女子は、サークル入ってもすぐに辞めるだろ。断言する」
 きっぱりとした口調で告げる准に、「そうそう、ほとんど辞めたんだよ」と言いかけて、伊織は口を噤んだ。ポロリと漏らしてしまいそうだったが、それは未来の出来事。今の伊織が知っていてはおかしい。
 自分が今何を知っていて、何を知らないのか、過去に戻ってから頭の中がこんがらがるから大変だ。
 今回の人生では――と、今日の新歓を思い出していたその時。
 伊織はふと足を止めた。

「あれ……?」
「……どうした?」
 伊織より数歩先に歩みを進めた准が、不思議そうに振り返る。
 居酒屋で准から手を絡められ、そのドキドキと、一次会後の原とのやり取りで完全に忘れていたが、本来今日は。
 ――莉奈が准に恋をした日。
 
 そう。未来で莉奈は准に宣言したのだ。
『私、たぶん碓氷先輩のこと、好きになると思います』と。
 けれど今日、伊織はその言葉を聞いていない。
 じわりと手に汗が滲んだ。

「な、なぁ。今日、莉奈ちゃんと連絡先って交換したか?」
 目の前の准に訊ねると、准はわずかに首を傾いだ。
「莉奈ちゃん? ……あぁ、森本さんのことか? いや、してないけど」
 どうしたんだとでも言いたげに見つめる准をよそに、伊織はやっぱり、と目を瞠った。

 ――ということは、もしかして。
 未来が変わったのか。

 連絡先の交換も、あのまっすぐな宣言も、今回は何もなかった。
 そう仮定するのが自然だろう。
 ではなぜ未来が変わったのか。考えられるとしたら、ただ一つ。

 ――俺が准と付き合ったから。
 准が莉奈に恋人の話をしたから。

 そう気づいたとき、心臓がずしんと重力をもって跳ねた。ドキドキとは違う、いやな脈に勝手に息が浅くなる。
 思い描いていた通りの結果になった。莉奈は准に恋をせず、准も莉奈を特に意識もしていない。これ以上の結果はないだろう。
 なのに、嬉しさは微塵も沸いてこなかった。
 ただ腹の奥にたまった黒い感情が血液を通して全身に巡っていく。

「さっきからぼおっとしてるけど、どうした? 大丈夫か?」
 准の声で、遠のいていた意識が戻る。ハッと焦点を合わせると、目の前に心配そうに眉間を深めた准の顔があった。
「あ、うん……。大、丈夫」
 絞りだしたようにそう告げたが、声はかすれて心もとない。
「……とりあえず中入れ」
 言葉と共に目の前の扉が開く。気づけば准の部屋の前にまで来ていた。
 どうやってここまで歩いたか、全く覚えていない。けれど、そんなこと今はどうでもよかった。

「……どうした? 具合でも悪いのか? 顔色悪いぞ」
 部屋に入ると、准が伊織の額に手を当てて、窺うように顔を覗いてきた。
 今はなぜか准の顔がまっすぐ見れず、伊織は思わず視線を逸らした。
 見れない。見れるわけがない。

 ――だって俺は、准の未来を壊した。これから降り注ぐであろう幸せを奪った。

 ふと、結婚式で莉奈と二人幸せそうに微笑み合う准の顔を思い出す。
 ――俺のせいで准と莉奈が結婚しなかったら?
 いまさら自分がやってしまったことの重大さに気付き、伊織はその場に立っていられなかった。視界が揺れて、足から力が抜ける。

「おいっ!」
 倒れかけた体を支えるように、准の腕が背中に回った。
 准は呆然とする伊織を抱きしめるように、そのまま胸元へ引き寄せた。
「……頼むから、もう無理はするな」
 わずかに力が込められた准の腕の中で、伊織は思わず泣きたくなった。
 けれどすぐに思い出す。ここは、准の腕の中は、本来自分の居場所じゃない。だってここは莉奈の――。

 離れなくちゃいけない。そう分かっているのに、まだ准に触れていたい。
 伊織がゆっくりと顔を上げると、そこには心配そうに、でも穏やかに自分を見つめる准がいた。
「……伊織?」
 自分の名前を呼ぶその唇で、いつか准は彼女の名前を呼ぶ。そしてきっと優しくキスをするのだ。そうでなくちゃいけないのだ。

 ――戻さなきゃ。
 准の運命を。あるべき未来に。
 そう思うのに、それでも今だけは、と伊織は縋るように准の首に腕を回した。
 そして、ゆっくりと目を閉じて、そっと唇を重ねた。

 次の瞬間、背中に回された准の腕に一層力が込められた。
 触れるだけだったはずのキスが熱を帯びる。少しだけ開いた口の隙間をこじ開けるように准の舌が深く入り込んできた。初めてのそれに少し驚きながらも、嬉しさで目の奥がツンと痛んだ。
 まるで奪うようなキスに、もうこのままなにもかも奪われたい。そんなことすら思いながら、伊織は自身の舌を准のそれに絡ませた。

 ――准、大好きだ。愛している。
 だからこそ、離れなければいけない。
 だって、自分は准の運命ではないから。

 頬を伝った涙がひとつ零れ落ちたことに、どうか准は気づいていませんように。伊織はただそう祈った。