男子校の女王は、冴えない鏡に暴かれる



竹中イズルの公開稽古は、見事プロモーションとして成功していた。
見学に来ていた野次馬も勿論、尾ひれをつけた噂話が、学校やSNSで拡散されていた。

どんな内容かは言うまでもないだろう。これ以上、惨めになりたくない。

毎朝の日課であるSNSのチェックも、もうやめてしまった。
放課後になり、部活や委員会やらで人気の無くなった教室が、妙に落ち着いた。
昨晩から降り続ける春の雨を、俺は教室で一人、眺めている。

「凛ちゃん、帰ろう。寄りたいお店あるんだ-!」

雪峰だけは、昔から変わらぬ笑顔で俺に接してくる。

「こんな雨の日にか?」

「雨の日だからだよー!気分転換になるじゃん」

「悪いけどパス。ジムに……行かなきゃだからな」

「──こんな雨の日なのに?」

雪峰が視線を落とした。俺の机の上には、『鏡の中のあなたへ』の台本が置かれている。

「凛ちゃんはストイックすぎるよ。やめたかったらやめちゃいないよ。自分が大好きなくせに自分に厳しいの、変だよ」

相変わらず可愛いベビーフェイスに似合わぬ毒舌だが、幼なじみの目は心配そうに俺を見ていた。
俺はフン、と鼻で笑った。

「一度オファーを受けたんだから逃げるわけにはいかねぇんだよ。まずは台詞も暗記しなきゃだしな」

「手伝おうか?」

「いや、いい」

俺は台本のページをめくった。雨だれの影が、紙の上に伸びていく。「……一人になりたい」

「……そっか」

雪峰はそう言うと、「じゃ、またね」と微笑み、教室から出て行った。

放課後の教室がこんなにがらんとしているのを、俺は初めて知った。見慣れた黒板やロッカー、机や椅子達が、無言で俺を見つめている。
静寂に追い立てられるように、俺は台本を読み始めた。

自分の台詞を覚えなければいけないのに、何も書かれていない「恋人」の台詞部分を俺は、目で追ってしまう。

「愛しい人よ」

悲しげな幻想曲を歌うような、低い声が脳に響く。

「あなたは夏の夜明けに咲く花。冬の光に照らされた霜柱。秋には南国へ飛び去り、春には東の国の歌を追いかけてしまう。あぁ、どうしたら」

もっと俺を見て、恋の苦しみを訴えてほしい。理屈ではなく、心を支配されることが、恐ろしいほど心地よいなんて。

うっとりと見つめる灰色がかった瞳に、思わず吸い込まれてしまう。

(こいつ、まさか……俺と二人っきりになりたくて、あえてこんな面倒くさいことを──)

坂崎への復讐も、そもそも意味がなかったのだ。あいつは俺にこれっぽちも恋していない。俺に対してなにも思っていない。だから役になりきることが出来る。しかも俳優も観客もすべて支配するほど、キャラクターそのものとして場を掌握する。

偽りの愛を饒舌に語りながら、全ての人間に涙を流させることができるなら。

それを才能というのだろう。坂崎がどうやって手に入れたのか。俺には分からない。分かる資格が、きっと、俺にはない。

「クソ……」

苛立ちを吐き出しながら、俺は口元を覆った。

「……黒鵜くん?」

声がした。

顔をあげると、教室の前のドアに、生徒が一人立っていた。柔道かなにかをやってそうな大柄な体型だが、どことなく陰気な雰囲気を漂わせている。
どこかで……見たことがある……ような気がした。だが、思い出せない。クラスメイトではないことは確かだ。

「あぁ、びっくりしちゃったよね」

爬虫類が舌を伸ばすように、その男がニタリと笑った。ゆっくりと、だが、すきま風ひとつ通さないように、男はドアを閉める。俺は、わずかな違和感を覚えた。

「俺、坂崎と同じ美術部なんだ。でもずっと前から君のアカウントをフォローさせてもらってる。だから、こないだ、君がモデルになった、あの写生大会は感激だったよ。いいねも毎日送ってるけど、知らないよね。いや、知らなくていいんだ。名前だって別に覚えてもらいたいわけじゃない」

「……それで?何の用だよ」

ベラベラとまくし立てる正体不明の男。心臓の音が少し早くなる。警戒心を露わにする俺を見て、男は気味の悪い笑みを浮かべながら近づいてきた。

「いやぁ、すごかったよね。あの演技」

一歩、近づいてくる。逃げなきゃヤバい。本能的に危険を察知するが、男との身長差や、ドアまでの距離を考えると、今、動くのは得策ではない気がする。それに、細身ではあるが、こちらもトレーニングで鍛えているのだ。その気になれば、こんな奴。

「坂崎のやつもすごかったけどさ……」

もう一歩。

距離が、妙に近い。だが、動けない。動いたら、というひりついたような恐怖があった。

「黒鵜くんもさ」

死んだ魚のような愚鈍な目玉が二つ、ぎょろんと俺の顔に近づいた。

「なんで、あんな顔、したの?」

「……は?」

思わず、声が漏れる。ひるんだ表情をおもわず見せたのが隙だととられたのか、男は俺の肩をぐっと掴んだ。不意打ちの攻撃に、神経が麻痺したかのように身体が硬直する。

「だから、そういうの、やめてほしいんだよね!俺が見たいのはさァ、そういうのじゃないの。『いつもの黒鵜くん』を見せてほしいの!」

掴む力が強くなる。痛みと恐怖から顔を歪ませるが、男は力を弱めるどころか、忌々しそうに舌打ちをした。
俺の顔を真っ暗なレンズで切り取るように、そいつは目を細めた。

「完璧な『男子校の女王様』さえやっててくれればいいのに」

ぞわり、と背筋が粟立つ。

「傲慢で、綺麗で、誰も寄せ付けない感じでさ。あれがいいのに。あれじゃなきゃダメなのに」

逃げようとしたが、腕を引かれてバランスを崩した。

「なんで、あんな……」

顔が近づく。

息がかかる距離。

「他の男に、あんな顔見せるんだよ」

「……っ、離せよ……!」

ようやく、抵抗の意を告げたが、喉が渇いてうまく出ない。腕を払ったら最後、何をされるか分からない恐怖で身体が震えてしまう。

「『解釈違い』……なんだよなぁ」

低い声だった。ぐい、と強く押されて、俺は思わず椅子と共に床に倒れ込んだ。普段やってるジョギングも筋トレも、未知の暴力の前には役に立たない。怖い。逃げたい。イカれた奴のイカれた神経をこれ以上煽りたくない。でも、逃げられない。

かつての女王を暗い目で見下ろしながら、名もなき「ファン」が俺をなじる。

「誰にも心を許さない女王様なんだよ?みんなの女王様だから、俺は満足してたのに、なんであんなフツーの人間みたいな、つまんない顔するの?ひどいよ」

男がズボンのポッケに手を入れた。血の気が引く。取り出すのは鈍く光るナイフか、拳銃か。いや、男はスマホを取り出した。そして、すうっと床で倒れ込み俺に向けた。

見慣れた、まあるい黒いレンズが、俺を捉える。下品な笑みを浮かべながら、堕ちた偶像のスキャンダラスな姿を手に入れようとしているのだ。

「あんな顔するなら、もっといい顔を、俺にも見せてよ」

指が顎にかかる。坂崎のかさついた指が男の指とリンクした。

あの時と同じだ。支配される、こんなにもあっけなく。

(なんで)

男の指が俺の耳にかかる黒髪をさらりと撫でる。荒くなる呼吸が俺にかかり、吐き気と恐怖でぐちゃぐちゃになる。

(なんで、動かない)

近づくカメラに、思わず俺は目をギュッと閉じて、顔を伏せた。

「おい、こっち見ろよ」

男の卑しい顔が、ぐっと顔を近づけられた、その瞬間。

――カシャ。

乾いた音が響いた。

「坂崎……!」

男が振り返った。坂崎がいつものように何の感情も読み取れない顔でスマホを男に向け、無機質な連射音をタップし続ける。

カシャ、カシャ、カシャ。

「『名無し』だったら無敵だと思いました?君の名前、鍵アカウントも含めた君のSNS、君の住所も全て僕は把握しています。動画も撮っています。あとは僕の指が変な動きをしなければいいですけどね」

「ク、クソッ……!」

男は慌てた様子で、机や椅子にぶつかりながら、逃げていった。その背中をみれば、男がそんなに大きくない、どこにでもいる平凡な男だと気づく。

だが、あの生臭い吐息も、舐めるような目も、まだ身体にじわりと張り付いて取れない。
俺の腕が、身体の震えを押さえるように、強い力で抑えられた肩をぎゅっと掴んだ。

「大丈夫ですか」

一応聞いておく、と言った感じで冷えた声が頭上に落ちてきた。

「ああいう輩が一番厄介なんですよね。『闇落ち』っていうか『アンチ』になっちゃうっていうか。さっき撮った動画や写真は保存しておきますが、悪用はしません。黒鵜くんが必要なら送って、僕のスマホからは消去します」

淡々と説明したあと、坂崎は黙った。ゆっくりとしゃがみ、俺の顔をのぞき込んだ。

「──大丈夫ですか。立てます?」

同じ男なのに、指一つ動かせないぐらい、死ぬほど怖かった。

坂崎が来てくれて、心の底からホッとしてしまった。

「黒鵜くん……?」

坂崎が俺の顔を見ている。困ったような、心配するような顔も、天才俳優の演技かと思うと、余計に悔しくて、心臓を踏みつぶして死んだほうがマシだった。

坂崎の手が俺に伸びていく。

「っ……!触るな!」

俺はその手を強く払い除けた。じわりと指先が痺れる。

「お前さえ、現れなければ……!」

涙まじりの、俺の掠れた声が教室に響いた。



(鏡よ鏡。世界で一番美しいのはだぁれ?)

大好きな『白雪姫』の、大嫌いな台詞。

女王自身が抱いた、黒いインクをぽたりと零したような些細な疑念が──私はもう美しくないのではないか──そう言わせたのだと、知っていたのに。



(俺ならうまくやるのに)

鏡に映ったのは、女王の弱さだとわかりきったつもりで生きていたのに。



(傲慢で、綺麗で、誰も寄せ付けない感じでさ。あれがいいのに。あれじゃなきゃダメなのに)

名前も知らない誰かのコメントで一喜一憂して、どんどん自分自身を飾り立てていたのに。



坂崎への八つ当たりだと分かっていても、俺は悲鳴のように、こいつをなじらずにはいられなかった。

「お前さえ……いなければ……楽しい夢物語の世界でいられたんだ……!なんで、余計なこと、するんだよ……ッ!」



(黒鵜くん、あなたは美しいですよ。だけど)

坂崎という鏡には、張りぼてでできた、空っぽで醜い俺の姿がはっきりと映ってしまった。



「二度と俺に近づくな……!」

俺は涙を拭い、坂崎に叫んだ。荷物を乱暴にかき集め、教室を逃げるように飛び出した。

外に出ると、雨が強くなっていた。俺は傘も刺さずにその中へ走った。シャツに冷たい雫が染み込み、弾丸のような雨音が振り注ぐ。肌を濡らすのが、涙なのか雨なのか、分からない。

魔法が解けた今、何もかも洗い流して、そのままなくなってしまいたかった。