「慎太郎。君は優秀な役者だ。だけど」
役者になるきっかけは、絵本の読み聞かせだった。
母親が、内気で大人しい息子に絵本を読むと、その時ばかりは目を輝かせ、文字を書けもしないのに物語をすらすらと暗唱しだした。驚いている内に、キャラクターになりきって台詞を諳んじ始める。
両親はそんな息子に「才能」を感じて、地元の児童劇団に入れた。すぐに主役に抜擢され、劇を見にきた事務所関係者に声をかけられ、オーディションに受かり、ドラマの子役を演じることになった。
お茶の間の人気者になるまで、数行で終わってしまう。まさに、あれよあれよと、トントン拍子だ。ドラマ「ぼくたち、8人の小人!」は有名脚本家を数人起用した、独特な作風も話題だったが、演技上手な子役たちがその人気の一端を担っていた。
その1人に自分がいた。思い上がりでも誤解でもない。当時の視聴率やファンレター、仕事の増加など客観的な事実から導きだした事実だ。「将来を期待される天才子役」というキャッチコピーも、実力と名声が証明してくれる。
「ねぇ、ねぇ!あの子って『ヤマト』じゃない?」
「うわーっ!本物の『ヤマト』くんだ!ドラマ、すごい良かったよね、あの泣く演技なんて感動しちゃった!」
自分は俳優だ。
幼いなりにそう自覚していた。息子の才能を最初に見いだした両親よりも、僕には将来が見えていたし、自信もあった。
だから他の子役たちのように、タレントとしてバラエティ番組に出演したりはしなかった。売れたい、のではなく、演じるのが好きだった。青い鳥を探す少年や、海賊と剣を交えるピーターパンを。いや、それだけではない。手足が伸び、声変わりをし、大人になれば、老人になれば、もっともっと様々な役になれると楽しみでもあった。
そんな時、大きなオーディションがあった。日本を舞台にしたハリウッド映画で、ちょうど小学生ぐらいの子どもを探しているのだという。短いシーンのみの出番で、セリフも少ない。だが、映画の鍵を握る重要なキャラクターだった。奇しくも、僕はその映画監督の作品が大好きだった。父の隣で何度も何度も見た。全てのキャラクターの全てのセリフをそらんじることができるほどに。
「『ヤマトくん』にならいけるんじゃない?挑戦したら?」
事務所の社長もスタッフもそう言ってくれた。僕はオーディション用のセリフを何度も何度も読み込んだ。そして更に台本に書かれていない「彼」のことを考えた。
「彼」の両親はなにをしていて、どんな食べ物が好きなのか。寝ることと遊ぶことはどちらが好きなのか。嫌いなやつを助けなければいけない時、「彼」ならどうするのか。
そしてオーディションの日を迎えた。入室し、挨拶をする。監督の隣にいる日本人のテレビスタッフが僕の略歴を簡単に耳打ちしていた。「ヤマト」というかつての出世作の役名が聞こえた。僕はフッと息を短く吐いた。
無機質な部屋が、南の島になる。僕の肌は日に焼け、快活な海育ちの少年の笑顔が浮かぶ。「彼」のための台詞が僕の口からあふれ、僕の手がすっと空を横切るカモメを指さした。
完璧な演技だった。憧れの人の前で、全力を尽くし、自分の才能のままに演じる喜びに、僕は震えた。
僕が頭を下げると、数人の大人たちが満足気にため息をつき、頷くのが見えた。
その後、いくつか質問を受けた。それも、そつなく答えたと思う。
白い長机を前に横に並ぶ5人の審査員が、僕には宗教画に描かれた使徒たちに見えた。大人たちがペンを走らせ、小声で話し合い、紙をめくる音が自分の心臓の音と重なった。真っ白な部屋で、真っ白なシャツを着たアメリカ人監督だけが僕を見つめて、優しく微笑んでいた。汗の滲む右手を僕はグッと握りしめた。
控室にはオーディションを受けた子どもたちが集められていた。皆、それなりの実力者なんだろう。だがライバルである彼らも僕を見て、自分の負けを悟ったようだった。「あれ、『ヤマト』じゃん」「『ヤマト』が出てるならダメかも」そんな囁きを、僕はおまじないみたいに心の中で復唱した。そう、僕なら大丈夫。僕なら、きっと。
ノックの音が響き、ざわめきは一瞬で静寂になる。スタッフが現れ、ホワイトボードに合格者を記した紙を1枚、ペタリと貼った。淡々とその番号を読み上げたあと、彼は合格者に別室にくるように微笑んだ。
それは僕の番号ではなかった。
スタッフと合格者が出ていった後、諦めたように笑ったり、泣いたり、怒りだす他の候補者を他所に、僕はその無機質な部屋で立ち尽くしていた。やがて、1人、また1人と荷物を抱えて帰っていっても、僕は動けなかった。
ギィとドアが開いた。革靴が床を叩く特徴的な足音が、僕の隣まで近づく。
それだけで、誰がここに来たのか分かった。
「どうして、僕じゃないんですか、監督」
彼の作品にいつか出るためにと、猛特訓していた英語で僕は尋ねた。
顔をあげると、優しい青色の瞳と目が合った。嘲笑ったり、謗るために彼が来たのではないことが分かる。むしろ、僕が「落選」したのにはちゃんと「理由」があるのだと、わざわざ教えに来てくれたのだ。
「君は才能があり、努力もしている。それは信じてほしい」
日本人の幼い俳優に最大限の敬意を払って、ゆっくりと丁寧に彼は答えた。
「君はきっと器用なんだろうね。打楽器もピアノもフルートの音色だって奏でられる。ソリストとしても合唱でもきっと腕を発揮できるだろう。
役者としてそれは魅力的だ。何にでもなれるんだからね」
あの僅か10分のオーディションで、彼は僕の才能を理解してくれた。
「慎太郎。僕が欲しいのは「個性」なんだ。観客を釘付けにし、エンドロールまで立たせない、強烈な光だ」
オンリーワン、という言葉が、真っ白な部屋に響いた。
……合格者の「彼」の名を、その時の僕は知らなかった。「彼」がどう演じ、勝利を勝ち取ったのか、分かる術はない。
だが、名前を呼ばれた時の「彼」の無垢な笑顔を見た瞬間。
嫉妬も怒りもすぐに消えた。
僕は「彼」を本能的に魅力的だと感じてしまったのだ。
もっと見ていたい。その姿を追い続けたい。それが「スター」と呼ばれる光なのだ。
立ちすくむ僕の肩を優しく叩いて、監督は部屋を出ていく。
「君もきっとその光を手に入れることができるよ、慎太郎。──ガンバッテ」
慎太郎。
「ヤマト」と役名ばかりで呼ばれていた僕は、その時、久しぶりに自分の名前を聞いた気がした。
僕は1人、空っぽな白い部屋で小さく、自分の名前を呟いた。
何者にもなれない、その名を。
坂崎 慎太郎 14歳。
たった数行の輝かしい芸歴は、1つのオーディションで白紙になり、僕はただのどこにでもいる普通の中学生に戻った。
時折、「あの……ヤマトくん、ですよね……?」と声をかけられもしたが、中学に上がり、身長もぐっと大きくなるとそれもなくなった。
「もったいない」と事務所の社長やスタッフは引き留めてくれたが、僕の代わりはいっぱいいるのだろう。
「いい夢が見れたと思えば……な?」と父親が寂しい笑顔で僕の頭を撫でた。
期待されることもない。なにかを得ようとも思えなくなっていた。
「……坂崎くんはさ、絵とか、好き?」
中学3年生の時、クラスメイトになった竹中ユズルくんに声を掛けられた。演劇部の兄のイズルくんは知っていたけど、熱烈に演劇部に勧誘する喧しい兄とは違い、いつも穏やかに微笑んでいる子だった。彼が美術部の部長だというのも僕はその時、知った。
「描いたりはしないけど……見るのは好きかも」
「それで十分だよ。いっぱい絵も飾られてるし、画集もあるよ」
帰宅部の僕に、彼はいつでも遊びにきてね、と誘ってくれた。
5月の爽やかな光が差し込む美術室。部員はたったの4人しかいなかった。絵の具だらけの机も、水滴が弾くパレットも、やたら筋肉質の石膏像たちも、静寂の中で見ると、厳かな芸術の香りに包まれていた。
「──何百年も愛される名画って、どうしたら生まれるんだろうね」
「え?」
居心地の良かった美術部に何度か入り浸るようになって、絵も描けない僕はとりあえず、美術室の画集を読みふけっていた。ゴッホのあまりにも有名なヒマワリの絵を見て、僕はふと、そんな問いをユズルくんに尋ねた。
「美術館に飾られてる、何億もの価値がある絵と、そうじゃない絵の違いってなんなんだろうな、って急に思って」
「坂崎は難しいことを考えるなぁ」
人の良さそうな笑みで微笑みながら、ユズルくんは眉間に皺を寄せて考え始めた。しばらくウンウン唸っていたが、やがて、困ったように笑って、
「そんなこと考えたことなかったな。描くのが好きなだけだから」
と答えた。
「坂崎もさ、演じるの、好きだったんだろ。じゃなきゃあんなにすごい演技はできない、って兄さんが毎日熱弁してるよ」
「それは……好きだったと思う。──たぶん」
異国の衣装に身を包んだ高揚感も、台本の台詞に没頭した記憶も曖昧だ。
僕の指がペラリとページをめくる。1枚の絵に僕は目をとめた。キャンバスに絵筆を走らせながら、楽しそうにユズルくんは話し続けた。
「ありきたりな言葉だけどさ。自分にとってこれが好き!ってビビビッて感じさせてくれるものが価値なんじゃないかなァ。
あとはどれだけの人や時間が評価するかだよね。運次第だけどさ、それも」
薄暗いアトリエで、男が女を抱きしめている。なだらかなボディライン。乳白色の柔らかい肌の質感。刹那の内に男を狂わせ、虜にする美の化身。
冷たい石像が熱を帯び、甘やかな吐息を漏らす奇跡を、ギャラリーは目撃し、固唾を飲んで見守るだろう。
(慎太郎。僕が欲しいのは「個性」なんだ。観客を釘付けにし、エンドロールまで立たせない、強烈な光だ)
僕がその光を見いだしたのは、黒鵜凛だった。



