そのタキシード、ちょっと待った

 ふと、昨日の最後の記憶を思い出す。
 夢現の中、伊織は祈ったのだ。
『准が彼女に出会う前に戻れますように』と。

 ――俺が、祈ったから? その願いがかなったのか?
 馬鹿げた考えだ。けれど、それ以外に思いつかない。
「夢……か……?」
 理解を超えた状況に、思わず言葉がこぼれる。
 けれど、夢にしてはあまりに鮮明だ。それでいて生々しい。
 
 手にしたスマホの重さも、渡されたコーヒーの香りも、そして、触れられた准の温かな手も、全てがリアルなのだ。
 もう何が何だかわからない。点と点を繋ぐ思考の糸が絡まって、解こうとすればするほど、余計にもつれていく。
 そんな感覚にどうしていいか分からず、泣きたい衝動に駆られたとき、頬に刺すような冷たさが走った。
「つ、冷たっ!」 
 あまりの不意打ちに両肩がぎゅっと持ち上がる。

 頬にはキンキンに冷えたペットボトルが当てられていて、その奥で准が意地悪そうに微笑んでいた。
「驚きすぎだろ。ほら、水」
「あ、ありがと……」
 伊織はペットボトルを受け取ると、ゆっくりとそれを口に運んだ。

 水を飲んではじめて、自分がいかに喉が渇いていたのかに気付く。
 喉を通過し、胸に落ちるその冷たさが昂っていた体温を和らげる。
 まだ何一つ解決してないはずなのに、さっきまでわだかまっていた感情のもつれが、するすると解けていき、思考が少しだけクリアになった。
「少しは落ち着いたか?」
 准の問いかけに、言葉の代わりに、こくりと頷くと、准は呆れたようにため息をついた。

「まったく、弱いのに酒飲みすぎなんだよ」
「……ごめん」
 二日酔いからくる体調不良だと思っている准に話をあわせながら、苦笑いして見せる。
 すると准は少し黙った後で、眉間に皴を寄せた。言いにくいことを口にするとき、准はよくこの顔になる。
「……念のためだけど、昨日した話は覚えてるよな? 忘れてるとは言わせねーよ」
「え? 昨日の話……?」

 もちろん覚えているわけがない。伊織にとって昨日と言えば、『結婚式』のことだけれど、おそらくそれではないのだろう。 
 これが伊織の過去ならば、きっと前にも一度言われた言葉なのだろうと思い、頭をフル回転させながら、六年前の今日を必死で思い出してみる。

 けれどそんなもの思い出せるわけがない。何か特別な出来事があれば別だが、今日は特別でないただの一日。六年前に交わした会話なんていちいち覚えているわけがないのだ。
「ごめん、酔っぱらってて。何も覚えてない……」
 あくまで酒のせいで覚えてないことを告げると、准は再び大きなため息をついて、まっすぐに伊織を見た。そして、なぜか自身の指先に、伊織の指を絡めた。

「俺たち、付き合うことになっただろ」
「付き、合う……」
 言葉をなぞるように復唱してみる。触れられた指先にキュッと力が入る。
「そう、付き合う」
「えっと……、どこに?」
 普通に考えれば、付き合うといわれて思いつくのは一つだけだ。

 けれどそれは、自分が准を好きだからこその都合の良い解釈かもしれない。そうだとしたら恥ずかしすぎて、伊織はごまかすようにへらりと笑って見せた。
「古典的なボケすんな。恋人になるってことに決まってんだろ」
「恋人……。ははっ、俺と准が……?」
 やっぱりそういう意味らしい。
 本来嬉しいはずの出来事なのに、まったくもって喜べないのは、まるで現実味がないから。
 何かの間違いか、はたまた冗談だろうと笑ってみたが、准はいたって真剣なままだった。

「え、マジ……?」
「マジだよ」
 即答され、心臓が内側の骨をきしませるほどに跳ね上がる。さっきまでとは比べ物にならないほどの動揺が全身を巡り、思考回路が今にもショートしそうになる。
 ――あぁ、これは絶対に夢だ。

 だってそんなことあるわけない。准と恋人になるなんて。
 よってこれは夢だ。そうとしか思えない。
 瞬きも忘れて呆然と立ち尽くす伊織に、准は少しすねるように唇をわずかに尖らせた。

「なんだよ。やっぱり覚えてねーのかよ。……お前から話題ふったくせに」
「お、俺から話題をふった……?」
 それってどういう意味だ。
 もしかして、准に片思いしていることを、酔った勢いで漏らしてしまったのだろうか。
 まさか、そんなことあるはずがない。
 だって、准と二人で酒を飲むとき伊織は、絶対に飲みすぎないようにと決めているのだ。
 酔った勢いで告白したりしないように。思いが溢れて、襲ったりしないように。
 いつも理性的な自分でいれるように心がけていた。そのはずだった。

「そうだよ、お前から言ってきたんだろ。レポート終わって久々に二人で飲んでたら、『実は俺、ゲイなんだ』って」
 想像していた言葉とは違った回答に一瞬安堵しながらも、いやいやそれはそれでアウトだろ、時間差で気づく。
「それ、俺が言ったのか……?」
「嘘だと思うか? でも、だったら俺はなんでお前がゲイだってこと知ってるんだと思う? お前から直接聞いた以外に説明のしようがないだろ」

 たしかにそれはそうだ。
 これまで家族にも、親友の准にも言わずに必死で隠してきたのだ。伊織自身が漏らさなければ、バレるはずがない。
 あまりの驚きに開口したまま呆然としていると、准はこともなげに言葉を続けた。
「同じ同性愛者を見つけるのも大変なんだってお前が言うから、じゃあ俺と付き合ってみるかって提案したんだよ。俺……、お前のこと好きだし」
 さらりと告げられた「好き」という言葉に、伊織は耳を疑った。
 けれどすぐに、その言葉の意味を理解する。准の言う「好き」は、おそらく「人として」という前置きが入る、「好き」だろう。

「准は……、准はゲイなわけ?」
 そんなわけことはないことは百も承知だ。だって准は今から六年後、莉奈と結婚するのだから。
 それでも万に一つの可能性に縋るように訊ねてみると、准は考えるように宙を見た。
「ゲイ……ではないと思う。男には興味ないし」
 少し期待していた分、男に興味がないという言葉が、矢になって胸に刺さる。痛い。

「……わかってると思うけど、俺、男だよ?」
 いくら伊織が細身とは言え、女子と並ぶとその違いは歴然だ。それに准には劣るが、伊織も長身の部類に入る。
 どう見たって男な自分と、ゲイでもないのに付き合えるなんて意味が分かっているのだろうか。

「わかってる。ってか、伊織は特別だろ」
 迷いなく言い切られて、息が詰まった。
「特別」というその響きに、またもや勘違いしてしまいそうになりながら、伊織は必死で自分に言い聞かせる。

 ――これはあくまで親友としてって意味だ。だから、変な期待はしちゃいけない。
 伊織のそんな葛藤など知る由もない、准は何気ない顔で言葉を重ねる。

「今は同性愛者用のマッチングアプリもあるみたいだけど、絶対に安全とはいいきれないだろ? その点、俺は安心安全だ。伊織が嫌がることは絶対にしないし」
 あくまで友人として、親友が危ないやつにひっかからないように。それ以上でも、以下でもない。
 その優しさに付け入らない手はない。そう思う一方で、准の優しさを利用しているようで、気が引けてしまう。
 
 煮え切らない伊織に、業を煮やした准は、逃げ場を塞ぐようにぐっと顔を寄せた。
「今、何を考えてんの? お前は昔から、物事を難しく捉えすぎるとこがあるからな。もっと単純に考えろよ。俺はお前が好き。お前は? 俺のこと、嫌い?」
 嫌いなわけがない。それでも手放しで好きだとは言えない。だって准の「好き」と俺の「好き」じゃ、あまりに違いすぎる。春の陽だまりと、梅雨のぬかるみのように真反対だ。
 しかもそのぬかるみは底なしで、一度はまったら抜け出さないと来ている。

「俺は……」
 迷ったままそう口にしたとき、少し開いた窓から風が吹き込んだ。それと同時に、真っ白のカーテンが空気を孕んでふわりと揺れた。
 そこに莉奈のウェディングドレスを見た気がした。そしてその横で微笑む准の顔も。
 
 結婚式で二人を見つめていた時の、あの苦い感情が一気に喉奥まで駆け上る。
 あのとき、心の底から後悔したじゃないか。なんで告白しなかったのだろうって。
 もう二度と、後悔はしたくない。
 それに。どうせ夢だ。だから、「もしうまくいかなかったときはもう隣にすらいられない」なんて悲観することも、「准の優しさを利用して、浅ましい」なんて思い悩むことも、しなくていいのだ。どうせすぐに目が覚める。
 目が覚めたら、准は莉奈のもの。
 それならば、せめて夢の中でくらい、自分のものでいさせてほしい。

 伊織は持てるすべての勇気をかき集めて、口を開いた。
「嫌いじゃ……ない。准のこと、嫌いじゃない」
 どこまでも顔を赤らめる伊織に、准は満足げに微笑むと、すっと伊織の腰に手を回した。
「え、ちょっと――」
 言葉を言い切る前に、腰を引き寄せられ、准の顔がぐっと迫ってきた。

「キスだけ。……嫌なら殴って」
 あくまで最終判断は伊織に任せるらしい。なんてずるいんだ。だってそんなのノーとは言えない。
「嫌じゃない……」
 自分のものとは思えない甘く粘度のある声に、恥ずかしさが募る。
 それでも、
 ――どうせ夢だ。
 きっと唇が触れる前に目が覚めるに決まっている。夢はいいところで目が覚めるのが定石なのだ。
夢なんだから少しくらい大胆になってもいいだろう。

 伊織は准の首元に腕を回すと、上目でねだるように准を見た。
「キス……したい」
 途端に准の顔が、雄の顔に変わる。それは今まで見たことがなかった准だった。
 ゆっくり唇が触れ合っては離れて、また触れ合う。
 それでも夢が覚めることはなかった。
 ソファの上に転がったペットボトルから、汗ばむような水滴が落ち、布地にじわりとしみこんで、ゆっくりと広がっていった。