「今日の放課後、美術室に来てください。黒鵜くんには、僕のことを知ってほしいです」
こっちは、アイツのことなんかこれっぽっちも興味はないが、「少しでも気があると思わせて手酷くフッてやる作戦」が成功するためには致し方ない。
ラウンド3は、俺にとってのアウェイ戦のようだ。表情が読めない敵の意図が全くわからないまま、俺は階段を上がっていく。
「ったく、なんで俺が。ジムにも行かなきゃなんねぇのに……」
ブツブツ文句を言いながら、授業以外に訪れることのない、西校舎4階の美術室を俺は訪れた。
ドアをガラリと開けると、絵筆やバケツを片手に、作業に没頭していた美術部員たちが一斉にこちらを向く。一様に大きく見開かれた眼が、俺に注がれる。この瞬間は、人から注目を浴びる瞬間は、いつだって気持ちがいい。
「く、黒鵜凛だ……なんで……」
息をのむような声に、戦闘モードの微笑みを向ける。
「慎太郎に用があって来ました」
そう挨拶すると、ますます場がざわついた。辺りを見合わす部員たちとは正反対に、全くこちらを見ようともせず、花瓶やら本やらを動かしている坂崎を見つけた。
「よ、来たぞ、慎太郎」
俺は坂崎の肩にポンと手を置いて、親しげに寄り添った。坂崎のテリトリーだからこそ、親密な仲だとアピールしなければいけない。
「お疲れ様です、黒鵜くん」
坂崎はやはり表情ひとつ変えない。こちらを向きもせず、机の上に並べられたガラクタの配置を黙々と変えている。
お前が呼び出しといて無視かよ、とカチンとしながらも、俺はなんとか己の感情を制御する。甘えるように小首を傾げて、坂崎の顔を見上げた。
「──で、俺にしたい話ってなに、慎太郎。みんながいるのに恥ずかしいんだけど」
「僕が美術部でどんな活動をしているか知ってほしいなと。とりあえずそこの席で見学しててください」
「……ハァ?!」
指さされたのは、遠くポツンと離れた、美術室の隅の椅子だ。これじゃただの新入部員の部活見学だ。坂崎の意図をあれこれ考えてやってきたのに、肩透かしもいいところだ。
感情の読めない、坂崎の眼鏡がキラリと光った。
「──黒鵜くん、僕と友達になりたいんですよね?なら、まずは、僕が普段どんなことをしてるのか、知ってほしいんです」
1時間でいいですから、と坂崎は静かな声で続けた。先週の金曜日、コイツに数学の課題を埋めさせた時間と同じだ。
「坂崎の隣で見てるのは駄目なわけ?」
「僕が今してるのは静物画のモチーフの配置決めです。──集中したいので」
邪魔だと、そう言いたいのだろう。ムッとしながら俺は坂崎の指示した席にドカリと座った。
坂崎の指が、透明なガラスの花瓶を右に置いたかと思うと、中央に置く。そして造花のガーベラを挿したかと思えば、重ねあげた洋書の上に置いたりする。それから、また別のモチーフを置く。
無表情の眼鏡からは何も意図が読めないが、あんなにモノの置き場所を繰り返し変えることで、なにか変わるんだろうか。……退屈すぎる。最近、コイツへの復讐プランを練ってて寝不足気味だったのもあって、俺は欠伸を噛み殺した。
「あ、あのぅ、黒鵜くん、だよね……?」
おずおずと声がかけられる。ブロッコリーのようなモコモコした髪型が、なにかのマスコットキャラクターのようだ。小柄で、丸顔の穏やかそうな男子生徒が、緊張した表情で俺を見つめている。
「そうだけど」
「僕、2Bの竹中です。坂崎とは中学から一緒なんだけど……く、黒鵜くんも坂崎の友達なんだね」
つぶらな瞳は、不器用そうだが人の良さを感じた。俺はにっこりと笑って「あぁ。今日は坂崎に呼ばれてな。少し見学させてもらうよ」と答えた。俺が気さくに返事をしたことで緊張がほぐれたのか、竹中はホッとしたように「そっかぁ」と笑った。
「呼んどいてここで見てろ、なんていい加減な奴だよな、坂崎って。あいつ、アレずっとやるつもりなのか」
「静物画だね。坂崎は構図にとにかくこだわるから。ものが最も美しく見える角度ってあるんだよ。絵画って、描く前が一番大事なんだ」
「ふぅん」
人の良さそうな竹中は、坂崎の代わりに俺の接待係になってくれるようだ。退屈ついでに俺は竹中に話しかけた。
「みんな忙しそうだな」
「うん。学園祭の展示も近いからね。黒鵜くんは……今年も出るの?ほら、あの」
「ミスコンか?」
「そうそう!すごかったよ!『男子校の女王様』!」
竹中は、ぱあっと表情を輝かせた。
「黒鵜くんがステージにあがった瞬間、空気がガラッと変わったよね!強烈な登場だった。真っ黒なドレスと真っ赤な口紅がギラギラしてるのに品があってさ、大きな瞳が力強く輝いてて、すごくきれいだった。──あ、ごめん。急にこんな、気持ち悪いよね……」
「いや、別に」
俺はニヤニヤする。SNSのコメントは勿論だが、信奉者から直接受ける熱烈な反応も、やはり気持ちいい。坂崎から冷遇される分、竹中のおっとりした顔が仏のように見えてきた。すっかり竹中と打ち解けた俺は、ファンサービスを自ら提案した。
「もしよかったら、暇だし、モデルにでもなろうか」
「うぇっ!?!い、いいの?!」
竹中の声が裏返った。背後にいる数人の生徒たちもこちらを振り返り、一斉にスケッチブックをめくりだした。気まぐれに提案したことだが、こんなにいい反応を示されて更に気分がよくなる。
「もちろん。見学するより、される方が慣れてるからな」
俺の一言で、あっと言う間に俺の椅子が中央に動かされ、スケッチブックやキャンバスを持った生徒たちがガタガタと椅子を鳴らしながら俺を取り囲む。借りごしらえのステージで、俺はゆったりと椅子に座った。
熱いファンたちのまなざしを受けながら、俺は不敵に笑う。そうだ、これだ、これ。坂崎も……まだ性懲りもなく、花瓶をこねくり回してるが、そのうちこちらを見て、女王の偉大さを思い知るだろう。
フフッと笑って、足を組もうとすると、
「動かないでッ!」
と怒号が飛んだ。さっきまで仏のように柔和に笑っていた竹中が鬼のような形相で鉛筆を握りしめている。
「あ……ご、ごめん。今の角度、最高だったから」
竹中は我に返ったように謝ると、再び猛烈な勢いで鉛筆を走らせ始めた。
美術室は、先ほどまでのざわめきが嘘のように静まり返っている。聞こえるのは、何十本もの鉛筆が紙を削る、サッ、サッという乾いた音だけだ。それからシャッターを切るような素早さで、俺を観察する目たち。
──なんだよ。みんな、そんなに俺を見たいわけ?
内心、悦に浸りながら、俺は「女王」のポーズを維持する。
背筋を伸ばし、顎をわずかに上げ、視線は窓の外の遠くへ。
竹中たちの視線は、熱を帯びて俺の肌をなぞっていく。それはSNSの「いいね」よりもずっと生々しく、俺という存在を肯定するエネルギーに満ちていた。
(……気持ちいい……)
俺が俺であるだけで、この空間が俺のものとして支配されている。
窓から差し込む午後の陽だまりが、心地よい毛布のように俺の肩を包み込む。吹奏楽部や、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
じっとしている内に、意識がとろりと溶け始めた。
(坂崎は……まだ、あんなことやってんのか……)
視界の端で、相変わらず花瓶の位置を一ミリ単位で調整している坂崎が見える。
……まぶたが、重い。
紙をサッサッと走らせる音は、いつしか穏やかな波音のように聞こえ始めた。俺はいつしか、ゆっくりと深い眠りへと落ちていった。
……黒鵜くん、黒鵜くん。困ったな、寝ちゃったみたい。
誰かがヒソヒソと話す声が聞こえたような気がした。竹中の声……だろうか。やがてドアが空く音と、いくつかの足音。静寂。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
窓から差し込む夕日が、俺を取り囲むキャンバスを赤く染めている。描きかけの、あるいは完成したスケッチがいくつもいくつも並んでいる。
坂崎は、そのキャンバスたちの中に1人座り、分厚い画集を膝に乗せて眺めていた。顔をこちらに向けずに、温度のない声で俺に呼びかける。
「起きましたか、黒鵜くん」
「……嘘だろ、俺、寝てた?」
「はい、よだれ垂れてますよ」
「!!?」
俺は思わず口を拭った。笑うでもなく、軽蔑するでもなく、坂崎は淡々と続ける。
「竹中くんが、お礼言っといて、って言ってました。あの『男子校の女王』を描けたなんて、と感激してましたよ」
「……そ、そうか。ふふ、またファンが増えてしまうな」
「モデルが寝てしまうなんて前代未聞ですけどね」
坂崎は冷淡にそう言い捨てると、画集に目を戻した。熱心になにを見ているんだ。俺が訝しげに見つめると、坂崎が顔をあげた。
「これ、僕の一番好きな絵なんです。ご存じですか」
俺は中央の椅子から立ち上がり、坂崎の元へ誘われるように進んだ。
坂崎が指し示したのは、一枚の絵だった。
今、俺たちがいるような美術室……いや、正確にはアトリエというのだろう。画材や何やらが置かれている薄暗い、雑多な部屋。その中央で、一組の男女が抱き合っている。
しかし、それは、ただの男女ではなかった。
彫刻家らしき男が、自分の作った美しい女の「石像」を抱きしめている。長年の苦労の末にとうとう傑作を仕上げたのか──いや、どこかこの絵はおかしい。
「ジャン・レオン・ジュロームの『ピグマリオンとガラテア』という絵です。ご存じですか」
「いや……」
俺は首を横に振った。坂崎の人さし指が女を抱きしめる男を指さした。
「男の名は、ピグマリオン。自分の理想を詰め込んだ彫像を作り、やがて自分の造形物──ガラテアに恋をするんです」
石膏像を抱くには、確かに男の仕草はあまりにも熱烈だ。まるで、恋人を力強く抱きしめるその両腕に俺は目を向ける。坂崎の淡々とした説明が美術室に響いた。
「完璧な美の象徴である彼女が、1人の人間の女性になりますように。
毎日毎日寝食も忘れ、ピグマリオンは祈り続けて……この絵は、その願いが神によって聞き届けられた瞬間を描いています」
俺の抱いた違和感の正体がわかった。
男と抱き合う石膏像の女は、上半身は柔らかい人間の皮膚だが、よく見ると、足元は硬く冷たい石膏なのだ。青白い肌がほんのりと桃色に色づき始めている。今、まさに「生身の人間」に変わろうとしているその刹那、二人は愛の奇跡に酔いしれて、熱い抱擁を交わしているのだ。
「ピグマリオン効果、という言葉を知っていますか?」
「……知らない」
坂崎の話にいつしか夢中になって、俺は素直に答えた。
「人は、他人から期待されればされるほど、その期待に応え、効果を発揮する……という心理学の用語です。ピグマリオンの期待に応えたガラテアのようにね」
初めて坂崎の話に、自分の理解が及んだ。
「あぁ、なるほど。それなら分かる。期待されればされるほど美しくなるなんて、まさに俺のことだもんな」
「そうですね。あなたは、期待に応える石像だ」
坂崎の声は、どこまでもフラットだった。
「でも、僕が気になったのは『めでたしめでたし』の、その後です」
坂崎の指が男から、女へとすっと動く。
「人間になったガラテア。彼女は、ピグマリオンの理想を体現した美の彫像だった。でも、血が通った瞬間から、彼女には『心』ができる。嫉妬や慢心や憎悪……人間が持つ、醜い感情が芽生え始める」
淡々と語る坂崎の言葉に、どこか薄ら寒いものを感じ始めた。
「それに、石膏だった皮膚には皺ができ、シミができ、髪は白くなる。人間になれば、老いて、醜くなるのは当然だ。
その時、ピグマリオンは、かつてのように彼女を愛してくれるでしょうか。彼が愛したのは『完璧な彫像』であって、老いゆく『生身の女』ではないのだから」
……ガラテアは果たして人間になって幸福なのか。
そう呟き、坂崎の指が、しなやかに湾曲するガラテアの背骨をゆっくりとなぞる。
「……何の話、してんだよ」
俺は一歩、後ずさった。美術室の西日は翳りはじめ、坂崎の表情がますます読み取れない。
「だから言ったでしょう。『僕』の話ですよ」
坂崎が画集を閉じた。その音は、静かな美術室にやけに大きく響いた。
坂崎はじっと俺を見つめる。
いくつもいくつもキャンバスに描かれた俺の虚像。その中に立ち尽くす生身のはずの俺を、じっとりと坂崎が見つめる。
分厚いレンズが、鏡のように俺を映し出していた。
この男は、いつもなにを思って俺を見ているんだろう。
鏡の中に閉じ込められる。群青色の闇に支配される美術室で、そんな不安が俺の心を覆い始めていた。
「……今日はもう帰りましょう、黒鵜くん」
坂崎は椅子から立ち上がり、何事もなかったかのように荷物を纏め始めた。
(──凛ちゃん、大丈夫かなぁ)
ガタゴトと揺れる電車の車内。夕日がビル群の中に溶けていくのが、車窓から見えた。
ボクは一人、慎太郎くんに美術室に呼び出された凛ちゃんと別れて、スマホの画面を食い入るように見つめていた。でも今日は、いつもの恋人探しのマッチングアプリではない。
(なぁ、よく撮れたからSNSに投稿していいか?)
(いいですけど別に)
──凛ちゃんってば、ほんと、性格悪いんだから。
凛ちゃんがアップした、あの慎太郎くんとの自撮り写真。「友達とのランチ記念」なんて白々しいこと書いてたけど、見る人が見れば凛ちゃんの悪意に気づくはずだ。炎上とかしないといいけどと、凛ちゃんの代わりに、コメントや反応をパトロールしてあげているのだ。
数百件に及ぶコメントの奔流を、僕はスクロールする。ほとんど凛ちゃんへの称賛ばかりで、投稿直後にあった慎太郎くんへのアンチコメントはほとんど無かった。
ホッと一安心していると、ポコン、と軽快な音をたてて新着コメントがあがった。
『これヤマトくんじゃない?昔、ドラマ大好きだった』
ボクの指が止まった。
眼鏡の奥に隠されていた、鋭く、どこか寂寥感を湛えたその瞳。ボクが前髪を持ち上げたあの一瞬だけ、見えた慎太郎くんの素顔。
脳裏に、かつてテレビ画面の中で、日本中を熱狂させた、少年の笑顔が蘇る。
圧倒的な演技力と、吸い込まれるような瞳。かつて話題になった、あの国民的ドラマの主役。
「……あーーーっ!!」
ボクの叫び声が、夕暮れの車内に響き渡った。



