男子校の女王は、冴えない鏡に暴かれる


坂崎の手は氷のように冷たく、自分の身体は緊張感と不安から熱を帯びているのが分かった。だが、ここで逃げ腰になる訳にはいかない。

俺は深呼吸した。好きでもない相手に媚を売る……いや、恋人のような演技をする……なけなしのイメージを総動員して、俺は坂崎に挑むように座った。

掴まれた右手を誘導し、俺はゆっくりと自分の頬に添えさせた。坂崎の手はひんやりしていて、カッカしてる頬に心地よさすら感じる。

これは恋人の手だ。それで……この後は……

ちらりと、奴の顔を見る。

「……それから?」

試すように坂崎の目が細くなる。……急かしやがって。こんなの、簡単だ。適当に身体に触って、イチャつく真似をすればいい。坂崎をからかう為に教室でも似たようなことをしたじゃないか。

俺は、キッと坂崎を睨みつけた。

「うるせぇ。気が散る。あと……目、閉じろ」

俺の文句に坂崎は素直に応じて、目をすっと閉じた。頬に当てた坂崎の指に、自分の指を絡ませながら、されるがままの坂崎の顔にゆっくりと近づいていき……。

突然、廊下を「ギャハハハ!」と男の笑い声が通り過ぎ、思わず坂崎の手をバッと離し、飛び退いた。

「……他人の目を意識しすぎです、黒鵜くん」

ウェーブがかった前髪をかきあげて、坂崎がため息をついた。

「さっきのレッスン1を思い出してください。サラリーマンの男性も、ワンピースの彼女も、あなたに見せるために演技をしてたわけではないんです。他人に「見せ」ながら他人の「目」を意識しない。これが基本です」

「そんなこと言ったって、恥ずかしいもんは恥ずかしいだろ!好きでもねぇ相手にそんな」

「出来ますよ、僕なら」

シンプルな返事に、俺は言葉をつまらせた。

「……じゃあ、やれよ。手本見せろよ」

「いいですよ。リクエスト、ありますか?」

騒々しいアニソンやロックが遠くから微かに聞こえるだけで、この小さな個室は落ち着かないぐらい、静かだ。坂崎の静かな問いかけに、俺は躊躇いながら答えた。

「こないだの……例の恋人役でやれよ」

「あれですか?」

坂崎が意外そうな顔をした。

「もしかして気に入ってるとか?」

「馬鹿ッ……本番まで時間ねぇだろ。まどろっこしいことしてる暇ねぇからな」

「黒鵜くんは台詞、覚えてるんですか?」

「覚えるだけはな」

「では、やってみましょうか」

顔を背けながら強がると、再び、坂崎の冷えた指の感触が俺の頬に添えられた。

「愛しい人よ」

身に覚えのある、肌が粟立つような感触。安っぽいカラオケボックスの一室の中、坂崎の熱っぽい台詞がアンバランスで、居心地が悪い。だからこそ、本当に、1000年の時を経て俗世間のカラオケボックスで巡り合ったような、不思議なリアリティを感じる。

冷酷な演出家から、恋人の顔へ。コイツが他人に豹変する瞬間の、この寒気を覚えるほどの演技力は、どうやって手に入れたんだろう。

坂崎は俺の頬に当てた自分の手をゆっくりとずらしていく。冷たい指先が唇にそっと触れる。ストーカー男には視られるだけでも恐怖だったのに、坂崎に触れられるのも、視られるのも嫌ではない。いや、むしろ……。

「あなたは夏の夜明けに咲く花。冬の光に照らされた霜柱。秋には南国へ飛び去り、春には東の国の歌を追いかけてしまう。あぁ、どうしたら」

波にたゆたうような心地よい口説き文句。愛おしそうに俺を見つめる目。俺の輪郭をなぞる冷たく、かさついた男の指。

「どうしたら、あなたは僕のものになってくれるのですか。あなたを恋い慕う心臓はとうにあなたのものだというのに」

心臓だけじゃ、足りない。

もっと欲しい。

もっと。

もっと。

こいつの「才能」を俺のものに、できたら。

気がつくと、俺の手も坂崎の手を真似して動いていた。薄い唇に触れ、柔らかい髪に指を埋め、耳から頬に掛けての曲線をなぞっていく。

俺の唇が囁く。

「……あなたの愛が本当ならば、1000年後のこの場所で必ず私に会いに来て下さい。
私はその時、初めて、あなたのものになりますから」

外の声は聞こえない。

ここがどこかもわからない。

ただ、目の前の男の、仕草と視線だけが全てだ。

恋人からの愛撫に酔いしれて、坂崎が目を閉じながら、ゆっくりと息を吐いた。低い声にぞわりと鳥肌がたつ。高鳴る鼓動に思わず、目を閉じる。ゆっくり瞼を開ければ、坂崎の灰色の瞳が優しく俺を見つめていた。

まるで鏡みたいだ。

見た目は全く違うのに、坂崎が俺になり、俺が坂崎になって、1つのものに溶けていく。

坂崎の掌が俺の背骨に置かれたとき、俺の身体はゆっくりと坂崎の方へもたれかかった。

「ん……」

頬に当たる、男の骨ばった身体。柔らかく背をなぞる指先がくすぐったくて、心地よくて、俺は吐息を小さく漏らした。坂崎の指が、体温が、俺の身体に入っていく感覚を味わう。

「ラブハニートースト・バニラアイス添え、お持ちいたしまし……たァ……」

突如、淫靡な空気を打ち砕く、やる気のない声が部屋に響いた。例の金髪の店員と、坂崎にもたれかかった俺が目を丸くするのはほぼ同時だった。

小さなピンク色のソファで抱き合う男子高校生。甘い余韻に痺れて、指一本動かせず、俺は坂崎の腕の中で固まった。店員もバカでかいトーストを片手に石化している。

俺は、今、何をしてるんだ。何で、コイツなんかと。

夢から覚めたように、頭が真っ白になった。

「あ、置いといてもらえますか。ありがとうございます」

坂崎の無機質な声が合図だったように、俺よりも先に、店員の身体が動いた。気まずそうに視線を床に落とし、「し、失礼しましたァ……」と小声でつぶやくと、バンドマン風の店員は、サササッと逃げるように出ていった。

無論、気まずいのはこちらも同じだ。強ばりが解けて、全身の血が一気に顔に上がっていくのを感じた。

「お、おま、おまえ、おおおまえ……!」

「クリアですね。初日にしては上出来です」

坂崎の腕の中で沸騰したポットのように震えると、坂崎はパッと離れて、悪趣味な糖分の塊に向き合った。

「もうこの店使えねぇだろうが!どうするんだよ!」

「このレッスンは、次から僕の部屋でやる予定でした。毎回毎回カラオケじゃ破産しちゃいますしね」

「なっ!?お前の部屋なんて誰が行くか!」

「じゃあ、黒鵜くんは、演劇部の皆さんの前で恋人の演技できますか?僕はそれでもいいですけど」

演技とはいえ、坂崎とのイチャつきっぷりを他人に見られるか。

それとも、コイツの部屋で二人っきりでさっきの続きをするか。

しかし、個室でさっきの続きをしたら、なんだか、空気に呑まれて、もっと、その……

俺の脳内がついにショートした。

「だ、だめだだめだ!やっぱりお前の部屋なんか行けるか!こんなふざけたレッスンはもう終わりだ!明日から演劇部で稽古しろ!」

「黒鵜くんがそう言うならそれでいいですけど。

──じゃあこれ、食べますね。適当に時間つぶしててください」

坂崎は悠々とナイフを、蜂蜜とバニラが垂れるトーストに差し込んでいく。

……今更、何の意味もなさないかもしれないが、先程の店員の「誤解」を解くために、どうしたらいいか。

「クソッ……!勝手にしろ!」

俺は自暴自棄に喚きながら、マイクを掴んだ。


「ありがとうございましたァ……」

残りの時間を、ちゃんと大熱唱して健全に過ごしたと証明したつもりだったが、会計の際も金髪店員はぎこちない、謎の笑みを浮かべていた。人生初めてのカラオケが人生最悪の思い出になってしまった。

「黒鵜くん、歌、上手ですね。腹式呼吸もできていて、声もよく通っていました」

「……」

褒められはしたが、1時間近く歌い続けて喉がガラガラする。

すっかり夜になってしまった。今日のレッスンはここで終わりだ。電車に乗り、最寄り駅から出ると、坂崎が「僕もこっちなんです」と言いながらついてきた。

「……何か、まだ話すことあんのかよ」

住宅街にさしかかってきた。駅前の繁華街と比べると、ずいぶん明かりが減ってきた道を歩きながら、隣を歩く坂崎に尋ねた。

オレンジ色の街灯が道筋を辿るように並んでいる。車が2台、俺たちを追い越してから、坂崎がポツリと呟くように言った。

「……黒鵜くんは、僕のこと、許してくれたんですか」

あの日の、雨音が静かに蘇った。

(お前さえ……いなければ……楽しい夢物語の世界でいられたんだ……!なんで、余計なこと、するんだよ……ッ!)

妄信的なファンに襲われ、現れた坂崎の腕を強く振り払って、俺は叫んだのだ。

(二度と俺に近づくな……!)

「……許すも何も、別にお前のこと、怒っちゃいねぇよ」

無感情な顔をしていて「許しているのか」なんて問うなんて、坂崎もあのことを気にしていたのだろうか。

しばらく、沈黙があった。俺は言葉を続けた。

「あの時の俺は、俺らしくなかった。それだけだ」

あれは弱音だった。坂崎に投げつけた、オトナ気ない、甘えだったのだ。

坂崎の足が止まった。

俺も止まり、振り返って奴の顔を見る。

いつもの、感情の伺えない、ロボットのような顔だ。

なのに、俺には何故か、迷子のように見えた。

「黒鵜くんはどうして」

坂崎の口が、珍しく、ためらうように止まった。

「どうして逃げないんですか、自分から」

演技ではない。初めてだ、と俺は思った。今、俺は、初めてコイツの本当の声を聞いた気がする。

ならば俺も、本当のことを言わなくてはいけない。心に突き刺さったガラスの破片を抜くように、俺はゆっくり答えた。

「怖いからだよ」

立ち並ぶマンションの巨大な影が、人工的な街灯に照らされて、ぼんやりと地面に浮かび上がっている。人気のない夜の道で2人、鏡のように俺と坂崎は向き合っていた。

「逃げたら、もう二度と自分に戻れなくなる気がして、それが怖くて踏みとどまったんだよ。

──お前と同じだよ、坂崎」

坂崎の瞳が揺れた。

「僕は逃げたんですよ。役者もやめたんです」

「でも俺の目には、お前はまだ、舞台を降りてないように見える」

(黒鵜くんは美しいですよ、だけど)

いつか見た悪夢で、鏡の中の坂崎はそう言っていた。ならば俺は、こいつにどんな魔法をかければいいのか。

「坂崎はさ……かっこいいよ」

俺は続けた。オレンジ色の光が、俺をまっすぐに見つめる坂崎の顔を照らしている。

「お前は自分の弱さも武器も理解していて、それをずっと磨き続けた経験があるだろ。今は表舞台に立ってなくても、お前自身が望めば、いつでも、何にでもなれるだろ。だから、逃げてねぇよ」

坂崎が俺を「見た」ように、俺には坂崎がそう「見える」。

そしてその坂崎に俺は嫉妬した。坂崎の経験と才能に恐怖した。だから、あの雨の日、俺はガキみたいに惨めに八つ当たりして、逃げ出したのだ。

坂崎が「許したのか」と問うのなら、俺はあの時の俺自身をこそ許してやりたい。だが、それはまだ当分、先だ。

俺は不敵に、笑った。

「ここまで送ってくれれば十分だよ。お前に自宅を知られるのは嫌だしな」

微かに痛む喉を押さえながら、俺は続けた。

「来週からレッスンできるように竹中イズルに連絡しといてくれよ。今日教えてくれた人間観察とやらは、これからも続けるよ。じゃ、その……」

またな、と咳払いをしながら、俺は坂崎に背を向けた。

俺の靴音だけがしばらく続いた。頬に当たる夜風は、日中と違い、ひんやりとしている。車が数台俺の横を通り過ぎ、曲がり角にさしかかった時、俺は振り返った。

坂崎の姿はもうなかった。

(僕は逃げたんですよ。役者もやめたんです)

さっきまであいつがいた道で、自分の弱さを吐露したような、寂しげな灰色な瞳が蘇った。