男子校の女王は、冴えない鏡に暴かれる



美術室を訪れたその夜、珍しく、俺は夢を見た。

暗闇の中、金細工の額縁で飾られた大きな鏡がキラリと光った。
その光に魅せられたように、鏡の前で、俺が一人立っている。

鏡の前に立てば、自分の姿が映るはず──なのに、違った。

幽霊のように、ぼんやりとした輪郭だが、鏡の中にいるのは、坂崎だった。

「鏡よ、鏡。世界で一番」

俺の口から、俺が問うはずのない質問がこぼれた。

──世界で一番、美しいのはだぁれ。

そんなの、分かりきっているのに。そんなの、俺は絶対に聞かないのに。

まして、この男には、絶対言うはずがない。

鏡の中の坂崎の鋭い眼差しが、俺の心を透かして見るように、射貫く。

「黒鵜くん、あなたは美しいですよ。だけど」

その続きが聞きたくなくて、ぎゅっと目をつぶった途端、5時を告げるアラームがピピピッと鳴りだした。

カーテンの色が薄い藍色で染まる、夜明けの空気。見慣れた天井が、現実感を急に呼び起こす。

奇妙な夢だった。「だけど」のあとに続く、坂崎の言葉を聞かずに済んで良かった、と妙にホッとした。
「だけど」のあとにつづくのは、きっと良からぬ呪いの言葉のような気がしたのだ。

夕闇に包まれ始めた、放課後の美術室で、不穏な雰囲気で俺を見つめていた坂崎が蘇った。

(だから言ったでしょう。『僕』の話ですよ)

「クソ……ッ、なんなんだよ、あいつ」

俺は舌打ちをし、急いで立ち上がった。奇妙な夢と、「石膏像に恋する男」の話を脳裏から打ち消すように。




不快な夢のせいか、ジョギングもいまいち調子が悪く、その後の支度も手間取ってしまった。
ホームルームまであとわずか、というギリギリの時間に、俺は教室に滑り込むように登校した。

教室に入ると、何だか騒がしい。人だかりが出来ていた。ガヤガヤと盛り上がる中心に、雪峰を見つける。

「なんだよ。なんかあったのか?」

「あ!凛ちゃん、見た?!すごいことになってるよ、ほら!」

雪峰は、待ちかねていたと言わんばかりに、スマホを握りしめて、俺の方へ飛んできた。

画面には昨日の昼に俺が投稿した『初ランチ記念』の写真が写っていた。そう言えば、今朝は時間がなくてチェックし忘れていた。

雪峰の指が画面を撫でると、コメントが流れていくが、俺が昨日見たものとは様子が変わっていた。

書かれているのは、「黒鵜凛」を称える言葉ではなく、俺の知らない「誰か」を見つけて熱狂しているファンコメントだ。

『『ぼくたち、8人の小人!』好きだったー!ヤマトくんだよね、このメガネの子』

『自分もヤマトくん大好きだった!芸能界引退したんじゃなかったけ?』

『凛サマ、ヤマトくんと知り合いなの?羨ましいー!』

俺の居城で、俺の信者たちが、俺ではない「ヤマト」への熱烈な歓声をあげている。俺の唇が、何か得体の知れない感情で震える。

「な、なんだよ、この『ヤマト』って」

「やっぱ、凛ちゃん、知らないかー。テレビとか映画とか興味ないもんね。まぁ、本名でも芸名でもなくて、そのドラマの役名なんだけどさ」

雪峰は棒付きのキャンディーを口にくわえながら、スマホをタップし出す。そして『ぼくたち、8人の小人!』、「ヤマト」で検索した画面を俺に見せた。

「10年くらい前に流行ったドラマだよー。8人の子ども達が主人公で、脚本家も毎回違くて、展開も読めなくて面白かったんだよね。ボクの母さんもハマってたから、ボクもよく見てたんだ。

──で、『ヤマト』くんが……ね?」

雪峰がちらりと俺の様子を伺う。10年前なのだから、7歳ぐらいか。他の子役たちとテーブルに頬杖をついてる写真だが、その中でも一際華やいだ印象を受ける。ふっくらとカーブを描く頬や、短い前髪は子供のそれで、カメラに向かって無邪気に笑ってはいるが、古い画像を見ても、俺にはすぐに分かった。

「お!来た来た!芸能人だ!」

誰かがからかうような声を上げた。登校した坂崎が、相変わらずの仏頂面で、クラスのざわめきをよそに、自席に着く。

雪峰が慌てて、坂崎に駆け寄り、スマホの画面を見せた。

「慎太郎くん、慎太郎くん!あのさ、『ヤマトくん』……だよね?『8人の小人』の……」

ちらっと坂崎はその画面を見た。そしてあっさり「はい」と答えた。途端に教室がうわぁっと盛り上がった。

「マジで?!俺も見てたよ!全然気付かなかった」

「全然ちがうじゃん!ウケるな」

「ガチの大スターかよ。え、もうやめちゃったの?」

悪趣味なからかいと、矢継ぎ早の質問が坂崎を取り囲むが、坂崎は淡々と「もう芸能活動はしてません」「10年前の話です」と答えながら教科書を机の中に入れていく。

雪峰は野次馬たちを「もう、ちょっとみんな邪魔―!」とおしのけて、「慎太郎くん」と申し訳なさそうに声をかけた。

「今更だけど、もしかして、これ、隠してた?
ごめんね、昨日のうちに写真がけっこう拡散されちゃってて……」

「いえ、別に隠してはないので、雪峰くんは気にしないでください。黙ってたのは、単に面倒くさかっただけなので」

面倒くさい。その一言に、そのつまらなそうな顔に、俺はイラッとした。

「……へ、へぇー!慎太郎ってすごかったんだァ。もっとはやく教えてくれよ」

俺の声に、坂崎が顔をあげた。俺はその眼鏡ヅラを見下すように、傲慢な笑みをはりつけて続けた。

「でも子役ってライバルも多いし、その内、出番も失って、忘れさられて……ってよく聞くよな。なかなか厳しい世界なんだろ?

惨めなまま続けるより、自分の限界を見極めて、キッパリ諦めるのってむしろ潔いよな」

──違う。こんなんじゃない。

言いながら、俺は自分の言葉がどれだけ醜悪なのかがわかっていた。惨めな負け犬、と相手を罵倒しながら、自分で泥水を啜っているような気分になる。

──でもだめだ。こんなんじゃ、足りない。

俺の自撮りを利用して、俺以上の注目をかっさらった「風景の一部」であるはずの男。どんなにみっともなくても、その化けの皮を剥いでやりたかった。

坂崎は眼鏡を指で押し上げた。そのレンズ越しに、感情の抜け落ちた瞳が俺を映す。そこには悲しみも、怒りもなかった。

「そうです。鋭いですね」

「……は?」

「期待に応えられなくなったガラクタに価値はありません。だからやめたんです。

あなたの言う通りですよ、黒鵜くん」

坂崎は、それだけ言うと、読みかけの文庫本を手に取った。まるでクラスメイトも、俺も、眼中になど入っていないように。

「──凛ちゃん、らしくないよ」

雪峰が心配そうに、俺の服をそっと掴んだ。俺は坂崎を睨みつけたが、醜態を取り繕うことも、ヤツを更に追い詰めることも、もうできない。唇をきゅっと噛み、俺は自席についた。

教室が気まずい空気に包まれる中、場違いなチャイムが呑気に響き渡った。



翌日、さらに学校内の空気は一変していた。

相変わらず坂崎は、仏頂面で、菓子パンを口に詰め込み、教室の隅で小難しそうな文庫本を読んでいる。

ただ一つ違うのは………

「慎太郎くん、急にイメチェンしちゃったの、どうしてだと思う?」

雪峰が口に手を当て、ヒソヒソと俺に尋ねる。アイツの名前すら聞きたくない俺は仏頂面で返事をした。

「俺が知るかよ。どうでもいいよ、別に」

「ボクはアレ、凛ちゃんに相当怒ってると思うなー……」

ガラクタ呼ばわりされちゃあねぇ……と雪峰が俺をジト目で非難するが、ガラクタと呼んだのは坂崎自身だ。だが、そんなことはどうでもいい。忌々しいのは変わりないのだから。

目元を隠すほど重たい前髪は今やなくなり、流行りを意識した、緩やかなウェーブヘアになっている。相変わらず感情の読めない表情はどこかアンニュイで、ミステリアスだ。黒縁眼鏡もコンタクトに変えたのか、鋭い切れ長の目がページをめくっていると、知的な雰囲気もあって更に……いけ好かない。自分の顔が怒りで痙攣しそうになる。

「……クソッ」

かつて坂崎を「冴えない数学係」として無視していた連中の視線にも、かつての侮蔑はない。「元天才子役」である証拠が、まさに今、目の前に存在しているのだ。坂崎にまつわる風評が嫌でも耳に入ってくる。

「黒鵜の投稿した記事、めっちゃバズってるけど、そんなに坂崎って有名なの?」

「坂崎、すげー演技うまかったらしいよ。俺の母ちゃんも知ってた」

「今だってめっちゃカッコいいじゃん。坂崎。もったいねぇよな」

坂崎、坂崎、坂崎。

とんだ掌返しだ。醜いアヒルの子のラストそのものじゃないか。アヒルは実は一世を風靡した天才子役でした。はいはい、「めでたしめでたし」だ。こんな安っぽいメロドラマ、早く幕を下ろしてほしい。

それなのに。

「黒鵜くん、今日もお昼ご飯、ご一緒してもいいですか」

恐れ知らずの新人スターは、不機嫌な女王に真顔でそんなことを言いやがる。ギロリと敵意をこめて睨むのに、灰色がかった冷たい瞳はそれさえも跳ね返してくる。

「友達になりたいんですよね、僕と」

「……!」

「ハイハイ!ボクも仲間にいれてー!」

俺と坂崎の険悪な雰囲気を打ち破るように、雪峰がお弁当箱を持ち上げた。「もちろん、雪峰くんも」とクールに答える坂崎を睨みながら、俺も乱暴にランチボックスを取り出した。

俺という絶対君主の輝きがあるからこそ、その影が際立つはず……だった。

中庭まで、坂崎と並んで歩けば、こんなことを囁き合う声が聞こえてきた。

「男子校の女王と元子役スターじゃん」

「すげー迫力。めっちゃ、オーラあるよな、あいつら」

俺は世界で一番美しく、誰とも並び立つことのない唯一無二の存在のはずなのだ。それなのに、こんな、自分を「ガラクタ」と卑下するような、プライドの欠片もない、陰気な男と同等に扱われるなんて。

「凛ちゃんと慎太郎くん、めっちゃお似合いって評判だよね。すごい人気じゃん、2人とも」

後ろで能天気にマッチングアプリをいじる雪峰の、何気ない言葉がとうとう俺の苛立ちを爆発させた。

「どこがだよ!お似合いとか、ふざけんなよ」

「えー? でも、皆そう言ってるよ?それに凛ちゃんが嫌がっても、他人の評判ってどうにもできないじゃん?」

「なんで、俺がこんなヤツと」

キャンキャン喚く俺と、のほほんとしてる雪峰をよそに、坂崎はどこ吹く風だ。その時だった。

「──素晴らしい! インスピレーションの泉が溢れるような二人組じゃないか!」

俺と坂崎の前を遮るように、小柄な男がサッと現れた。
ブロッコリーのような髪型に、丸々とした頬。美術部で俺をスケッチできたと感激していた、あの竹中だった。

すると、もう一人、瓜二つの人物が現れた。

「に、兄さん!坂崎と黒鵜くんが困っちゃうだろう!」

「!!?」

「竹中くんは双子なんです。美術部のほうが弟のユズルくん、演劇部はお兄さんのイズルくんです」

坂崎が淡々と説明する。外見は瓜二つだが、おどおどしているのと、ギラギラしているので見分けがつく。演劇部だという竹中イズルは、オーバーリアクションで、両手を広げると高らかに話し始めた。

「男子校の麗しき女王と、暗い過去を持つ天才子役!これほど奇跡的な組み合わせはない!

今年の学園祭、ぜひ、演劇部の舞台にあがってくれないか!?もちろん、2人で!!!」

今、考えうる限り、最も最悪な待遇だった。自分の眉間の皺が深くなる。

「断る。俺はミスコンにも出場予定なんだ。そんな暇はない」

俺が即座に切り捨てると、竹中イズルはニヤリと笑った。

「昨年のミスコン以来の大ファンとして、是非、今年も出場してほしいね、黒鵜凛。

舞台は学園祭の初日で、ミスコンは2日目ならば問題はないよな?

君の負担にならないよう、出演は幕間劇の短いものを考えている。10分ほどで、台詞も少ない。

──坂崎、君の方はどうだろうか」

坂崎が表情を変えずに答えた。

「僕も美術部の展示がありますし、もう表舞台に立つつもりはありません。僕は、終わった人間ですから」

まただ。俺はコイツの正体が天才子役だったからとか、眼鏡を外したらイケメンだったとか、そんなことに腹を立てているのではない。学校中の視線を俺から奪っておきながら、ガラクタ、だの、終わった人間だの、過小評価の、諦めきった、逃げの言葉に俺は腹を立てているのだ。

弱い言葉を言えば言うほど、それを否定したがる周囲のせいで、コイツの評価が勝手に上がっていく。それは普段から厳しく自分を律して、美を追求している俺という存在の否定だ。冒涜だ。絶対に許せない。

「……いいぜ。そのオファー、俺は受けてやるよ」

俺の声に、坂崎が、今日初めて、俺を真っ向から見た。俺は腕を組み、その視線をまっすぐ受け止める。

「坂崎。お前も出ろよ。それともなにか?一生、自分に価値がないなんて言い訳して逃げ回るのか? 惨めな元天才子役様として、一生、隅っこで菓子パンでも食ってろよ」

コイツは仮面を取ったのだ。俺も「友達ごっこ」はやめてやる。

俺はわざとらしく鼻で笑い、坂崎を挑発した。

坂崎の眼鏡の奥で、何かが微かに揺れた。それは怒りというより、もっと深い……そう、獲物を罠にかけるのを待つ猟師のような、静かな愉悦に見えた。

初めて見せた、微かな坂崎の感情の揺れに、俺は不敵な笑みを浮かべる。

「……そうですか。黒鵜くんがそこまで言うなら」

坂崎は、ゆっくりと竹中イズルの方を見た。

「わかりました。ブランクがあるんでご期待に添えられないと思いますが、よろしくお願いします」

「オー!マーベラス!!さっそく、今日の放課後、体育館にきてくれ!練習開始だ!」

「兄さん!ちょっと乱暴すぎるよ!」

「凛ちゃん、大丈夫なの……?」

「任せろ、雪峰。俺はこんなヤツには負けない」

俺は坂崎を見て、微笑んだ。最初から、気のあるフリとか、まどろっこしいことなんかしなきゃよかった。俺の世界にまとわりつく、不快な蠅は叩きつぶすほうが性に合っている。

こうして、女王と元天才子役による、仁義なき舞台の幕が上がった。

──だが、俺は夢にも思わなかった。

この決断が、俺の「完璧な世界」を根底から壊していく決定打になってしまうとは。