午前5時のアラーム、ジョギング、シャワー、そして、カレンダーの赤いバツマークが増えていく。徐々に夏の気配を感じさせる朝日が、部屋に差し込んでいた。制服に身を包んだ俺は、油性ペンのフタを外した。
カレンダーに残るマスは、あと2つ。
学園祭前日は半日授業となり、午後はまるまる、準備にあてがわれる。ジャージ姿の生徒たちが廊下や教室を行き来し、「お化け屋敷」だの「フルーツジュース」だの、楽しげな文字が校内を飾り始めていた。
「凛ちゃん、いよいよ明日、本番だねー!ボクは今日の練習、ついていってあげられないけど頑張るんだよ?」
ミスコンの最終打ち合わせに向かう雪峰が、俺の肩をポンと叩いた。坂崎から借りた本がぎっしり詰まった鞄を背負い直し、フン、と俺は笑った。
「去年の方が良かった、なんて言われないように、せいぜいお前も励めよ」
「えー?凛ちゃんファン全員、ボクがかっ攫っちゃうけど泣かないでねー」
純粋無垢な笑顔でそう言うと、雪峰は教室を出ていった。花から花へと飛んでいく、ミツバチみたいな軽やかなステップだ。そんな後ろ姿と、いつも俺を追いかけてきたお節介な雪峰の姿が重なる。
「黒鵜くん」
静かな声が俺の名を呼んだ。坂崎だ。
「今日の練習ですが、美術部の展示を優先させてもらいます。イズルくんには了承もらってますが、念のため、承知しておいてください」
最後の練習なのに来れないのか。俺の心に、小さな不安が生じる。だが、元天才子役の坂崎はリハなど出なくとも、別になんの心配も無いだろう。
「そっか。お前、美術部もあるんだよな。忙しいな」
「はい。でもまぁ、僕の展示は……」
と何かを言いかけて、坂崎は口をつぐんだ。無表情だが、これは子供に内緒の話だからと誤魔化す顔に見えた。
「──なんで黙るんだよ。おい、『僕の展示は』のあとは?」
「いえ。黒鵜くんには関係ないですから」
頑なに言おうとしない坂崎につめより、声を低くして睨んだ。
「なんだよ。俺に教えるとマズイのか?」
「無駄話してる暇あるんですか?最後くらいはイズルくんに怒鳴られないといいですね」
「……てめぇ」
相変わらず、ムカつくやつだ。俺は余裕綽々の坂崎の顔に、人差し指を突きたてて、わめいた。
「明日の本番でトチったら許さねぇからな!」
俺の言葉を、そよ風のように聞き流して、坂崎はヒラヒラと手を振って「ハイハイ」と去っていった。
……カラオケでの個人レッスンはあれ1度きりだ。
頬にあたったアイツの肩。背中をさする大きな掌。それから……
(黒鵜くんは、どうして逃げないんですか、自分から)
街灯に照らされた灰色の瞳が微かに揺らいで、俺には、そんな坂崎が迷子みたいに見えた。
でもそんな坂崎の姿はあの一度きりで、教室でも、演劇部の練習でも、さっきのように、すましているからつまらない。
(──可愛くねぇヤツ)
フン、と鼻をならして、俺は講堂へと向かった。
主人公の「青年A」が最後の台詞を、言い終えた。余韻を残し、ブラックアウト。本番さながらの最終リハーサルが終わり、暗闇に包まれながら、俺は短く息を吐いた。観客席に座っているイズルが、小さく、しかし、しっかりと頷いた。
ライトがつく。
舞台袖から、わぁっと十人ほどの演劇部員達が出てくる。それほど多くない人数だから、キャスト以外にも仕事を担っている部員達は、舞台上の細かな調整をそれぞれ確認し始めた。
「黒鵜 凛」
舞台から降り、ペットボトルに口をつけていると、イズルが声をかけた。スッと右手を差し出してくる。
俺は眉間に皺を寄せた。
「何の真似だよ」
「君が真の女王になったことへの敬意と感謝だ」
……今更だが、コイツはいつもこんな芝居じみた台詞で疲れないのだろうか。俺はチラッと一瞥すると、顔を背けた。
「握手は早ぇんじゃねぇのか。本番は明日だぞ。その手で、ド素人の付け焼き刃な演技が失敗しないように祈っとけよ」
「自虐とは君らしくないな。
……いや、きっと大丈夫だ。ありがとう」
小さな演出家の声は、潤んでいた。
「きっと明日の舞台は素晴らしいものになる。君が美しいからでも、有名人だからでもない。
君が、俺たち演劇部員と毎日真剣に練習してくれたからそう思えるんだ。本当にありがとう」
そっち持ってー、衣装どこに置いときますか、なんて、部員たちの賑やかな声が交差する。どの顔も、楽しそうで、真剣な顔だ。
去年のミスコンは、事前の打ち合わせと最終日のリハーサルだけだったから、どこか他人事だった。どんなスタッフが何をやったかなんて気にする必要もなかった。
後輩に呼ばれたイズルが再び舞台に上がっていく。天井を眩く照らすスポットライトを、俺はじっと見つめた。
ここにはいない、坂崎の存在を思い出しながら。
誰もいない講堂に、オレンジ色の夕日が差し込み始めていた。
窓から見える木々の葉も、初夏の風に揺れながら、蜜色に染まっている。
さっきまであんなに賑やかだった講堂で、俺の履いたヒールが床を叩く音だけがする。
履きなれない、赤いハイヒール。踵に貼った絆創膏が今にも剥がれてしまいそうだ。
最初はうまく歩けず、痛い思いもしたが、今ではなんとか、舞台の袖まで難なく歩けるぐらいになってきた。
台詞も完璧に覚えた。気持ちをこめて、抑揚をつけて読みあげることも、女形を真似した、たおやかな仕草も、少しはできるようになった。
だが、何度練習しても足りない。むしろ練習しても、明日、ありえないミスをしてしまうんじゃないかと心細くてたまらない。そんな隙間を埋めるように、俺は再度、舞台の立ち位置へと戻った。
その時、ガラガラと錆びた金属音が響いた。
「……まだ、いたんですか」
「……坂崎」
居残り練習をしてるのを、よりにもよって坂崎に見られるなんて。しかも、制服姿の坂崎に対して、ジャージ姿に赤いハイヒールなんて変な格好してるのも恥ずかしい。
「お前、来ないんじゃなかったのかよ」
「一応、見とこうかなって。落ち着かないですよね、前日って」
淡々とそういうと坂崎は、舞台に上がった。ヒールを履いていても、コイツの顔を見上げなきゃならないのがムカつく。
「俺ももう帰るつもりだったんだ。鍵閉めなきゃだから、出ろよ」
「そうなんですか。でもせっかくだから」
俺を素通りして、坂崎は舞台袖へと向かった。ギッ、ギッと大きな音を立てて、黒い布に包まれた、何かを運んでくる。
坂崎が、その布をするりと剥ぎ取った。
「レッスンしましょうよ。これがきっと最後ですから」
俺を等身大で映す、大きな鏡がきらりと夕日を反射させて、光った。
「何だよ、これ……」
「姿見です。他人の『目』を意識しながら、同時に意識させない訓練には丁度いい」
坂崎は鏡の横に立ち、淡々と言った。鏡の中には、ジャージ姿に赤いハイヒールを履いた歪な格好の俺と、その傍らに立つ、いつも通り感情の読めない坂崎が映っている。
「さあ、これを前に、通しで台詞を。明日が本番なんですから」
相変わらずの命令口調だ。けれど、不安で押し潰されそうだった胸の奥が、コイツのいつもと変わらない無機質な声を聞いただけで、ほんの少し軽くなったような気がした。
「私はいつの時代にも、どこの国にも現れる、女王。昨日は東の国で和歌を詠み、明日は西の海岸線から船乗りたちを見送りました……」
俺は鏡の中の自分を見つめ、深呼吸をして、台詞を紡ぎ出した。
坂崎の教え通り、鏡の向こうにいる何百人もの観客を、俺の美しさの物語で支配するイメージで。
「──どうしたら、あなたは僕のものになってくれるのですか。あなたを恋い慕う心臓はとうにあなたのものだというのに」
坂崎の低い声が、静まり返った構内に響いた。坂崎の目に、声に、指に、全神経を向けて、俺は俺の役割を何とか全うする。
最後の台詞を言い終えた時、静まり返った講堂に、パチ、パチ、と乾いた拍手が響いた。
「上出来ですよ、黒鵜くん。これなら明日は完璧です」
坂崎の口から出た、初めての賞賛だった。
いつもなら「当然だろ」と不敵に笑うはずだった。なのに、坂崎の灰色の瞳を見つめていると、俺の口からは、思ってもみない弱音が溢れていた。
「……まだまだだよ。お前なら、分かってんだろ」
吐き出した声が、小さく震える。
「何度も練習した。イズルにも認められた。だけど、明日、この場所で……って考えると、足がすくみそうになるんだ」
情けない。コイツにだけは、こんなこと言いたくなかったのに。
……いや、今だから、コイツにだから、言えたのだろうか。
下を向こうとしたその時、俺の右手に、ひんやりとした感触が触れた。
坂崎の大きな掌が、俺の手をそっと包み込んでいた。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。カラオケボックスの、あの濃密で息の詰まるような距離感が一瞬にして蘇り、肌が粟立った。ユズルの言葉が、頭の中でリフレインする。
(坂崎がね、僕はこういう光輝く存在になりたかったんですって言ったんだよ)
俺こそ、お前のことを──。
「自惚れないでください、黒鵜くん」
突き放すような冷たい声が、鼓膜を刺した。
「え……?」
驚いて顔を上げた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
坂崎の手が、俺の手首を壊れそうなほどの力で強く掴み、そのまま背後の壁へと乱暴に押し付けたのだ。
ドン、と鈍い音が講堂に響く。
壁と、坂崎の大きな身体に挟まれ、身動きが取れなくなる。すぐ目の前にある坂崎の灰色の瞳は、今まで見たこともないほど、凍てつくような暗い光を宿していた。
「な、何すんだよ、坂崎……っ!」
「ずっと、反吐が出るほど嫌いでした」
静かな、けれど地を這うような低い声だった。
「去年のミスコンであなたを見たその時から、僕は、あなたをずっと壊したいと思っていました。
皆の前で恥をかかせるのも、僕の過去を明かして周囲の関心を奪うのも……例の、美術部のストーカーくんのもとにあなたを連れて行ったのも、その後の展開も。ぜんぶ、そのためです」
心臓が、冷たい氷水をぶっかけられたように冷えていくのが分かった。
何を、言っているんだ、コイツは。
「お前が……俺を……?」
「そうですよ。自分の限界を知ったあなたが、どうなるか、知るために」
戸惑う俺の顔を、坂崎の冷え切った目が観察するように見下ろす。
「あなたには分からないでしょうね。何者にもなれず、舞台を降りて、泥をすするしかなくなった人間の気持ちなんて」
坂崎の手の力が、さらに強くなる。骨が軋むように痛い。だが、それ以上の絶望が、俺の身体を縛り付けていた。
雨の夜、俺を気遣って伸ばされた、坂崎の手。
カラオケで、恋人として優しく俺の輪郭をなぞった指先。
全てはまやかしだったのだと言わんばかりに、鎖のように、強く冷えた手が俺の手首を掴んでいる。
「怯えて、傷ついて、逃げてくれれば良かったのに、あなたは舞台に立つことを選んだ。あなたの演技が拙くても、明日のあなたに、観客たちは夢中になるでしょう。
そして……あなたの烈しい光のせいで、ますます僕の惨めさが浮き彫りになる」
坂崎が、サッと顔を伏せた。
──もう、あなたのそばにいたくない。
坂崎の言葉は、心の破片を抉るような、弱々しい悲鳴に似ていた。
ゆっくりと顔をあげた坂崎の目と、俺の目が重なる。
「僕はね、一分一秒でもはやく、あなたから離れたいんです」
俺が初めて見る、坂崎の「心からの笑み」だった。
どこまでも切なく、どこまでも歪んだ、美しい笑顔。
こんな時なのに、俺は1枚の芸術作品を見るかのように、立ち尽くしていた。
「明日、幕が下りたら、もう二度とあなたに関わりません。──さようなら、美しい女王様」
掴まれていた手が、突然、自由になる。
坂崎はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けると、長い影を夕日の床に引きずりながら、講堂の扉の向こうへと去っていった。
バタン、と重い扉が閉まった。
夕日は完全に沈み、講堂は、最悪の悪意を孕んだ暗闇へと染まっていった。
*いつも読んでくださってありがとうございます。励みになっております。
次回が一応、最終回となりますが、雪峰くんと黒鵜くんの過去短編も書きたいなと考えております。
更新予定は水曜日をよていしております。最後まで、お付き合いいただければ幸いです。



