すこし自分を見つめ直したいと、突拍子もない「家出宣言」をし、兄が失踪した。
親の知らぬ間に休学手続きをし、アパートも片付けて、あっという間に、南の遥か遠くの島へ行ってしまったのだ。そんな自由気ままな兄から連絡があったのは、八月上旬の朝だった。
強い日差しの中、幾つも切手が貼られた茶封筒を開くと、目が覚めるような紺碧の海を映した絵葉書と、片道の航空券が入っていた。久しぶりに見る兄の字は、力強い筆致でこう綴られていた。
『鳴かない鳥を見つけた。興味があればお前も遊びに来るといい』
短い謎めいた文章が、間違いなくあの兄からだという証拠だった。
兄を溺愛している母は「散々心配かけて親には一言もないのか」と泣いていたが、愛息子がとりあえず生きている様子に安堵していた。
手紙を何度も読み返す両親をよそに、俺はすぐに旅行の支度を始めた。兄が突然姿をくらませた時、もちろん心配もしてはいたが、あの兄ならどこか遠くで元気にやっているのだと確信していた。
明るくて優しくて優秀で自慢の兄だったから、俺の知らない土地でも快活に笑っている姿を簡単に想像できた。そしてその自慢の兄が、どういう形であれ、こうして手紙を、俺宛てに送ってきたのが嬉しかった。
『すぐにそっちに向かう。学生の夏休みは長いんだ。世話になるよ、兄さん』
Eメールで返信をし、俺は再び絵葉書に目をやった。白い砂浜の奥で、青よりは緑に近い海が広がっている。水面に浮かぶ煌めき。波の音までも聞こえてくるようだ。亜熱帯独特の湿っぽい空気の匂いの中、原色の花々が咲き乱れるのを想像する。
そこに兄さんはいるのだ。俺を待っている。
天国のように美しい海を背に、精悍な顔で笑う兄が俺の名を呼ぶ。リョウ、さぁ、来い。俺と一緒に行こう。
【秘めた鳥の囁きの】
飛行機の窓に、兄から送られた絵葉書と同じ、紺碧の海が広がっている。前の席の家族連れが歓喜のこえをあげ、島での過ごし方を談笑している。その話を何とはなしに聞きながら、兄の様子をちゃんと見てくるようにと何度も言う両親の姿を思い出した。
「お兄ちゃんは母さんよりあんたの話なら聞くから」
そう言って、缶詰やレトルト食品や生活雑貨のあれこれを持たそうとする母をなだめるのには苦労した。兄が出ていったのは母のそういう……と言いかけて、俺はため息でごまかした。
頬杖をつきながら小さくため息をついている間に、飛行機は轟音と共に滑走路に降り立った。アロハシャツや麦わら帽子をかぶった人々と共に俺は席から立ちあがった。
兄貴が生活しているM島は、R諸島の南西部に位置する小さな島だ。パイナップル農業と観光業で栄えており、活火山やジャングルといった手つかずの自然も多い。他の島々に比べ規模も小さく、ショッピングモールや高級ホテルのような派手な施設もない。ただ海を眺めたり、魚を釣ったり、そして昼寝や読書を楽しむ。そういうシンプルな贅沢を愉しめる観光客が、この島を愛して訪れるのだ。
(兄さんはどうして、この島に来たのだろう)
日に焼けたタクシー運転手は、俺が目的地を告げると訝しげに眉をひそめた。トランクに俺のキャリーを乱暴に詰めながら「……物好きなヤツもいるもんだな」と英語で呟くのが聞こえた。
タクシーの車窓から吹き込む南国の風に髪を遊ばせながら、俺は風景を見つめた。海に囲まれた島のはずなのに、車窓からは鬱蒼としたジャングルや、パイナップル畑が交互に続く。時折、運転席をチラリと見るが、運転手は恐ろしく無口で、気まずい車内の中、カーラジオからやかましいDJの笑い声が響いている。
絵葉書に綴られた住所は空港から1時間ほどタクシーで走らせた岬にあった。タクシーを降り、俺はゆるやかな坂道を上がっていった。
白い、小さなコテージが鬱蒼とした木々の中でひっそりと佇んでいた。庭先のオレンジが艶々と実っている。裏手の道は砂浜に通じるらしく、ざざんざざんと微かに海鳴りが響いていた。初めて訪れたこともあって、スポーツマンだった兄の面影と、目前の風景が結びつかず、突然、俺は不安に駆られた。
兄がここにいなかったら。或いは兄が俺の知っている兄でなかったら、どうしよう。帰りの航空券をすぐに手配する必要性すら感じながら躊躇っていると、ジャリッと石を踏む音がして、誰かが歩いてきた。
一目で兄ではないと分かった。何もかも兄とは違う男だった。
隣のオレンジの木と比べても、その男はとても背が高いのだと分かった。大きくて、けれどしなやかに伸びた若木のような身体。濡れた黒髪が褐色の額にかかっている。髪は長く、野性味ある獅子の鬣を彷彿とさせた。
この島で生まれ育ったのだろう。恥ずかしげもなく晒された腕や首筋や腹のどれもが、太陽に愛された色に染まっている。膝までのショートパンツの裾からも水滴がポタポタと落ちている。長い黒髪を掻き上げる仕草と同時に、男がこちらを見た。
──若い。俺と同い年ぐらいだろうか。この島に辿り着く波の色と同じ瞳が、俺を見つめてキラリと光った。
「待てよ、セイレン。風邪を引くぞ」
聞き慣れた声が、青年が現れた場所から聞こえた。その声の主は、男の後ろから腕をニュッと伸ばし、頭を覆うようにバスタオルをふわりとかけ、体勢を崩した相手の髪をぐしゃぐしゃとかき乱し始めた。少年のような満面の笑顔が、やがて、立ち尽くす俺の存在に気付いた。
「リョウ。あぁ、来てくれたのか」
白い歯を見せて俺の名を呼ぶ兄の顔を見て、俺もぎこちなく笑った。
庭からもいだオレンジが瑞々しい酸味と共に広がり、長旅で疲れた喉に染みこんでいく。藤椅子に座りながら指についた果汁を嘗めていると、目の前に布が差し出された。躊躇いがちな、人の良さそうな深緑の瞳とかちあう。
「あ、ありがとう。その……セイレン、さん」
俺はたどたどしく礼を言った。しかし彼は小さく会釈し、無言でキッチンへ姿を消した。
「セイレンは声が出ないんだ」
兄が、俺の考えを読み取ったように話した。
「小さな頃に熱病に冒されて喉をやられたらしくてね。だが母国語はもちろん、英語も理解できる。賢い奴だよ」
そう話す兄の肌もいくらか日に焼けてはいたが、あの男──セイレンの輝くような褐色と比べれば白い。それになぜか少し痩せた気がする。兄が異国の人間と奇妙な共同生活をしていることに心から喜べず、俺はセイレンがくれた布巾で果汁を拭き取りながら、ぶっきらぼうに口を開いた。
「『鳴かない鳥を見つけた』なんて、まさかあいつのことじゃないだろうな」
兄は意味深に笑い、黙っている。
「──嘘だろ?」と眉間に皺を寄せると、兄は目を細めた。
俺をからかおうとするとき、兄はいつもこの表情をする。
「この家は大学でお世話になった近代史の教授の別荘なんだ。どこか遠くに遊びに行きたいと言ったら、しばらく使ってないから様子見ついでに使ってくれと鍵を貸してくれてな。
セイレンは親の代からこの別荘の管理もしている漁師の子で、何かとよくしてくれているんだ。とても良い子だよ」
年もたしかお前と同じじゃないかな、と兄の瞳がキッチンに立つセイレンの背中に向けられる。
白い薄いシャツ越しに褐色の肌が透けて見えた。しなやかな筋肉の輪郭は無駄がなく、野生動物を想起させた。
青いタイルでしきつめられた壁面を前に、セイレンは、慣れた仕草で刻んだトマトを、火にかけた鍋にいれている。オリーブオイルとニンニクの焦げる匂いが食欲をそそる。どこか懐かしさも感じさせる匂いが、大きく開け放たれた窓から漂う潮の匂いと混じりあった。
俺たち兄弟の視線に気付いたのか、セイレンが振り返る。声を発せないという南国の青年は気まずそうに目を伏せた。
「いつまでいられるんだ。夏休みは始まったばかりだろう」
「一週間。バイトもしなきゃだし。──兄さんこそ、いつまでここにいるんだよ。母さんが心配してたぞ」
「あの人はいつもそう言うが、実のところ大して気にしていないんだ。優秀な跡継ぎが姿をくらましたことが気にくわないだけで」
兄がそんな風に母を評価したのは初めてだった。
思わずギョッと兄の顔を見たが、兄はセイレンの背中をまだ見ている。俺を見ずにセイレンに視線を注いだまま、その唇がどこか機械的に動いた。
「セイレンの料理はうまいぞ。たらふく食って寝ちまえ。明日、島を案内するよ」
兄弟の俺だからすぐに分かった。兄がセイレンの髪を拭う姿を見た時の違和感が、更に胸の中でどんよりした雨雲のように大きく歪な形を成していく。
島を案内すると自分から言ったくせに、翌朝、「すまない。頭痛が酷くて」と兄は俺にすまなそうに言った。
不服を口にしたくとも、その青白い顔を見れば無理強いは出来なかった。別にいいけど、と無愛想に返すと「セイレンに案内して貰え」と暢気な声がかえってきた。それはそれで気まずいじゃないか、と反論を試みたが、パーカーを羽織り、簡単な外出の準備をしたセイレンが既に玄関で待っていて、俺は従わざるを得なくなった。
降り注ぐ太陽の光を浴びたアスファルトの道が白く反射している。椰子の木々が整然と並ぶリゾート地とは異なり、濃厚でどこか荒々しさすら感じる多種多様な植物が柵のように勝手気ままに伸びている。大きくて赤い花弁を揺らす花はいかにも南国風だ。
どこへ行くのか聞くことも出来ない。聞いたところで、相手は答えることができないのだ。しかし五分もほぼ初対面の人間と黙って過ごすことは出来ず、話はできないけど英語は分かるんだよな……と思い出した俺は、目の前をゆったりと歩くその背中に声をかけた。
「海につれてってくれるのか」
俺の視線の斜め上に位置する肩がびくりと揺れた。おそるおそるとでも言うようにセイレンがこちらを見、小さく首を縦に振った。
「あんたはずっとここに住んでいるのか」
また俺の質問に首を振る。一方的なコミュニケーションだが、沈黙よりはいくらかマシな気がした。
「年は?俺はハタチだがあんたもそうか」
またコクンと頷く。気弱そうに俺の顔を見ている。まるで従順な大型犬だ。
「海は近いのか」
その質問にセイレンは長い腕を伸ばして、人差し指で前を指した。鬱蒼とした森の向こうから潮騒が響いている。
しばらくの沈黙が続いた。俺は少し歩幅を広げ、セイレンの隣を歩き、その横顔をまじまじと観察した。居心地の悪そうな顔をしながらもセイレンはされるがままだ。睫が長い。鼻筋も通っていて、瞳の色はどこか謎めいたオリーブ色だ。だがどこからどうみても「男」だ。
(兄さんにそんな趣味があったなんて知らなかった)
兄のことならなんだって知っていた……つもりだったのに。物心ついた時から、親より兄貴の背中を追いかけていた気がする。三つの年の差以上に兄は優秀で、かっこよくて、何より俺に優しかった。誰にも吐き出せない悩みを兄は直ぐに察知し、話を聞いて、そして大きな掌でぐしゃぐしゃと髪を乱しながら決まってこう笑うのだ。
──大丈夫だ、リョウ。
お兄ちゃんが守ってやるからな。
足がアスファルトの硬さを失い、砂浜に辿り着いた。青色と緑色とそれから太陽の光を混ぜて溶かしてできた、美しいとしか形容できない海が眼前に広がっている。岩肌が露出した険しい崖に挟まれた入り江に、観光客はおろか、人の気配はない。砂浜をさらう、たゆたう波に遊ばれて、丸くなった小石がころころと転がっていく。
こんな絶景を独占していいのだろうか。楽園の名に相応しい、紺碧の美が眼前に広がっている。
「すげぇ」
思わず口から漏れた言葉にセイレンが振り返った。昨日から警戒心しか見せなかった表情が崩れ、あどけない笑みが溢れていた。言葉がなくとも、俺をここに案内して良かったと心から安堵しているのが分かった。
そして、セイレンの手が俺の手首を掴んだ。咄嗟のことに抵抗も出来ず、ひっぱられるまま、海へ向かって走り出した。
「え、あ、お、おい!」
足首が、膝が、向かってくる波と衝突して水飛沫に染まる。温度や質感さえも、緑青色に感じられた。
「つめって、ぇよ、バカッ・・・服が!」
諫めるようにセイレンを睨み付けたが、セイレンが大きく水をかけたので、その言葉も飲み込まれてしまう。さっきまでビクビク怯えていたのとは打って変わって、海を褒められただけでこんなに無邪気に喜んで、出ない声で一生懸命笑うだなんて、変な奴だ。だが、悪い奴ではないのかもしれない。昨日セイレンに出会った時から抱いていた抵抗感が少しずつ溶けていく気がした。
黒髪やシャツが濡れるのも構わずに、さんざめく光の中でセイレンは、文字通り水を得た魚のように笑っている。そんなセイレンに反撃の水鉄砲を食らわしながら、視界の端に、岬の上の白い家を捉えた。兄の住むコテージだ。ここからも見えるのか。屋根が太陽光を浴びてきらりと反射し、開けっぴろげた窓からカーテンがはためいているのさえ見えた。
こちらを見つめる兄らしき人影が微かに見えた。頭痛で休んでるはずじゃ……と思った矢先に、カーテンがゆらりと覆い、人影は幻のように消えていた。
「──海はよかっただろう。さっきセイレンの祖父さんが魚をよこしてくれたんだ。三人で食えってさ」
びちゃびちゃに濡れたセイレンと二人で帰宅すると、兄がそう言って出迎えた。顔色は今朝見た時よりよくなっている。海で遊ぶ俺とセイレンを見ていたのか、と思わず口にでかかった質問が、何故か喉につかえて出てこなかった。俺は兄からタオルを受け取って無言で顔を拭いた。
例のごとく、兄はセイレンの全身をガシガシと拭いた。セイレンは身体を縮め、それを受け入れている。
それから、着替えを済ませたセイレンによって、新鮮なアクアパッツァがあっという間にできあがった。海鮮の匂いも、夏野菜を添えられたその見た目も、食欲をひどく刺激した。俺たちはしばし、無言で豪華な昼食を貪った。一口食べれば、兄の言った言葉がどれも嘘でないことが証明される。料理の腕も、セイレンが良い奴だと言うことも。それならば。
「鳴かない鳥を見つけたってなんだよ、結局」
昼食後、セイレンがラジオをつけると、心地よいボサノヴァが午后の居間に流れ始めた。ソファにゆったりと座り、新聞に目を通していた兄貴が「ん?」と首を傾げた。
「絵葉書にそう書いてあったろ。意味深に」
「あぁ、あれか。海に行く道中合わなかったか、『エルデゥヌイ』に」
聞き慣れない単語を兄は口にした。俺にではなく、背後でお茶の準備をするセイレンに対して尋ねたのだ。セイレンは首を横に二度ほど振った。
そうか、と兄は頷き、俺に視線を戻した。
「この島固有の種でな。片手に収まるほどの小さな、地味な茶色の鳥がいるんだ。名前はエルデゥヌイ、『失ったもの』という意味らしい。天敵がいない島に住んでいるうちに鳴管が退化して、鳴けない。精々2メートルしか飛ぶことも出来ない。この島で生き、この島で死ぬ運命にある鳥だ」
可愛いぞ、よくうちの庭にも来る、とニカッと兄は白い歯を見せた。
「そんなんで俺を呼びつけたのか。ガキじゃねぇんだぞ」
「他に可愛い弟を呼ぶ口実が思いつかなくてな」
「他にないのかよ」
「他にって」
「俺を呼び出した理由だよ」
兄は昔から変わらないあの表情で俺を見つめた。アールグレイを注いだコップに浮いた氷がカランと鳴った。
「エルデゥヌイには伝説があってな」
肩にかかった薄手のブランケットを直しながら、兄が口を開いた。波の残像が足下にまとわりつづけていた。見えない海底から引っ張られているような錯覚だ。心地よい疲労感と、食後のけだるさに身を委ねながら、俺は「鳴かない鳥」の話を聞いている。
「繁殖期を迎えたころに、番となる相手にしか聞こえない声で鳴くんだそうだ。その声に導かれた番は、たった一羽の雌の所へ導かれていく。雌の声を聞くことのできた雄は一生をその番に尽くすんだ」
すらすらと兄は図鑑の一節を読み上げるように語った。まるで何度も何度も誰かに読み聞かせられたかのように。
「同じエルデゥヌイでも、番にならないものの声は聞こえない。人間にだって聞こえない。秘密の恋を番にだけ囁く鳥だなんてロマンチックだろ」
鳴かないからこそ鳴き声の伝説が生まれたなんて可笑しいだろと、そう付け加えて兄は笑った。セイレンはキッチンに行ったまま戻ってこない。
コントラバスの重厚な響きで奏でられるボサノヴァの音色と、午前中の遊びのせいか俺はいつの間にかうたた寝をしていた。熟睡に至らないのは、藤椅子にもたれかかるその姿勢もあったのだろう。現実と夢との境目が曖昧なまま、俺は目を閉じていた。
ギシリ、と何かが軋む音がした。
それから布の落ちる音。秘めやかな水音。啄むような音はやがて大胆になり、熱っぽい吐息の音も混じる。音楽の中でそれらは徐々に輪郭を表していくが、俺はなぜか目を開くことはおろか、身体がうごかない。
いつの間にか夕闇が忍び寄っているリビング。カーテンが海風にパサリパサリと音をたてて揺らめく。台詞がなくとも、髪をすく指の動きが、深く交わる唇の動きが、愛し合う二人の姿だと分かってしまう。
短く、苦しそうな、熱っぽい呼吸を漏らしているのはセイレンだろうか。声が出ない男の喘ぎは痛々しさすら感じた。涙や熱の滲む呼吸が、ソファの軋む音以上に大きくなることない。クッションに顔を埋めて、言葉を発せずとも呼吸すら止めようと必死になっているのだ。恋人の突然の求愛に、為す術もなく受け入れているセイレンの様子が頭に浮かんだ。
「セイレン」
兄の声がした。セイレンの沈黙の代わりに、兄の声は饒舌だった。愛情と嗜虐とそして優越感の混ざり合った、雄の声だ。その声が、己を受け入れている従順な番に囁く。
「いいぞ、もっともっと俺の名前を呼んでくれ。お前の声は可愛い。お前の声が好きだ、お前の声が好きなんだ、セイレン」
セイレンの──声?
俺にはセイレンの荒い呼吸しか聞こえない。だが兄は恍惚とした、どこか切ない声でセイレンにせがむ。もっと、俺の名前をその声で呼んでくれと。注がれても注がれても足りないと言わんばかりに、兄は懇願する。
「セイレン、セイレン。お前が好きだ、だから俺が」
お前を守ってやる。
「鳴かない鳥を見つけた。興味があればお前も遊びに来るといい」
「散々心配かけて親には一言もないのか」
「お兄ちゃんは母さんよりあんたの話なら聞くから」
「あの人はいつもそう言うが、実のところ大して気にしていないんだ。優秀な跡継ぎが姿をくらましたことが気にくわないだけで」
「すまない。頭痛が酷くて」
「名前はエルデゥヌイ、『失ったもの』という意味らしい」
「天敵がいない島に住んでいるうちに鳴管が退化して、鳴けない」
「この島で生き、この島で死ぬ運命にある鳥だ」
「他に可愛い弟を呼ぶ口実が思いつかなくてな」
「繁殖期を迎えたころに、番となる相手にしか聞こえない声で鳴くんだそうだ」
「その声に導かれた番は、番となる雌の所へ導かれていく」
「同じエルデゥヌイでも、番にならないものの声は聞こえない」
「セイレン」
「いいぞ、もっともっと俺の名前を呼んでくれ」
「セイレン」
「お前の声は可愛い」
「セイレン」
「お前の声が好きだ、お前が好きだ、セイレン」
「だから俺が」
その後の日数は、弟の目の前でヤるなとも茶化せず、海まで1人で散歩したり読書したりして虚しく消費した。口数が減った俺の変化を知ってか知らずか、兄貴は態度を変えなかった。
(男の恋人がいるってのを、とやかく言う権利は俺にはないからな)
夕日が溶けていく、美しい黄昏の海を見つめながら、俺は自身に言い聞かせるように呟く。それがオトナってものだ。逆の立場なら、きっと兄もそうする。「沈黙」を選ぶことで俺は兄を「理解」しようとしたのだった。
結局、南の島での生活を、気まずい空気のまま終わらせた。兄は笑顔で俺を抱きしめ、俺は兄から目をそらしながら虚しく礼を言った。
空港にはセイレンが古いライトバンで送っていってくれた。始終無言で、俺が兄貴の面倒を頼むと、申し訳なさそうにセイレンは頭を下げた。
そして、それで終わった。エルデゥヌイという鳥も一度も見かけなかった。
七日間の幻のようなバカンスをそんな風に終え、俺は故郷に戻った。母は相変わらず兄の話ばかりし、父親はきっとすぐに帰ってくるさと適当な言葉で慰め、俺はセイレンの話をあえて両親にはしなかった。
葉が落ち、雪がつもり、また新たな緑が芽吹く。季節が三つ変わっても、こちらから兄に連絡はしなかった。南の島のスキャンダラスな記憶。母が家中に飾る兄貴の子ども時代の写真ですらどこか厭わしく感じた。
兄がセイレンの髪をぐしゃぐしゃと拭く姿が何度も脳裏に蘇った。それから、海で声もなくはしゃぐ、セイレンの笑顔。胸にじわりと滲む嫉妬が、兄に対してなのか、セイレンに対してなのか、俺にはよく分からなかった。
兄からの連絡もなかった。だろうな、と思いつつ、俺はポストを毎日開け続けた。
再びの夏に、一通の手紙が届いた。あれを最初に受け取ったのが俺で良かったと思う。白々しい夏の日差しを背に、文面を確認している内に、汗が背中を伝った。指が震えた。
やや陰が濃かった、青白い兄の顔。肩にかけられたブランケット。ソファに横たわる姿。そういえば海に入っている姿はおろか、コテージから出ている様子さえろくに見たこともない。
僅かに感じていた違和感の全てが繋がる。だが脳が理解を拒む。だって、兄が。あの兄さんが。
「他に可愛い弟を呼ぶ口実が思いつかなくてな」
カイト。どうして。
いつも追いかけていた背中が、突然、目の前から消えた。兄のものではない細い字で綴られた便箋を俺は握りしめていた。
「兄が好きだった」
「兄は優秀でかっこよくて、何より俺に優しかった」
「兄がいると家のなかで太陽がかがやいているように明るかった」
「母さんも父さんも兄が大好きだった」
「いつも俺に兄のようになれと言った」
「俺も兄とおなじようになりたかった」
「兄と同じように」
「優秀で」
「かっこよくて」
「優しい人になりたかった」
「両親が褒めるような」
「兄と同じような人間になりたくて」
「兄がしたことはみんなやった」
「サッカーも」「プラモデルも」「チェスも」
「みんな兄の真似をして」
「兄以上に頑張ったつもりだった」
「兄はいつも褒めてくれた」
「可愛い弟だよって」
「守ってくれるって」
「でも本当は」
「守って貰いたかったわけじゃない」
「どんなに頑張っても」
「兄さん以上の人間になれたかはわからない」
「大人になった今も分からない」
「みんな兄さんを見ていて」
「俺は兄さんの背中を追いかけるばかりで」
「兄さんはそうやって遠くにいってしまう」
「今も」
「遠い」
「俺は」
「どうしてこんなに遠いんだ」
「俺をおいて」
「兄さんが」
「俺を一人にして」
「兄さんのこと、ほんとは」
そして、再び、俺はあの白い家を訪れていた。
潮騒が、脳に渦巻くあらゆる声をかき消す。初めてここを訪れた時と同じような波の音と、肌に纏わり付く熱気のせいで、タイムスリップしたかのような奇妙な感覚に陥る。だが一年前と違い、兄はもうここにいない。
真っ白な板目の床に、長い褐色の足を投げるように伸ばし、ソファに顔を突っ伏しているセイレンに、俺は投げつけるように言葉をぶつけた。
「兄さんはどこだ」
突然の来訪にも関わらず、セイレンは驚かなかった。俺を見て、涙で腫れ上がった瞳がさらに潤む。セイレンの膝には、小さな壺が乗っていた。死者が眠るその壺にゆっくりと近づき、俺は膝をついてそれを抱きしめるように抱え込んだ。
兄が俺を置いて遠くに行ってしまうことは何度も経験してきた。だが、こんなに遠くてはもう追いかけることも出来ない。寂しい。悔しい。もっとなにか出来たはずだった。
どうして何も──不治の病に冒されていると知ったときも、最期を迎える前に俺をここへ呼び寄せたときも、どうして俺に何も言ってくれなかったのか。俺はなぜ気付かなかったのか。
「兄さん……カイト、なんで……!」
悔恨の痛みに震えていると、セイレンの腕が俺の肩にゆらりと掛かった。最期の時を兄と過ごしていた恋人の感触から、兄の全てを分かち合いたくて、俺はその胸にもたれかかるように顔を寄せた。風の音、脈打つ他人の心臓、そして。
「リョウ」
知らない声が聞こえた。嗚咽がとまる。カーテンはあの日のぱたぱたと海風に煽られている。
「リョウ」
セイレンの薄い唇が再び俺の名を囁いた。涙でしっとりと濡れたその低音は、幻想的な音色のように響く。
「なんで」
真っ白になった頭でたった三文字をようやくひねり出すと、蛇口をひねるように俺の喉から言葉が溢れた。
「お前の声なのか、それ。だって、どうして、今」
「俺、こういう生き方しか出来ないんだ」
英語ではない。そして現地の言葉でもおそらくない。セイレンの声が脳にじんわりと染みこんでいく。朝を迎えた海のように、夕日を溶かした空のように、唇が紡ぐ言葉が、淡い色彩を纏いながら俺を支配していく。
「カイトはとっても優しいって、誰のことも見捨てられない人だって。リョウ、弟の君ならよく分かっているだろう」
呆然とする俺の唇をセイレンの唇がやんわりと噛んだ。それから、ちぅ、と音を立てて吸う。唇からは二人分の涙の味がする。俺の唇にセイレンの唇がゆっくりと重なる。褐色の指がそのキスを真似るかのように、静かに俺の身体から服を脱がせていく。
「リョウ、俺には君しかいないんだ」
ゆっくりと唇を離しながら、頬を上気させたセイレンが囁く。その言葉が、俺の全神経を駆け巡る。獣のように首筋を噛みつくと、あ、と切なげな声が零れた。欲を孕むその声が、肌を暴けば暴くほど、俺を包み込み始める。
白いモルタルの床に横たわる、されるがままの褐色の肌。均整の取れた腹筋をなぞり、臍に舌をねじ込むようにキスをすると、弱々しく髪を引っ張られた。
「リョウ……もっと……リョウ……」
涙声が巧みに俺を誘惑する。カイトが、俺が、一体セイレンの何人目の番なのか。俺は本当はどうしたいのか。恐怖も劣情も悲しみも怒りも、セイレンの声を聞いている内に全てが曖昧になっていく。どうでもよくなっていく。
「──もっと」
セイレンの掌に唇を寄せ、俺は囁いた。
「もっと、俺の名前を呼べよ」
その言葉に、深緑の瞳が微笑んだ。
「繁殖期を迎えたころに、番となる相手にしか聞こえない声で鳴くんだそうだ。その声に導かれた番は、たった一羽の雌の所へ導かれていく。雌の声を聞くことのできた雄は一生をその番に尽くすんだ」
番を喪った、飛べない鳥のためにどうするのか。
兄を喪った、可愛い弟のためにどうするのか。
俺なら分かった。
そして俺は、どんな形であれ、誰かに選ばれたかった。ずっと、ずっとそれを待っていた。
「リョウ」
俺の頬を伝うそれを、セイレンの舌が拭いとってくれる。深緑の瞳が柔らかく俺を捉えて離さない。
やがて兄と同じ運命に導くその声に絡め取られて、俺はその褐色の肌にゆっくりと沈んでいく。
カーテンがぱたぱたと揺れる。スコールを予感させる重たい雲が空を覆い始めていた。
窓から臨む海原に、この楽園を離れるための一艘の船も見えない。
*現在投稿中のホラーBL長編『夏が囁く』も別作品ですが、同じく「執着・怪異・愛の歪み」をテーマにしています。
雰囲気が好きな方は長編『夏が囁く』もどうぞ。
また、幸せいっぱい初恋BL『コワモテ男子は、花咲く君と初恋を知る』も読んでいただけたら嬉しいです。



