《Side 坂崎 慎太郎》
「鏡」が出てくる物語は古今東西たくさんあるが、台詞を暗唱するほど、僕が夢中になった絵本にも「鏡」が登場する。
それは、アンデルセンの書いた『雪の女王』という物語だ。
……むかしむかし、悪魔がひとつの鏡を作った。
この鏡は、美しいものをみすぼらしく映し、醜いものはより大きく映す、呪われた鏡だった。
ある時、この悪魔の鏡が割れて地上に飛び散ってしまい、世界中に振り注いだ。破片が目に入った者は全てのものが歪んで醜く映り、心臓に入った者は氷のように冷え切ってしまう。
そして、呪われた鏡の破片が目に入った少年もまた、心が氷のように冷たく、悪意に満ちた少年となってしまう……そんな彼を気に入った、雪の女王が少年を攫っていき……
そんなストーリーだ。幼馴染の少女の活躍によって、鏡の破片を溶かした少年は、元の優しい心を取り戻す。アンデルセンにしては珍しく、ハッピーエンドなその物語を、幼い僕は愛していたはずだった。
だが、僕はふと思う。いつの間にか、僕の心にこそ、ひやりと冷えた、鋭い破片が密やかに息づいているのではないかと。
「……なぁ、さっきミスコン運営が言ってたんだけど、今年、黒鵜がさ──」
黒鵜凛が学園祭のミスコンを出場辞退する、というニュースが、朝の教室に飛び込んできた。ただでさえ、欠席が続く彼には何かと噂が持ち上がっていた。何があったのか、いや、あの「演劇部でのリハーサルが」……野次馬たちがあれこれ騒ぐ中、僕は静かに文庫本のページをめくっていた。
(あぁ、やっぱりな)
やっぱり、一緒じゃないか。
僕のではない、誰かの名前が響き渡った真っ白なオーディションルーム。
「スターを探しに来たんだ」と穏やかに笑う青い瞳。
結局、あの黒鵜凛だって僕と同じだった。
「男子校の女王」と褒めそやされ、称賛を浴びた者でさえ、たった1度の敗北で挫折する。「天才子役」と謳われた、「何者にもなれなかった」僕と全く同じだ。それを証明できたら、自分はもっと晴れやかな気持ちになれるはずだった。
(……凛ちゃんが戻ってきたら、いつものままの慎太郎くんでいてあげて。
凛ちゃんはきっと、慎太郎くんの舞台に帰ってくるはずだから)
昨日の放課後、雪峰くんが僕に言った言葉が蘇る。雪峰くんは優しいから、親友を信じたい気持ちもあるんだろうが、僕には分かる。帰ってくるはずがない。黒鵜凛は逃げたのだ。僕が選ばれなかった時のように。
「坂崎!!!」
突然、大きな声が僕の名を呼んだ。教室がしんと静まりかえる。驚きと好奇な眼差しが1点に集中する。
僕はおもむろに顔をあげた。さっきまで教室の話題の主だった男が、傲岸不遜な表情でこちらを睨みつけていた。
共通の制服姿なのに、まるできらびやかな衣装を身にまとっているようだ。
つかつかと僕の前まで来ると、バンッ!と力強く、机に何かを叩きつけた。台本だ。赤い表紙は何度も開いたように、すこしよれている。
僕は台本から、目の前の男に視線を向けた。
「……おかえりなさい、って言っていいんですかね、黒鵜くん」
「お前に言われても全然嬉しくないんだよ、坂崎」
揺らめく、青い炎のような輝きが、その目に宿っている。
「誰かさんみたいに『一生、自分に価値がないなんて言い訳して逃げ回る』のは、俺には似合わないからな」
戻ってきた「男子校の女王」が僕に顔を寄せ、睨みつけながら、命じた。
──金曜日の数学指導は、変更だ、と。
「学園祭まで、お前は俺の演技コーチだ、坂崎」
僕の心に、鏡の破片を突き刺したのは誰なんだろう。
(慎太郎。僕が欲しいのは「個性」なんだ。観客を釘付けにし、エンドロールまで立たせない、強烈な光だ)
そんなものはあるはずない。どいつもこいつも、たかが「人間」じゃないか。
(ありきたりな言葉だけどさ。自分にとってこれが好き!ってビビビッて感じさせてくれるものが価値なんじゃないかなァ)
世界中の人間を、視線や微笑みだけで夢中にさせる芸術作品みたいな奴なんか、いるわけない。
(お前さえ……いなければ……楽しい夢物語の世界でいられたんだ……!なんで、余計なこと、するんだよ……ッ!)
黒鵜凛が涙を見せた時、黒鵜凛の本性を暴けたのだと思った。やっと復讐が果たせたのだと、暗い喜びがあったはずなのに。
(……凛ちゃんが戻ってきたら、いつものままの慎太郎くんでいてあげて。
凛ちゃんはきっと、慎太郎くんの舞台に帰ってくるはずだから)
帰ってくるはずない。逃げたにきまってる。僕が挫折したように。逃げたんだ。ずっとずっと遠くまで、僕と同じように逃げてしまえばいいのに。
「誰かさんみたいに『一生、自分に価値がないなんて言い訳して逃げ回る』のは、俺には似合わないからな」
黒鵜凛が不敵に微笑んだ時、僕の心に、再び、小さく何かが灯った。その感情で、熱で、痛みで、僕の心に突き刺さった破片が震える。
「──どうした?不満か」
目を細めて、試すように女王が僕を笑った。
女王の後ろで何食わぬ顔をしている雪峰くんが、僕に喧嘩を売る黒鵜くんを呆れたように──いや、女王の帰還を喜ぶように、ふふっと笑っている。
壊したはずの女王は帰ってきた。ならば僕はどうすべきか。
僕は読みかけの文庫本を閉じた。
「鏡」が出てくる物語は古今東西たくさんあるが、台詞を暗唱するほど、僕が夢中になった絵本にも「鏡」が登場する。
それは、アンデルセンの書いた『雪の女王』という物語だ。
……むかしむかし、悪魔がひとつの鏡を作った。
この鏡は、美しいものをみすぼらしく映し、醜いものはより大きく映す、呪われた鏡だった。
ある時、この悪魔の鏡が割れて地上に飛び散ってしまい、世界中に振り注いだ。破片が目に入った者は全てのものが歪んで醜く映り、心臓に入った者は氷のように冷え切ってしまう。
そして、呪われた鏡の破片が目に入った少年もまた、心が氷のように冷たく、悪意に満ちた少年となってしまう……そんな彼を気に入った、雪の女王が少年を攫っていき……
そんなストーリーだ。幼馴染の少女の活躍によって、鏡の破片を溶かした少年は、元の優しい心を取り戻す。アンデルセンにしては珍しく、ハッピーエンドなその物語を、幼い僕は愛していたはずだった。
だが、僕はふと思う。いつの間にか、僕の心にこそ、ひやりと冷えた、鋭い破片が密やかに息づいているのではないかと。
「……なぁ、さっきミスコン運営が言ってたんだけど、今年、黒鵜がさ──」
黒鵜凛が学園祭のミスコンを出場辞退する、というニュースが、朝の教室に飛び込んできた。ただでさえ、欠席が続く彼には何かと噂が持ち上がっていた。何があったのか、いや、あの「演劇部でのリハーサルが」……野次馬たちがあれこれ騒ぐ中、僕は静かに文庫本のページをめくっていた。
(あぁ、やっぱりな)
やっぱり、一緒じゃないか。
僕のではない、誰かの名前が響き渡った真っ白なオーディションルーム。
「スターを探しに来たんだ」と穏やかに笑う青い瞳。
結局、あの黒鵜凛だって僕と同じだった。
「男子校の女王」と褒めそやされ、称賛を浴びた者でさえ、たった1度の敗北で挫折する。「天才子役」と謳われた、「何者にもなれなかった」僕と全く同じだ。それを証明できたら、自分はもっと晴れやかな気持ちになれるはずだった。
(……凛ちゃんが戻ってきたら、いつものままの慎太郎くんでいてあげて。
凛ちゃんはきっと、慎太郎くんの舞台に帰ってくるはずだから)
昨日の放課後、雪峰くんが僕に言った言葉が蘇る。雪峰くんは優しいから、親友を信じたい気持ちもあるんだろうが、僕には分かる。帰ってくるはずがない。黒鵜凛は逃げたのだ。僕が選ばれなかった時のように。
「坂崎!!!」
突然、大きな声が僕の名を呼んだ。教室がしんと静まりかえる。驚きと好奇な眼差しが1点に集中する。
僕はおもむろに顔をあげた。さっきまで教室の話題の主だった男が、傲岸不遜な表情でこちらを睨みつけていた。
共通の制服姿なのに、まるできらびやかな衣装を身にまとっているようだ。
つかつかと僕の前まで来ると、バンッ!と力強く、机に何かを叩きつけた。台本だ。赤い表紙は何度も開いたように、すこしよれている。
僕は台本から、目の前の男に視線を向けた。
「……おかえりなさい、って言っていいんですかね、黒鵜くん」
「お前に言われても全然嬉しくないんだよ、坂崎」
揺らめく、青い炎のような輝きが、その目に宿っている。
「誰かさんみたいに『一生、自分に価値がないなんて言い訳して逃げ回る』のは、俺には似合わないからな」
戻ってきた「男子校の女王」が僕に顔を寄せ、睨みつけながら、命じた。
──金曜日の数学指導は、変更だ、と。
「学園祭まで、お前は俺の演技コーチだ、坂崎」
僕の心に、鏡の破片を突き刺したのは誰なんだろう。
(慎太郎。僕が欲しいのは「個性」なんだ。観客を釘付けにし、エンドロールまで立たせない、強烈な光だ)
そんなものはあるはずない。どいつもこいつも、たかが「人間」じゃないか。
(ありきたりな言葉だけどさ。自分にとってこれが好き!ってビビビッて感じさせてくれるものが価値なんじゃないかなァ)
世界中の人間を、視線や微笑みだけで夢中にさせる芸術作品みたいな奴なんか、いるわけない。
(お前さえ……いなければ……楽しい夢物語の世界でいられたんだ……!なんで、余計なこと、するんだよ……ッ!)
黒鵜凛が涙を見せた時、黒鵜凛の本性を暴けたのだと思った。やっと復讐が果たせたのだと、暗い喜びがあったはずなのに。
(……凛ちゃんが戻ってきたら、いつものままの慎太郎くんでいてあげて。
凛ちゃんはきっと、慎太郎くんの舞台に帰ってくるはずだから)
帰ってくるはずない。逃げたにきまってる。僕が挫折したように。逃げたんだ。ずっとずっと遠くまで、僕と同じように逃げてしまえばいいのに。
「誰かさんみたいに『一生、自分に価値がないなんて言い訳して逃げ回る』のは、俺には似合わないからな」
黒鵜凛が不敵に微笑んだ時、僕の心に、再び、小さく何かが灯った。その感情で、熱で、痛みで、僕の心に突き刺さった破片が震える。
「──どうした?不満か」
目を細めて、試すように女王が僕を笑った。
女王の後ろで何食わぬ顔をしている雪峰くんが、僕に喧嘩を売る黒鵜くんを呆れたように──いや、女王の帰還を喜ぶように、ふふっと笑っている。
壊したはずの女王は帰ってきた。ならば僕はどうすべきか。
僕は読みかけの文庫本を閉じた。



