そのタキシード、ちょっと待った

 前回の人生での新歓のことを、伊織は鮮明に覚えている。
 正確に言えば、忘れようにも忘れられない。

 准の隣に座っていた莉奈は、お世辞にも愛想が良いとは言えない准相手に、物おじせずに話しかけていた。そして、一次会が終わる頃、彼女は准に個別に連絡先の交換を申し込んだのだ。
 極めつけは、あのまっすぐすぎる言葉。

『私、たぶん碓氷先輩のこと、好きになると思います』
 甘酸っぱい柑橘の香りさえしてきそうなほど爽やかな宣言に、サークル中が沸き立った。
 ポーカーフェイスの准でさえ、驚きを隠せずに、目を瞬かせていたほどだ。

 そんな喧騒の中、伊織だけは笑えずにいた。
 長年片思いを続け、それでも想いを告げることができずにいた相手に、初めましてで告白を決める強敵が現れたのだ。試合開始直後にロングシュートを決められたゴールキーパーの気分だ。まったく面白くない。
 しかも追い打ちをかけるように、一次会が終わると周囲に囃し立てられた准は、莉奈を家まで送ることになった。
 もちろん准のことだから、本当にただ送り届けるだけだとは分かっていた。
 けれど、夜の街へ消えていく二人の背中を見て、どこまでも焦燥感が募った。

 事件が起きたのはそのあとだ。
 現実から目を逸らすように酒を煽った二次会からの帰り道。酔いどれの伊織はあろうことか蓋が外れた側溝に足をはめてしまったのだ。

 結果、全治三ヶ月の右足の骨折。
 涙がこぼれたのは、骨折の痛みか、それとも想いを口にできない自分の情けなさゆえか。今となってはもう覚えていないが、とにかくあの新歓の記憶は、鈍い痛みと共に伊織の心に深く刻まれている。
 思えばあれが、莉奈の最初のアプローチだった。つまり、今日から二人の関係が始まったといえるだろう。

 掘りごたつのある居酒屋には、四十人を超えるサークルのメンバーが集まっていた。前方では原が乾杯の挨拶をしているらしく、そこかしこで笑い声も起きている。
 けれど伊織の意識は、隣に座る准へと向かっていた。
 そしてその奥には、まだ垢抜けてない青さの残る莉奈がいる。何色にも染まっていない黒髪は、さらりと背中に流れていて思わず触れてみたいほどに艶やかだ。薄いメイクと、いつも口角の上がった口元から、彼女の純朴さを感じる。
 並んでいる二人を見るのは、結婚式以来のことだった。

 ――やっぱりお似合いだな。
 一目見て、そう思った。
 もし『運命』なんてものがあるとすれば、きっとこの二人のことを指すのだろう。誰もがうらやむ理想的なカップルを前に、伊織は自分が准の運命の相手ではないことを、はっきり突きつけられたような気がした。そもそも女に生まれてこなかった時点で、そんなこと明白なわけだけど。

 きっとこのままいけば、莉奈はまた准を好きになり、二人は距離を縮めるだろう。そして莉奈の猛アプローチの末、二人は結婚するのだ。
 ――俺はそれをまた、指をくわえて見ているのだろうか。
 伊織は逃げるように二人から視線を逸らし、目の前のグラスを見つめた。

 こういう時は酒を飲むに限るのだが、今日はなぜか准に禁酒を命じられている。伊織は仕方なくグラスに注がれた黒烏龍を喉に流し込んだ。
 冷たく黒いお茶が喉を通り、自分の内側に広がっていく。それがやがて腹を黒く染め上げたとき、伊織は決意した。
 ――准は渡さない。
 莉奈には悪いが、今准と付き合っているのは自分だ。
 ひどく卑怯で卑劣な気もするけれど、なりふりなんて構っていられない。
 伊織は、今日の新歓で二人の仲が深まらないように立ち回ろうと、静かに、けれど強く決意した。

 ……のも束の間、伊織は目の前の光景に焦っていた。
 乾杯のあと、莉奈と准が話を始めるよりも前に、どうにか准の意識を自分へ向けさせたい。そう思っていたはずなのに、今伊織は複数の女子に囲まれている。

「伊織先輩、今度テニス教えてください」
「伊織先輩、お酒弱いんですか?」
「伊織先輩は、彼女いるんですか?」

 前の人生を思い出して、伊織はそうだったと頭を抱えた。自分のことはすっかり忘れていたが、そういえば前もこうして新入生の女子に取り囲まれたのだった。
 せっかく准の隣に座ったというのに、これでは会話をさせないようにするのはおろか、二人の会話すら聞こえない。
 女子たちに愛想笑いで対応しながらも、意識はずっと隣に座る莉奈と准に向いていた。
 まだ大丈夫。まだ二人は何も話していない。
 ちらちらと端で確認しながら、どうにか早く切り上げようと思っていたその時だった。
 何やら莉奈が准に声をかけたのだ。けれど、女子たちの甲高い声が邪魔して、肝心の内容までは聞こえない。
 ここからは准の顔は見えないが、屈託なく笑う莉奈の顔を見る限り、会話に花が咲いているようだ。
 その光景に、どこまでも焦燥が募った。
 二人の結婚へと続くレールが今まさに敷かれていっているような気がして、心臓が嫌に脈を打つ。

 けれど、目の前の女子をどう撒けばいいかもわからない。
 よく准にも言われるが、こういう自分の八方美人な性格が本当に嫌だ。
 大きなため息を一つ吐いたその時、背中越しの准と目が合った。

 形だけとは言え、今自分は准と付き合っている。恋人が女子に囲まれていれば、いい気はしないかもしれない。
 もしかしたら。もしかしたら少しくらい、気にしてくれるかもしれない。
 そんな期待が胸をかすむ。
 けれど准は新入生に囲まれる伊織を見て、小さく笑った。「大変だな」とでも言いたげな、どこか余裕のある表情。
 そこに、嫉妬の色はない。

 ――ああ……、そうだよな。
 浮ついていた感情が、ゆっくりと沈んでいき、体の芯から、すぅっと熱が引いていく。
 分かっていたじゃないか。なのに、何を勘違いしていたんだ。
 別に准は伊織が誰にモテようと、どうってことないのだ。だって、彼の好きは恋愛のそれではないから。あくまで友達として。
 莉奈と話をする准を見て、焦って嫉妬して、どうにかなりそうな自分とは違う。

 准と付き合って、唇を重ねるうちに忘れていた。准にとってこれはただのごっこ遊びに過ぎないってことに。
 恥ずかしさと悔しさで、涙の水位がどんどん上がっていく。
 もはや目の前の女子たちの声も耳には届かなくなったとき、上から能天気な声が降ってきた。

「おい、伊織。ちょっとこの間のことで話あるから来てくれへん?」
 少し離れた席から、原がこちらに向かって声を張った。
 見上げると、原が手招きしている。
この間のこと、とはなんだろう?
 全く身に覚えがない。けれど、ここを抜け出せるならなんでもいい。

「ああ、分かった」
 伊織がそう返事をして腰を上げると、囲んでいた女子たちから残念そうな声が沸いた。
「原先輩、めちゃくちゃ空気読めないじゃん」
 漏れ聞こえた声に苦笑いしながら、伊織にとってはナイスタイミングだったぞと原に心の中で親指を立てる。
「ごめん、呼ばれたから行くね。皆もせっかくの新歓だから、他の先輩たちと話してきた方が良いよ」
 そう言い残して、伊織は原の元へ向かった。

「助かった。俺が困ってたから声かけてくれたんだろ?」
「は? なに言うてんねん」
 原は本当に訳がわからないという表情で、伊織を見上げた。
「お前が新入生の、しかも女子を独占しとったから注意するために呼んだんにきまっとるやろ!」
 ばしばしと伊織の足をたたく原に、伊織は苦笑いを漏らした。
 そうだった。原はこういう奴だった。

「お前、これ以上はもうモテるな。わかったな?」
 念を押すように指をさされ、こっちだってモテたくてモテてるわけじゃないんだよと思いながらも、「ハイハイ」と返事をする。

「今年の新歓、新入生めっちゃ多いやろ? 特に女子。なんでか理由わかるか? 俺がめちゃくちゃ頑張ったからや。それなんに、なんでお前が全部持っていくねん」
 納得がいかないというように睨む原に、伊織はムッと眉をしかめた。
「……頑張ったって、お前はチラシに俺と准の写真使っただけだろ?」
「え、知っとったんかいな」
 原は驚いたように目を見開く。
 本当のことを言うと知らなかった。前回の人生では。けれどこちとらこの会話も二度目なわけで、覚えている。
 後になって知ったが、たしかそのチラシには伊織の写真から吹き出しが出て『彼女募集中です!』と書かれていたっけ。

「もちろん使用料いただくからな」
「……わかった。学食券三枚でどうや?」
 苦虫を嚙み潰したような顔で交渉する原に、伊織は首を横に振った。
「いや、一枚でいいよ」
「ほんま?! さすが伊織クン、心までイケメン!」
 意図的ではないにしても、さっきは助けてもらったし、それに原は知らないのだ。
 一ヶ月後、伊織に取り付く島がないことと、想像以上にガチなテニスサークルだったと、女子の半分以上が辞めることを。

「とりあえずお前はトイレにでも一回行っとき。その間に女の子散らしておくから」
「ハイハイ」
 原に言われるがまま、伊織はその場を後にした。
 原は空気が読めないなんてよく言われるが、本当は空気を読みすぎているのかもしれないと思うことがある。
 本当は自分が困っていたことに気付いて……なんて買いかぶりすぎだろうか。

 居酒屋の奥にある手洗い場を見つけ、ちょっと手を洗ったら戻るか、と足を踏み入れたとき、「うっし!」と耳を突き破るような声が飛びこんできた。
 あまりの大きさに、思わず肩が跳ね上がる。恐る恐る奥を覗くと、手洗い場に、鏡に向かって気合いを入れる川久保がいた。
 なんというか大体はみんなこの六年でいろいろ変わっているけれど、こいつだけは未来のままだ。
 短髪の髪が剣山のように、上に向かっている。

「うわっ、伊織先輩! いるなら声かけてくださいよ」
 伊織の存在に気付いた川久保は驚くように肩を持ち上げた。驚いたのはこっちの方だよ、とまだバクバクしている心臓を抑えながら、こっちで川久保と話すのは初めてだっけと思い出す。
「川久保君だっけ……? どうしたの大声だして」
 酔っぱらったのかとも思ったが、表情を見る限りそうではないようだ。川久保は酔うと顔が真っ赤になると、結婚式の二次会で知っている。
「すみません、ちょっと気合い入れてました」
「ふふっ、何の気合い」
 小さく笑いながら、伊織は川久保の隣に並び、手を洗った。

「あのっ、伊織先輩……!」
「ん?」
 不意に呼びかけられ、首を横に向ける。
 川久保はまっすぐに伊織を見ると、一度口を大きく開け、そのまま一拍おいて、でもすぐに口を閉じた。
 どうしたのだろうと首を傾げると、川久保は少し逡巡の後、ニカッと口を広げた。
「……俺、頑張ります! 先輩も頑張ってください!」
 はて、何を頑張るというのだろう? もしかして再来月の大会のこととか?

 ぽかんと口を開ける伊織をよそに、川久保はそれ以上何も言わなかった。
 そして「それじゃ自分戻ります!」と満面の笑みだけを残し、手洗い場を後にした。
 なんというか嵐のような男だ。けれど、少しだけ元気が沸いたのも事実。
 さっきまで、もうどうにでもなれと半分投げやりになっていた心が、ふわりと軽くなった。

 伊織は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
 とりあえず、今は自分のできることをしよう。今の自分が後悔しないように。
『先輩も頑張ってください!』
 その言葉に背中を押されるように、伊織も手洗い場を後にした。