帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 急速な近代化を遂げる帝都。
 その華やかさの裏側には、時代の潮流から取り残された者の嫉妬や、持たざる者の絶望が堆積していた。
 行き場のない負の感情は、やがてドロリとした「あやかし」に変貌し、繁栄の影で蠢きだす。
 
 表向きは「公爵」という高貴な貴族である鷹臣は、帝国陸軍・対魔特務部隊の最高責任者。
 大正浪漫の華やかさの裏で、闇に潜むあやかしを狩る軍のエリートだった。
 
 あやかしの絶叫が銀座の空に響き渡り、ものの数秒で黒い塵となって夜風に消える。
 いとも簡単にあやかしを消し去ってしまった鷹臣の圧倒的な「力」を前に、千歳は身を震わせた。

「鷹臣様、お手が……!」
 軍刀を鞘に収める鷹臣の手が不気味なほど黒く変色していることに気が付いた千歳は、悲鳴に近い声を上げる。
 
「気にするな。すぐに戻る」
 鷹臣は平然と言い放ったが、その指先は微かに震え、こみ上げる「何か」を必死に抑え込んでいるように見えた。

 神楽坂の一族は、古の時代にあやかしの王である「鬼」を喰らい、その呪いを異能へと転じて帝都を守り続けてきた。
 だが、あやかしを斬るたびに負の情念をその身に吸収せねばならず、戦えば戦うほどに正気は削り取られていく。
 それが、帝都最強と謳われる『鬼神』が背負う逃れられぬ宿命だ。
 
 どす黒く変色した手から、どろりとした悪意が身体を這い上がる。
 狂おしく咆哮する「鬼」に抗うかのように、鷹臣は深い呼吸を繰り返した。

「隊長、遅くなり申し訳ありません」
 軍靴の音を響かながら、鷹臣と同じ黒い外套に金ボタンの軍服を纏った数人の男たちが駆け寄る。
 彼らは惨状を把握するのと同時に、千歳の姿に驚愕の表情を浮かべた。
 
「後はまかせる」
「はっ!」
 鷹臣は手袋をはめ直し、部下たちに冷徹な指示を飛ばす。

「余計な詮索はするな」
「御意!」
 部下たちの最敬礼を背に、鷹臣は千歳の肩を抱き寄せた。
 
「驚かせて悪かった」
「あ、いえ。その、さっきのは一体……」
 街を歩きながら、思わず千歳はキョロキョロする。

「今はいない」
 また路地裏からどろりとした異形が出てくるのではないかと怯えていた千歳の気持ちは、鷹臣に全部お見通しだったようだ。

「あやかしを討伐すること。それが俺の仕事だ」
「あやかし……?」
「この国が近代化を急ぐほど、街には歪みが生まれる。人の妬み、嫉み、そうした負の感情が実体化したものが、さっきのあやかしだ」
 鷹臣の声は低く、どこか遠くを見つめているようだった。

「俺の一族はその歪みを斬り、身に蓄えることで繁栄してきた。だが、毒を飲み続ければ、いつかは心も毒に染まる」
 鷹臣は自嘲気味に笑うと、千歳の小さな手を握りしめた。
 
 先ほど黒く変色していた鷹臣の手は、手袋越しでも驚くほど熱い。
 その熱は千歳に「生」の躍動を伝えると同時に、神楽坂家が背負ってきた歴史の重さを物語っているようだった。

「毒を飲まずにすむ方法はないのですか?」
 千歳の問いに鷹臣は立ち止まり、千歳の左頬にある紋章を見つめる。

「帝都からあやかしが消えることはないだろう」
 人の負の感情はいつの世も消えることはない。
 文明の光が強くなればなるほど、人々の心に生じる影もまた深く濃くなる。
 その負の情念が消えぬ限り、鬼の咆哮が止むことはない。
 
「だが、おまえの水鏡の紋章だけが、俺の狂いそうな鬼の血を鎮めることができる」
「どうすれば……! 私は、何をすればよろしいのですか?」
 込み上げる切実な想いに突き動かされ、千歳は自分でも驚くほどの力で鷹臣の黒く蝕まれた手を握り返した。

「あっ、申し訳ございません」
 慌てて手を引っ込めようとした千歳の手を、今度は鷹臣が強く握る。

「この手を水鏡の紋章に」
 千歳は鷹臣の手袋を外すと、どす黒く変色したその大きな掌を迷うことなく自分の左頬へと導いた。
 人々に忌み嫌われてきた紋章に、あやかしの毒に侵された手を重ねる。
 千歳は鷹臣の右手を両手で包み込み、縋るように、祈るように、静かに瞼を閉じた。
 
 どうか……この方の苦しみが、少しでも和らぎますように――。

 鷹臣が触れた瞬間、紋章が熱を帯びた気がした。
 千歳の奥底から溢れ出した白銀の光が、その熱を優しく飲み込んでいく。

「あぁ……」
 鷹臣の口から、深い安堵の吐息が漏れた。

 幼い頃から苦しめられてきた鬼の咆哮が、嘘のように静まっていく。
 腕を這い上がっていたどす黒い悪意が、まるで朝日で雪が溶かされるかのように消えていくようだと、鷹臣は思わず今の状況を口にした。
 
 わずかな時間で鷹臣の手は元の綺麗な肌に。
 
「やはり、おまえは俺の唯一だ」
 首筋に落とされた熱い口づけに、千歳の顔は真っ赤に染まる。
 生まれて初めて「自分が誰かの役に立った」という事実に、千歳は嬉しさを隠すことができなかった。
 
   ◇

「なんなのよ!」
 斎宮家のリビングで百合子は花瓶を壁に投げつけた。
 
 ガシャンと大きな音を立てながら破片が落ち、床に水が広がる。
 慌てて掃除にやってきた女中の姿を見ながら紅茶が入ったティーカップを手にした百合子は、ツカツカと女中のもとに歩き、頭から紅茶をかけた。