そのタキシード、ちょっと待った

「今夜の新歓、お前は酒飲むなよ」
 一限の講義に間に合うようにバタバタと朝の支度をしていると、准が「そういえば」という枕詞の後に声を続けた。

「え、なんで?」
 思わず準備の手を止めて目を向けると、すでに支度を完璧に終えた准がコーヒーを片手に優雅にこちらを見ている。
 長い足を持て余すようにクロスしているさまは、まるでモデルのようで見惚れてしまう。
 さきの会話のことなど忘れて、伊織はただ目の前の親友が纏う、どこか人を引き付ける空気に意識を奪われていた。いや、厳密にはもう、親友ではなく、恋人なのだが――。

 准と付き合い始めてから一週間が経った。
 最初こそ夢なのではと思っていたが、どうやらそうではないらしい。夢にしてはあまりに長すぎるし、もしこれが夢なら、説明できないほど、五感にあふれている。
 どうやら自分は本当に過去に戻ってしまったらしい。あまりにありえない話だが、今はそう思う以外、説明がつかない。

「あと、二次会には行かないで、一次会終わったら俺と帰るぞ」
 伊織の問いかけに答えることもなく、准は淡々と言葉を続けた。
 提案にしてはあまりに一方的すぎる決定事項に、伊織は見惚れている場合じゃないぞと、かぶりを横に振った。

「いや、だからなんでだよ。理由を言えって」
 別に酒が飲みたいわけではないし、二次会に行きたいわけでもない。
 けれど、准がわざわざそう口にする理由が分からないのだ。
 一瞬、『束縛』という言葉が頭を過りもしたが、すぐに打ち消した。准に限ってそんなことあるわけがない。
 前回の人生で、莉奈と付き合っていた時ですら、一切の束縛はなかったはずだ。
 まるでどこまでも広い草原に放牧された羊のように自由にされすぎて、莉奈自身が『本当に愛されているか不安』と伊織のもとに相談に来たほどだった。
 束縛じゃないのなら、どんな理由だと頭を捻っていると、准がわずかに眉間を寄せた。

「……最近、酒弱くなっただろ? また酔っ払われて、記憶飛ばされたらこっちが迷惑被るんだからな」
「それは……」
 伊織はそこまで言うと、口を噤んだ。
 別に酒が弱いわけではない。普通、いやそれ以上だと思う。けれど准がそう言うのには理由がある。

 まさに一週間前の二人が付き合うことになったあの夜。どうやら伊織は缶チューハイ一本半でベロベロに酔っ払ってしまったようなのだ。
 普段だったら絶対にありえない。じゃあなぜ――。そう考えたとき、一つの可能性に辿り着いた。
 もしかすると、自分が過去に戻ったのは、こちらの自分が准と酒を飲んでいる最中だったのかもしれない。
 准に起こされた朝、過去に戻ったと思い込んでいたが、本当はもう少し前――准と二人で酒を飲んでいた最中に今の自分と代わってしまったのかも。
 そう思えば、全ての辻褄が合うのだ。

 だって普段の伊織なら、准と二人の時に「ゲイなんだ」なんて考え無しの暴露は絶対にしない。
 十三年ひた隠しにしてきた想いだ。そんなへまするはずがない。
 これまで准と飲むときは酒を飲みすぎないように自制してきたし、大学三年の時、初めてゲイ用マッチングアプリを入れたときは、バレないようにそれ用のスマホを契約したほどだ。
 とにかく徹底して、准に自身の想いを悟られないようにしてきた。
けれどもし、暴露したのが、結婚式の二次会後の自分だとしたら――。話は別だ。
 あの日は、結婚式の傷心から、かなり酒を飲んでいた。普段は絶対に口にしない自分の性指向を、後輩の川久保にあっさりと話してしまったほどだ。
 気が付くと目の前に現れたハーフアップ姿の准に、ここが過去だとは露も思わなかっただろう。むしろ、夢だと思ったに違いない。
 どうせ夢なのなら、全部ぶちまけてしまいたい。そう思って自身の性指向をつい口にしてしまったのだろう。

 そうだとすると、過去に戻ってからずっと疑問だった『なぜ未来が変わってしまったのか』という問いにも納得のいく答えが出せる。
 本来変わるはずのなかった未来を変えたのは、准の結婚式を前に後悔しまくったあの日の自分だったのだ。
 何やってんだよと、酔いどれの自分に呆れる一方で、よくやったと褒めてもあげたい。
 だって、それのおかげで今、伊織は准と付き合えているのだ。
 はっきり言って奇跡としか言いようがない。
 もちろんほとんど准の優しさで付き合えているわけだけど、伊織にはそれで十分だった。

 准と付き合ってから、日々は劇的に変わった――などということはなく、ほとんど前の人生と同じような日々を過ごしている。
 学部も、サークルも同じ。ゼミとバイトは違うけれど、それ以外はいつも一緒。基本的にお互いの部屋を行き来して、どちらかの部屋に泊まる。
 ただ一つ、変わったことがあるとすれば――。

「伊織。早く行くぞ」
 気づけばコーヒーを飲みほしたらしい准は、玄関で靴に足を入れていた。
 待って、とその背中に声をかけながら、バッグに参考書を詰め込み、伊織も玄関まで向かう。
 少し窮屈なスニーカーに足を入れて、トントンとつま先で地面をたたいていると、准がくるりと振り返って伊織と向き合った。
「じゃあはい。いつものどうぞ」
「…………」
 さらりとした口調で、両手を前にだしてわずかに口角をあげる准を前に、伊織は思わず押し黙る。

「早くしないと遅刻するけど。俺は別にいいけど、伊織は単位やばいんじゃない?」
 意地悪そうに笑う准に、伊織はあえて不貞腐れたように上目で睨む。そうでもしないと気恥ずかしさに頭が沸騰しそうなのだ。
 伊織は小さく息を吐くと、わずかに首を下に伸ばした准に届くように顔を上に向け、その唇に――キスをした。

 唇同士が触れた瞬間、腰に回った准の手にわずかに力が入る。
 決して深くはない、触れるだけのキスだけれど、伊織には脳が沸騰するほどの威力をもつ。今にも膝から崩れ落ちそうなのを、ぐっとこらえて必死に両足に力を入れる。
 毎度のことだけれど、これだけは全く慣れる気がしない。

 親友の時は知らなかったが、准はどうやらキスが好きらしい。
 起き抜けに、行ってきますの前に、ただいまの後で、おやすみの代わりに。
 准はまるで挨拶のように、伊織にキスをする。
 一度ちょっと頻度が多すぎやしないかと伝えたが、「今でも十分我慢してる方だけど」と本気か冗談か返された。
 准とキスをするのが嫌なわけではない。むしろしたい。
 だって、これまでずっと想像しては、現実になるわけがないと諦めてきたのだ。
 何十回、いや、何百回と想像した准とのキスを嫌だと思う、わけがない。

 それでも躊躇してしまうのは、それが自分にしか、意味を持たないから。
 たかがキスごときで毎度舞い上がって、脳内盆踊り状態の伊織と違って、准にとってこれはただのスキンシップ。そこに愛はなくて、あるのは友達としての優しさ。
 だって、准はゲイではない。あくまで伊織が人として好きだから、放っておけなくて相手にしてくれているだけだ。
 それに、キスをするたびに莉奈の顔が頭に浮かぶ。こんな風に――いや、これよりもっと深いキスをきっと彼女とはしていたのだろう。
 そう思うと、大きく弾んでどこまでも昂っていた胸は穴の開いた風船のように一気に萎んで、落下していく。
 愛のないキスは、嬉しさと虚しさを一気に伊織に運んでくる。
 こんなの間違っている。だって、行きつく先は何もない。そうわかっているのに、自分からこの関係を手放すこともできない。
 
 だからせめて准が飽きるその時まで、どうか側にいさせて――。
 そう祈るように目を閉じたまま、伊織は唇からそっと離れた。

 閉じていた目を開けると、そこにはいつも通り、満足げに微笑む准がいた。
 このままキスだけじゃなくて、自分のことも好きになってくれたらいいのに。
 思わず声に出しそうになる言葉を飲み込み、伊織は代わりにそっけない声を出す。
「ほ、ほら。早くいくぞ! 単位落としたらお前のせいだからな」
「大丈夫。来年も一緒に授業受けてやるから安心しろ」
「なんで落とす前提なんだよ!」
 軽口をたたきながら、玄関の扉に手をかける。
 勢いよく開いた先にはまぶしすぎる朝陽がこちらを照らしてくる。
 伊織はそれを直視しないように目を逸らした。

 今夜の新歓で、准は莉奈と初めて出会う。
 そして前の人生と同じであれば、莉奈は今日、准を好きになる。