そのタキシード、ちょっと待った

「――り。――おり!」
 まどろみの向こうで声が聞こえる。
 声の主が誰なのかは、顔を見なくてもわかった。
 だって、いつもその声に振り向いてきたから。
 たとえ夢の中だとしても、彼の声だけはしっかりと自分に届いて、いつだってどうしようもなく心を揺さぶる。

「伊織!」
 准の声が耳元で聞こえ、伊織は体をはねるようにびくつかせた。
「……おはよう? いや、こんばんは……?」
 眠たい目を擦りながら半身を起こす。
 重力に逆らえない瞼は、今もまた伊織を夢へといざなっていく。
「おい、寝るなって」
 シャララララと、カーテンを開けるような音と同時に、目を逸らしたくなるほどの朝陽が容赦なく差し込む。
 あまりの眩しさに何も見えないが、どうやら挨拶はおはようで、合っているらしい。

「……起きる。起きるから」
 カウンターに突っ伏したまま寝ていたからか、首から背中にかけて、銅版のように強ばっている。
 まだ二十六歳とは言え、最近は疲れが溜まりやすくなってきた。特に、こんな風にベッドで寝なかった日は、体中がバキバキだ。
 小さく伸びをしながら、ふと思う。
 ――あれ? なんでこんなとこで寝てるんだっけ。

 朝陽のおかげで、徐々に鮮明になっていく意識の中で、伊織は昨日のことを思い返した。
 昨日は准の結婚式で。二次会まで行って、川久保と飲んでいて。途中で眠くなって……。
そこまで思い出したとき、靄がかかったように朦朧としていた頭が、一気に晴れていく。

「……え、うそ。俺、あれからずっと寝てた? うっわ、まじか……」
 あれだけ准に飲みすぎるなと言われていたのに、二次会でつぶれてそのまま寝てしまったなんて、最悪だ。
 焦る伊織に、准は呆れたように小さくため息をついた。
「……とりあえず、コーヒー淹れてくるから待ってな」
 そっけない言葉とは裏腹に、穏やかな口調に、准なりの優しさを感じる。
 結婚式で昨日は疲れているだろうに、コーヒーまで出してくれるなんて。申し訳なさすぎる。

 それにしても頭が痛い。完全に飲みすぎだ。
 結婚式の記憶まるごと飛べばいいのに。そう思って、浴びるように飲んだものの、もちろん都合よく消えるはずもなく、頭痛という後遺症だけが残ってしまった。
 机に肘をついて、頭を抱えるように額をおさえていると、ふと視界にノートとペンが見えた。
 どうやらそれらを下に敷いて眠ってしまっていたらしい。頬を触ると、ノートの跡がしっかりとついている。
 バーのカウンターで眠っていた――つもりが、伊織が突っ伏していたのは、准のローテーブルの上だった。
 大学時代から使っている、オーク材のローテーブルの上には、ノートや参考書、ペンが乱雑に置かれている。
 その様に、相変わらずだなと笑みがこぼれた。綺麗好きな准だけれど、机だけは学生時代から散らかっている。

 ここが准の部屋だということは、バーで泥酔した伊織を、准が部屋まで運んでくれたということだろう。
 状況を整理しようと思うにも、眠気と頭痛で、頭は思うように働いてくれない。
 それでも今は、一秒でも早く、ここから出ていくことが賢明だろう。
 だって昨日は結婚式。きっと余韻に浸りながら、夫婦水入らずで過ごしたいはずだ。
 そう思って伊織は重い腰を上げた。

「准、コーヒーは大丈夫。それより、ごめんな。いろいろ迷惑かけちゃって。俺、もう帰るから」
キッチンに向かって、そう声をかけながら、辺りを見回して自分の荷物を探そうとしたとき、伊織は気づいた。
 スーツだと思っていた自身の服が、なぜかスウェットだったのだ。
きっと准が、皴にならないようにと、着替えさせてくれたのだろう。

「あー、俺のスーツどこ? てか、森本にも挨拶しとかないとな。あ、もしかして、まだ寝てる?」
「…………」
 キッチンに向かって声をかけるが、返事がない。

 そのとき、伊織の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
「あれ……、そういえばお前、引っ越したんじゃなかったの?」
 そう、准は先月、莉奈と住むためのマンションへ移ったはずなのだ。
 新居には一度誘われたが、どんな顔して二人の愛の巣にお邪魔すればよいのか分からず、仕事が忙しいと嘘をついて、断った。
 それなのに、なぜ今も准は、大学時代に借りたこの部屋にいるのか。

 部屋中をまじまじと見回しながら、最後にここに来た時と変わらない風景に懐かしさを感じる。
 ここに足を踏み入れるのは、四年ぶりだろうか。
 もともとは伊織も、このアパートの近くに住んでいた。同じ大学に入学が決まったとき、できれば近くに部屋を借りようと約束し、伊織は徒歩二分のところにアパートを借りたのだ。
 あの頃は、どちらがどちらの部屋かわからないほどに行き来していたが、准が莉奈と付き合い始めたのを機に、伊織は准の部屋に行くのをやめた。

 二人を邪魔したくないから、というのは建前で、本当は部屋の中にある莉奈の痕跡を見たくなかったから。
 このベッドで二人が何をしているのか――。
 そう考えるだけで、コーヒーのような真っ黒な感情が、胸の奥にじわじわと広がっていった。
 
 そして、三年前。伊織は就職と同時に引っ越しをした。別に職場が遠くになったわけではない。それでも引っ越したのは、二人の睦まじい姿を見たくなかったから。
 最寄り駅が一緒だと、いつばったり出くわすかわからない。
 もし二人に会えば、きっと心は壊れてしまう。
 いつ崩れるかわからないジェンガのように、いとも簡単に、バラバラと音を立てて。
 そう思うと、近くになんて住めなかった。
 
 けれど、久しぶりに訪れた准の部屋は、驚くほどに何も変わってはいなかった。
 大学時代のままの部屋に、懐かしさと共に、どこか奇妙さも感じる。
「なぁ、准――」
 何も返事をしてくれない准にも違和感を覚え、伊織はキッチンを覗き見た。
 そしてそこにいた准を見たとき――伊織は息を呑んだ。
 目の前にいる准は、昨日のピシャリときまったタキシード姿から一転、ティシャツにジーンズというカジュアルな装いで、光に当たると青にも見える黒髪を――後ろでハーフアップにまとめていた。

「え……」
 思わず口から声が漏れ、体が固まる。
 そこにいたのは――大学時代の准だった。
昨日まで短かったはずの髪は、一夜にして肩まで伸びていて、あの頃の准のトレードマークともいえるハーフアップにまとめられている。
 それに、見慣れているはずの顔が、まるで時を戻したかのように、若返って見える。

「准、お前、髪……。え、どういうこと? 昨日の結婚式までは短かったじゃん。……は? なにこれ、なんかのドッキリ?」
 笑顔が引きつっているのが自分でも分かる。笑って冗談にしてしまいたいけれど、そうするにはあまりに可笑しなことが起きている。

目の前に立つ准は、伊織を真剣な表情で見つめたあと、小さく口を開いた。
「伊織、もしかしてお前――」
 けれど准は、すぐに言葉を飲み込んだ。
 そして、代わりに一つ大きなため息を吐くと、呆れたように笑った。
「……結婚式とか、何の話だよ。てか、森本って誰。……お前、まだ寝ぼけてんだろ。とりあえずコーヒー淹れたから。ほら、飲め」
 いつものポーカーフェイスで差し出されたコーヒーを反射的に受け取る。そうして、コーヒーに目を落として、伊織は自分の目を疑った。

 なぜならコーヒーに映った自分が――大学時代の姿だったから。
 少し明るい栗色の髪の毛をした伊織が、コーヒーの中で戸惑った表情をして、こちらを見ていた。

 ――もしかして。
 そのとき、頭の中に、一つの可能性が浮き上がる。
 いやでも、そんな馬鹿なこと、あるはずがない。にわかには信じられないその考えに、コーヒーを持つ手が小刻みに震えた。
 けれど、目の前の准も、変わらないこの部屋も、そしてカップの中に映る自分も。そのどれもが、明らかに、一つの信じがたい答えに向かっている。

 コーヒーカップを見つめ、黙ったままの伊織を不思議に思ったのか、准は伊織の震える手を抑えるようにそっと握り、窺うように顔を見た。
「おい、……大丈夫か?」
手から伝わる准の温度と、自分を気遣うその柔らかな声に、息が浅くなるほどの動揺が、少しだけ解けていく。
「だ、大丈夫……」
「……まだ酒が抜けてないんだろ。とりあえずソファに座ってろ。水持ってくるから」
 准に促されるままソファに座り、一つ大きく深呼吸をする。

 ――もし。もし、俺の予想が正しいのなら。
 そう思ったとき、ズボンのポケットがブブブと小刻みに揺れた。
 ポケットから取り出したスマホを見つめ、予感は一層深まる。
 そこには伊織が数年前まで使っていた古い端末があった。画面全体に、十字架のようにできた特徴的な傷まで、すべてがあの頃のままだ。
 新しいものに買い替えた際、下取りに出したはずのものが、なぜか今、目の前にある。

 伊織は喉をごくりと鳴らすと、スマホの中のカレンダーアプリを開いた。
そして、そこに映る西暦を見て、細く長い息を吐いた。
 疑惑が確信に変わる。
 それなのに先ほどのような大きな動揺は押し寄せなかった。
 ただ、目の前にある現実を、受け容れることしか、もうできることはない。
 そこには、紛れもない六年前の数字が表示されていた。

 そしてそれは、准と莉奈がまだ出会う前の過去だった。