子どもの時から『白雪姫』が大好きだった。
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのはだぁれ?」
愛してやまないその場面は、同時に、許せないシーンでもあった。
「それは遥か遠い森に住む、あの可憐な白雪姫です」
物語を運命づける鏡の宣託。
でも、あれは鏡が言ったんじゃない。
女王自身が抱いた、水に黒いインクをぽたりと零したような些細な疑念が、そう、鏡に言わせたのだ。
私はもう美しくないのではないか、と。
(俺ならうまくやるのに)
読み聞かせに疲れた母の寝息を聞きながら、幼い俺はそのページに描かれた鏡にそっと指を這わせた。
鏡に向かった美しい俺が、鏡に問うのは──。
『第3幕』
(side 坂崎 慎太郎)
スポットライトが、再び、終わりへと向かう舞台を照らす。
舞台の中央には赤いソファと、大きな姿見が観客席を向いて置かれている。
そして舞台袖から、重たそうに引きずるような足音がやってきた。腰の曲がった、白い蓬髪姿の──痩せこけた一人の老人だ。頭にはシルクハットを被り、左手には古ぼけたノミを持って歩いている。枯れ木のような細腕を震わせながら、ソファに手をかけると、老人は深く息を吸った。
「──永い……永いなぁ、1000年は」
老人は観客席を見渡しながら、寂しげに微笑んだ。老人は──かつての青年「A」であり、前世を「女王」と語る──そこに、1000年前の恋人の姿を探しているのだ。老人は型崩れしたシルクハットとノミをソファの傍らに置くと、永い半生を語り始める。
「見てくれ、この私を。髪は白く紙のように、肌は樫の木のように醜くなってしまった。
彼には私が分かるだろうか。私を以前のように愛してくれるだろうか。
……妄想だ、虚言だと嗤われ続けられた、哀しい老いぼれの、この私を」
人であるが故に逆らえぬ運命。人生に疲れ切った台詞を口にしながら、それでも老人の目は、美への憧れを捨てきれずにいる。
そこにはどんな姿になっても愛されると自負していた、美貌も若さもない。
青く煌めいていた時代にとりすがろうとする、最期のあがきだ。
老人は、観客席に向かって、悲鳴のように声を振り絞る。
「あぁ、どうか、鏡よ。今一度、私を、美しい女王の姿に戻してくれ──もう、時間が無い──呪縛を、呪縛を解いてくれ……!」
老人の哀切な口調は、講堂に響き渡った。スポットライトの光が徐々に絞られていき、やがて、夜のように静まりかえる。
その時間はわずか10秒だが、展開の分からぬ観客達には永く感じられるだろう。──それこそ「1000年」のように。
(観客は暗闇の中、考えるだろう。光が再び当たったその時、鏡には何が映るのかと)
僕は暗闇に包まれながら、目を閉じた。闇の中で、自分もまた闇となる一体感に包まれる。
まもなく、光が点り、鏡が真実をさらけ出す。
醜い「老人」か。美しい「女王」か。
パッと舞台が白くなる。暗闇に慣れはじめた観客は一瞬、目をつぶり、再び、舞台を見る。
なにも映っていなかったはずの姿見には、果たして──黒鵜凛演じる「女王」が映っていた。
「おぉ……おぉ……やはり、間違ってなかった。私は……私は、本当に……」
老人は声を震わせた。震える指で、呪縛の解けた1000年前の自分を抱きしめようとするが……その皺とシミだらけの手が、誰かの手に押さえられる。
「「愛しい人よ」」
ヴァイオリンが奏でるソナタのように、ゆっくりと悲しげな低い「二つ」の声が、しんと静まり変える体育館に響いた。
「「あなたは夏の夜明けに咲く花。冬の光に照らされた霜柱。秋には南国へ飛び去り、春には東の国の歌を追いかけてしまう。あぁ、どうしたら」」
老人は「自分」の喉から発せられる台詞と、傍らに寄り添う「騎士」の姿に戸惑うような表情を浮かべた。
「そんな、まさか……それじゃぁ、まるで……まるで……」
老人の「喉」から怯える声音が漏れるが、老人の「足」は騎士の「足」と共に動き出し、老人の「手」は騎士の「手」を真似て、鏡の中の女王を指さす。
鏡の中の女王は静かに微笑んでいる。老人の悲哀も恐怖も何も理解しない、ただただ美しい彫刻のように。
(黒鵜くん、今の君は、この劇をどう考えているんでしょうね)
最初に台本を読んだ時、「意味がまっっったくわからん」と言い捨てた黒鵜くんを思い出す。
文化祭の演劇をもっとフランクに楽しもうと思った観客たちも、難解で濃厚な世界観に戸惑っているに違いない。
それでも、竹中イズルという演出家のエゴイズムと熱情が、この舞台を描き出したのだ。
僕が思うに──これは「芸術論」だ。
永遠の美にもなれず、完璧な美を作ることも出来ず、もがき苦しむ人間たちの悲劇だ。
「「どうしたら、あなたは僕のものになってくれるのですか。あなたを恋い慕う心臓はとうにあなたのものだというのに」」
美に翻弄された二人の男の声が重なる。
そう、「青年」の前世は「女王」などではなかったのだ。
霜柱や渡り鳥のような、儚い「美」を耽溺するあまり、騎士はやがて、自分をその「美」そのものと思うようになった。──1000年経ち、騎士が老人となった今でも、彼はなおもその「美」にとりつかれているのだ。
鏡の中の女王はうっとりとした目つきで、扇の先を真っ赤な唇に当てながら、甘く囁いた。
「あなたの愛が本当ならば、1000年後の……この場所で、必ず私に会いに来て下さい。私はその時、初めて、あなたのものになりますから」
1000年経とうが、2000年経とうが、女王は絶対に手に入らない。
人を惑わす美しき偶像とは──手に入らない故に、美しいのだから。
「はは……はは……あははは!そうか、そうか、そうだったのか──!」
ソファに突っ伏して、老人は哄笑した。老人が再び1000年後も美を追い求めるのか、それとも筆を折るのか、誰にも分からない。照明が徐々に暗くなり、美を追究する絶望と苦悩に寄り添うように、その曲がった背中を暗く染めていく。
舞台はまもなく──終わる。美への狂気と絶望を残して。
「──されど、鏡よ!」
舞台に光を一筋灯す、その刹那、弦を高く鳴らすような、美しい声が響き渡った。
子どもの時から『白雪姫』が大好きだった。
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのはだぁれ?」
物語を運命づける鏡の宣託。
でも、あれは鏡が言ったんじゃない。
女王自身が抱いた、水に黒いインクをぽたりと零したような些細な疑念が、そう、鏡に言わせたのだ。
私はもう美しくないのではないか、と。
(俺ならうまくやるのに)
鏡に向かった美しい俺が、鏡に問うのはこれだけ。
「鏡よ、鏡。世界で一番美しい俺に相応しいのはだぁれ?」
──いや、それ「も」違う。
今の俺には、もっと違う「台詞」がある。
「──されど、鏡よ!」
観客が息を呑んだのが、闇の中でも分かった。
揺れる黒いドレスの裾から、赤いハイヒールが現れ、鏡の中からゆっくりと外へ踏み出した。
わずかなスポットライトの光が、女王のドレスにちりばめられたスパンコールをキラキラと輝かせた。まるで粉々に飛び散った硝子の破片のようだ。
鏡の中から悠然と女王は現れ、跪く騎士に──僕に近づく。
こんなシーンはない。それに、さっきの台詞もだ。老人の悲鳴を残して、舞台はフェードアウトしていくはずだった。
僕は騎士の表情を貼り付けたまま、近づいてくる女王の顔を見つめた。
アドリブだ。
イズル君に叱られるだろう。こんな最後の最後にやらかすなんて。
それとも──この不測の事態をあえて作ったのは、黒鵜凛から僕への「挑戦状」ということなのか。
傲慢で、負けず嫌いな、彼らしいサプライズだ。
ならば僕も見届けなければいけない。
(明日、幕が下りたら、もう二度とあなたに関わりません。──さようなら、美しい女王様)
あなたがどんな言葉で、僕の世界を終わらせてくれるのか。
僕にはそれを知る権利があった。
あの真っ白なオーディションルームで、
あの喧騒渦巻くミスコンの舞台で、
光輝く存在に打ちのめされた僕には、知ることしか許されてないのだ。
女王がどんな台詞でこの劇を締めくくるのか。
女王がどんな表情で騎士を見つめるのか。
観客も、僕も、静かにその時を待った。
「鏡よ、鏡」
女王の唇から、世界で一番有名な呪いの言葉が響き始めた。
「世界で一番、美しいのは、あなたです」
慈愛に満ちた瞳に、じわりと温かい光が灯る。
そのしなやかな手は、母が子を抱くように、ソファで蹲る老人の歪んだ背骨に、そっと優しく触れた。



