そのタキシード、ちょっと待った

「人生ってなんでこんなままならないんすかね……。もしゲームみたいにリセットボタンがあったなら迷わず押すんすけど」
 二次会のために貸し切られたバーで、隣に座る川久保は、嘲るようにそう言うと、手元のハイボールを勢いよく流し込んだ。
 話を聞き始めて、一時間。川久保はノンストップでずっと、後悔を垂れ流している。

 仮病で帰るはずだった二次会は、原の『俺らも新しい出会い見つけなあかんな!』という、はた迷惑な提案により、強制参加となった。
 仕方なく足を運んだものの、とてもじゃないが今日だけは周りのテンションについていけず、伊織は一人カウンターに座った。

 視線の先では豪華景品が当たるビンゴ大会が始まっているが、伊織はその様子を、グラスを片手に眺める。
 その時、隣の席になだれ込むようにどすんと、誰かが座った。あまりの音に驚いて目を向けると、そこには同じサークルの後輩、川久保が腰かけていた。
 相当酔っぱらっているのだろう。足元がおぼついていない。

 川久保はハイボールを注文するや否や、勢いよくそれを飲み干し、そして――嗚咽交じりに泣き始めた。
 その姿に伊織は、思わず目をぎょっと見開く。どうしたのかと、辺りを見渡してみるが、誰もがビンゴ大会に夢中で、その様子に気付いていない。
 仕方なく声をかけると、川久保は縋るように伊織に泣きついた。
 話を聞くと、どうやら失恋したのだという。あまりに自分と重なる境遇に、放っておくこともできず、今に至る。
「こんなに後悔するなら、もっと頑張っておけばよかったーって、今になってめちゃくちゃ思うんすよね……」
「あー、うん。……わかる」
 わかるなんてもんじゃない。
 それは伊織の言葉そのものだった。
「相手とは……、付き合ってたの?」
 どこまで踏み込んでいいのか迷いながら訊ねると、川久保はうなだれるように首を振った。
「いや、完全に俺の片思いっす。何回も告白したんすけど、毎度フラれて。友達としか見れないって……。いや俺だって、諦めようとは思ってるんすよ。でも、どうしても諦めきれなくて」
 目の縁に涙をうっすらと溜めた川久保は、ずびっと鼻を吸うと同時に、手で目を拭う。
「いや、告白してるだけお前は偉いよ。俺なんか、結局思いを告げることすらできなかったし」
 自嘲するように笑って見せると、川久保は伏せ気味だった顔をばっと上げて、目を瞠った。

「……伊織先輩も失恋したんすか?」
「あ、うん。まぁ、そんなところ」
 空になったグラスを傾けながら、伊織は眉を下げてみせた。
 失恋どころか、今日がその相手の結婚式だったなんて、もちろん口が裂けても言えない。

「伊織先輩でも失恋したりするんだ……」
 口からポロリとこぼれたような言葉に、伊織は小さく笑った。
「ふふっ、するよ。てか俺のこと、なんだと思ってんだよ」
「あ、いや、だって先輩、イケメンじゃないですか! 大学のときも、めちゃくちゃモテてたし。だから失恋とかには縁がないのかと、勝手に思ってました」
「いやいや、俺だってするよ。なんなら、本命には好かれないタイプ。もう十年以上、片思いしてるし」
「それはなんていうか……、すみません」
 本当に申し訳なさそうに頭を下げる川久保は、まるで雨に濡れた犬のようにしょんぼりと背中を丸めて見せる。

「そんな真剣に謝られたら、余計に俺がみじめになるじゃん」
「あぁ、そうっすよね。すみません。って、また……すみません」
 もはや何に謝っているのか分からない川久保に、思わず笑みをこぼしながら、伊織は空になったグラスをぼんやりと眺めた。
「好きな人の好きな人になれないなら、どれだけ見た目が良くても、意味ないんだけどな」
 自身の口からぽろりと零れた言葉に、鼻の奥がツンとした。
 まるで擦り傷に塗った消毒液のようにピリピリと痛みを伴いながら、胸に沁みてくる。
 そうだ。どれだけ他の人に好かれたって、意味がない。准だけでいい。たった一人、准にだけ好かれたいのだ。
 もし、女だったら。自分は准と結ばれただろうか。
 そんなありえないことを想像してみては、そうならない現実がただ虚しくなるだけで、伊織は手元のウィスキーをぐっと飲みほした。

「でも、先輩を好きにならない女の人がいるなんて……。相当美人さんなんでしょうね」
 川久保はそう言いながら、自身のハイボールと伊織のウィスキーを店員に注文する。
「あー、違う違う」
「え、先輩がのんでるのウィスキーじゃなかったですか?」
「いや、そうじゃなくて――」
 首を傾げる川久保に、伊織は頬杖をついたままさらりと告げた。
「俺、ゲイだから」
「は?」
 川久保は動きを止めた。

「だから、俺、ゲイなんだ。ほら、さっきお前『先輩を好きにならない女の人がいるなんて』っていったけど、相手は男。女じゃないの」
 伊織の言葉に、川久保はわずかに目を見開いた。
「えっ……、あっ、そうだったんすね」
 川久保は少し驚いて見せたが、すぐに何か納得するように小さく頷いた。

「あーでも、そっか。なんか納得。先輩めちゃくちゃモテたのに全然彼女作らなかったじゃないすか。なんでかなって思ってたんですよね」
 存外あっさりと受け入れてくれる川久保に、逆に拍子抜けしてしまう。
「けど、先輩めちゃくちゃ顔きれいだから、男からもモテそうっすよね。俺も先輩なら抱ける、かも……?」
  そう言って川久保は真剣な表情で伊織をみつめると、唇が触れ合いそうなほどの距離に、グイっと顔を近づけた。
「えっ……」
 反射的に顔をよけようとすると、その前に川久保が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……いや、すみません。やっぱ無理だ。あ、先輩が男だからじゃなくて。俺、やっぱりあいつじゃなきゃダメみたいです」
 なぜか勝手にフラれたことになっているのが癪に障るが、キスされなくてよかったと安堵する。
「いや、俺にも選ぶ権利あるから」
「あ、そうっすよね」
 へへ、と無邪気に笑う川久保に、伊織も思わず笑った。

 大学時代の友人はもちろん、准にすら告げてはいないカミングアウトを、なぜ彼に漏らしてしまったのか、自分でもわからなかった。
 酒に酔って判断がつかなかったのかもしれないし、誰かにこの想いを知ってもらいたかったからかもしれない。
 それに、正直川久保にどう思われようと、痛くも痒くもない。だから、口にできたのかも。
 もし相手が准だったら――。
 考えただけで酔いが覚めてくる。嫌われたら、避けられたら、そう想像しただけで、喉の奥がひりついた。

「みんながみんな、お前みたいに受け入れてくれたらいいんだけどな」
 そう言って伊織は、川久保の肩に手を置いた。瞬間、後ろから手が伸びてきて、伊織は手首をつかまれた。えっと後ろを振り返ると、そこには准が立っていた。
 准は伊織と川久保の間に割って入ると、伊織の前に水を差し出した。
「あんまり飲みすぎんなよ。今日は家まで送っていけないからな」
 聞きなれたはずの低く穏やかな声に、体がすうっと温度を上げる。アルコールの酔いが一気に体中を巡っていく。
 ふと、さっきのカミングアウトを聞かれたかもと焦燥が走ったが、それは隣から聞こえた大きな声にかき消された。

「碓氷先輩、何の用すか。俺たち今、失恋同盟で仲良く酒飲んでるんす! 幸せいっぱいの先輩は入ってこないで下さいっ!」
 川久保は、キッと准を睨むと、強い口調でそう告げる。
 幸せ絶頂の准を巨悪の根源のように思っているのか、やけに突っかかっている。どうやら絡み酒タイプらしい。

「なんだそれ。……ってか何失恋同盟って。……伊織も失恋したわけ?」
「え。いや、えっとー……」
 余計な事言うなと、じろりと川久保を睨むと、先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、川久保はかくんかくんと船をこいでいた。
 なんでこのタイミングで眠れるのか、理解できない。川久保は案外大物になるかもしれない。
「……俺、聞いてないけど」
 お世辞にも愛想があるとはいえない准の顔が、一層不機嫌にゆがむ。
「なっ、なんでお前になんでも話さなきゃいけないんだよ! ってか、今日はお前、主役なんだから、皆のところに早く戻れよ」
「……ちょっと休憩する。朝から疲れたし。そもそも結婚式とか柄じゃないし」
 准は伊織の隣に腰かけると、ウィスキーを注文した。
 いつもなら嬉しい准との時間も、今日だけはできれば避けたい。ふとした瞬間に想いが溢れてしまいそうなのだ。
 せめて話題は変えようと、伊織は視線を泳がせながら、口を開いた。
「た、たしかに、お前が結婚式なんてイメージできなかったけど、案外タキシードも似合ってたぜ。いい結婚式だったな。準備、大変だったろ?」
「まぁな。でも、ほとんど莉奈がやってくれたから俺は何も。ただ隣に立ってただけ」
 准は冗談めかしてそう告げたあと、少し視線を伏せた。
「伊織もスピーチ、ありがとうな。……なんかいろいろ思い出して、ぐっときた」
 ぐっときたという割りには、表情が暗い。その違和感を訊ねようとしたが、「それよりも」と准が先に声を出した。
「失恋の相手って、職場の子?」
「……いや、違うけど」
 前のめりな姿勢に、絶対に聞き出すという、准の強い執念を感じる。
 伊織はボロを出さないように、ごくりと喉を鳴らした。
「じゃぁ、どこで知り合ったんだよ?」
 まるで尋問のようにまっすぐな瞳に見つめられて、もういっそのこと、『好きなのはお前だよ!』と言いたい衝動に駆られた。
 酔っぱらいは判断力が鈍るから危険だ。湧き上がる衝動を必死に抑えながら、逡巡していると、伊織の代わりに横から声が伸びた。 

「なんか、長いこと片思いしてるらしいっすよ」
 急いで横に目を向ける。その視線の先にいたのは、さっきまで寝ていたはずの川久保だ。いや、いまもほとんど眠りながら、現実と夢のはざまで会話をしている。
「しかもその人――」
 そこまで言いかけた川久保の口を、伊織は急いで押さえた。
 酔いどれのこの状況だ。このまま伊織の性指向まで、ポロリと漏らしかねない。
「ひおひはん、はめへくははい」
 口を押えられてもなお、必死で喋ろうとする川久保を、伊織は必至で止める。
「じゃぁ、俺も知ってる相手か」
 准の推察に、心臓が徐々に早く脈打つ。
「ちゃんと告白はしたんだろうな?」
「……へ?」
「お前のことだから、告白もしてないのに告白する前からどうせ無理だとあきらめて、『フラれた』って言ってるんじゃないかと思って」

 なんで、そこまでわかるんだと伊織は目を瞠った。
「お前は八方美人でお人好しなところあるからな……。で、どうなんだ?」
 すべてを見透かしたような瞳に、何もかもバレてしまっているような気さえする。それでも、この気持ちは。この気持ちだけは、隠さなければいけない。
 准の視線から逃げるように目線を逸らしたその時、後ろから准を呼ぶ声がした。

「碓氷―! 主役がここいたらあかんやろ!ほら、こっち戻れって」
 原だ。普段から空気を読めない男だが、今日だけはファインプレーだ。
「ほらっ、呼ばれてるぞ。早く行けって」
 そう促すと、准は大きく息を吐いた。

「……わかったよ。でも、一つだけ。もし想いを伝えてないままフラれたって思ってんなら、ちゃんと相手に伝えろよ。……お前には。お前には、後悔してほしくないんだ」
 准の、懇願にも近い切実な物言いに、思わず息を呑む。
「それに」と准は言葉を続ける。
「お前に告白されたら、きっと誰だって、お前のことが好きになるから。大丈夫、自信もってけ」
 准の大きな手が、まるで幼児をあやすかのように伊織の頭にポンと優しくおかれたあと、そのまま喧騒に戻っていった。
 ――お前が言うなよ。
 自分より大きな彼の背中を見つめながら、視界がわずかに揺れた。
 触れられた場所から、熱が体中にじわじわと広がって、胸まで温かくなる。
 どこまでも残酷な奴だ。この期に及んで、そんな言葉をかけるなんて。もうこれ以上、好きにならせないでくれ。

『きっと誰だってお前のことが好きになる』なんて嘘っぱちだ。だって、どう頑張ってもお前は好きになってはくれない。
 それに、告白なんてできるわけない。
 ノンケで、親友で、ついに今日、ほかの人のものになったお前に、そんなこと言えない。

 ――あの頃の俺は、なんて馬鹿だったんだ。
 もしあの頃に戻れたら。今度こそ想いを伝えるのに。
 この期に及んでそんなことばかり考えているなんて、きっと准は知らないだろうし、これからも知ることはないだろう。

 伊織は喉元までせりあがった感情を押し込めるように、ぐっとグラスの中のウィスキーを流しいれた。もはや何杯目なのか、覚えていない。
 でも、今日は思う存分酒に浸りたい。そうして明日、目が覚めた時には、全部忘れてしまっていてくれ。
 徐々にさっきまでかろうじて動いていた思考がゆっくりと輪郭を失っていく。
 現実から背けるよう目を閉じると、意識がゆっくりと深い暗闇に沈んでいき、伊織はいつの間にか眠りに落ちていた。

 願わくば、准が彼女に出会う前に戻れますようになんて、そう本気で祈りながら。