「店主。今後、妻の着物をすべてこの店に任せる。代わりに、こちらの願いをひとつ聞いてもらおうか」
「す、すべての着物を……!」
「あぁ、四季折々、式典の礼装から日々の普段着に至るまで、すべてだ」
帝都随一の呉服商にとって、『神楽坂』を顧客に持つことは、国家の庇護を得るに等しい。
店主は畳に額をこすりつけ、震える声で承諾した。
「身に余る光栄でございます! それで、私共にできることとは……」
「斎宮家の出入りを禁止しろ」
鷹臣は千歳の肩を抱く手に力を込めると、残酷なほどに美しい微笑を浮かべた。
◇
千歳と鷹臣が店をあとにした数刻後、一台の馬車が呉服店の前に止まった。
華やかな牡丹の着物に紫の袴、編み上げブーツに狐の襟巻きをした百合子と、宝尽くしの豪華な刺繍が入った深紫の色留袖に金襴の袋帯、珊瑚の帯締めをした斎宮家の正妻が馬車を降りる姿に、店はざわつく。
「お母様、見て。あの大輪の乱菊!」
視線の先は、先ほど鷹臣が選ばなかった錦紗ちりめんの反物。
店主が片付けている反物を外から見ながら、百合子はうっとりする。
「あの薄汚い娘の結納金はまだかしら」
「すぐもらえるわよね! あの新作の振袖が欲しいわ!」
二人は品性の欠片もない高笑いを響かせながら、銀座の名門呉服店の暖簾をくぐった。
「お引き取りを」
「……なんですって?」
義母は店主を睨みつける。
「私たちが誰だか分かって言っているの? 斎宮家よ!」
「存じ上げております。『元』上得意様でございます」
店主は深々と一礼した。
「申し訳ございませんが、当店は今後、斎宮家の方々を出入り禁止とさせていただきます」
いつの間にか店を取り囲んでいた軍服姿の男たちに気づいた百合子が目を見開く。
「お、お母様……」
「な、何なのこれ……! 店主、どういうこと?」
義母が半狂乱で叫ぶと、軍服姿の男たちは一歩距離を詰めた。
「神楽坂閣下の御命でございます」
「そんな、馬鹿なことあるわけが……。神楽坂閣下は、私の、私たちの親戚になったのよ!」
神楽坂家による「出入り禁止」の宣告は帝都の社交界における死刑宣告に等しい。
「何かの間違いよ!」
「どうぞ、お引き取りを」
軍服姿の男たちに睨まれた二人は、悔しそうに唇を噛みながら去っていく。
店主は大きく息を吐くと、軍服姿の男たちに深く頭を下げた。
◇
「千歳、この櫛はどうだ?」
「も、もうこれ以上は……」
ガラスケース越しに色とりどりの蒔絵や鼈甲の櫛が並ぶ店先で、千歳はぶんぶんと首を振った。
呉服屋を後にしてからというもの、最高級の正絹のハンカチに、異国の香りが立ち上る石鹸。
次々と贈られる贅沢品の数々に、千歳の小さな胸はとっくに容量を越えていた。
「後ろを向け」
軍服を纏った威風堂々たる男が、幼いほどに華奢な少女の髪に繊細な銀細工が施された櫛を差し込む。
その光景に、周囲の通行人たちも思わず足を止め、感嘆の吐息を漏らした。
「よく似合う」
鷹臣は満足げに目を細めると、千歳の頬を指先でなぞる。
紋章だけを見ている鷹臣の姿に、これは「この紋章に似合う」と言う意味だと千歳は理解した。
何かを与えられるたびに「私なんかのために」と申し訳なさが先に立った。
だが、彼が惜しみなく与えてくれるのは、物欲を満たすための品々ではない。
「ここにいろ」という繋ぎ止めなのだ。
ここが自分に初めて与えられた居場所。
たとえ自分自身が紋章のおまけだとしても、居場所を与えてもらえることは本当にありがたい。
千歳はぎゅっと抱えていた包みを握りしめ、おずおずと顔を上げた。
「ありがとうございます、鷹臣様」
千歳は初めて前髪で隠すこともなく、鷹臣の目を見ながら微笑む。
その瞬間、鷹臣の指がぴくりと止まった。
「……次は甘味でも」
甘味でもどうだと鷹臣が言おうとした瞬間、ドンッと空気が重くなる。
周囲の瓦斯灯が不自然に明滅し、路地裏の影がドロリと重油のごとく溶け出した。
その影から這い出したのは、無数の人間の「口」を歪に繋ぎ合わせたような、名もなき異形のあやかしだった。
「ひっ……!」
鷹臣は千歳を背後に隠すと、手袋を脱ぎ捨てる。
鷹臣の殺気と共に、右手の甲にある赤い紋章があやかしの瘴気に呼応するように脈打ち始めた。
「逢瀬を邪魔した罪は重いぞ」
鷹臣が軍刀の鞘を指先で弾いた瞬間、抜刀と共に赤い閃光が爆ぜる。
千歳が見たのは、美しくも残酷な鬼の化身、鷹臣の背中だった――。
「す、すべての着物を……!」
「あぁ、四季折々、式典の礼装から日々の普段着に至るまで、すべてだ」
帝都随一の呉服商にとって、『神楽坂』を顧客に持つことは、国家の庇護を得るに等しい。
店主は畳に額をこすりつけ、震える声で承諾した。
「身に余る光栄でございます! それで、私共にできることとは……」
「斎宮家の出入りを禁止しろ」
鷹臣は千歳の肩を抱く手に力を込めると、残酷なほどに美しい微笑を浮かべた。
◇
千歳と鷹臣が店をあとにした数刻後、一台の馬車が呉服店の前に止まった。
華やかな牡丹の着物に紫の袴、編み上げブーツに狐の襟巻きをした百合子と、宝尽くしの豪華な刺繍が入った深紫の色留袖に金襴の袋帯、珊瑚の帯締めをした斎宮家の正妻が馬車を降りる姿に、店はざわつく。
「お母様、見て。あの大輪の乱菊!」
視線の先は、先ほど鷹臣が選ばなかった錦紗ちりめんの反物。
店主が片付けている反物を外から見ながら、百合子はうっとりする。
「あの薄汚い娘の結納金はまだかしら」
「すぐもらえるわよね! あの新作の振袖が欲しいわ!」
二人は品性の欠片もない高笑いを響かせながら、銀座の名門呉服店の暖簾をくぐった。
「お引き取りを」
「……なんですって?」
義母は店主を睨みつける。
「私たちが誰だか分かって言っているの? 斎宮家よ!」
「存じ上げております。『元』上得意様でございます」
店主は深々と一礼した。
「申し訳ございませんが、当店は今後、斎宮家の方々を出入り禁止とさせていただきます」
いつの間にか店を取り囲んでいた軍服姿の男たちに気づいた百合子が目を見開く。
「お、お母様……」
「な、何なのこれ……! 店主、どういうこと?」
義母が半狂乱で叫ぶと、軍服姿の男たちは一歩距離を詰めた。
「神楽坂閣下の御命でございます」
「そんな、馬鹿なことあるわけが……。神楽坂閣下は、私の、私たちの親戚になったのよ!」
神楽坂家による「出入り禁止」の宣告は帝都の社交界における死刑宣告に等しい。
「何かの間違いよ!」
「どうぞ、お引き取りを」
軍服姿の男たちに睨まれた二人は、悔しそうに唇を噛みながら去っていく。
店主は大きく息を吐くと、軍服姿の男たちに深く頭を下げた。
◇
「千歳、この櫛はどうだ?」
「も、もうこれ以上は……」
ガラスケース越しに色とりどりの蒔絵や鼈甲の櫛が並ぶ店先で、千歳はぶんぶんと首を振った。
呉服屋を後にしてからというもの、最高級の正絹のハンカチに、異国の香りが立ち上る石鹸。
次々と贈られる贅沢品の数々に、千歳の小さな胸はとっくに容量を越えていた。
「後ろを向け」
軍服を纏った威風堂々たる男が、幼いほどに華奢な少女の髪に繊細な銀細工が施された櫛を差し込む。
その光景に、周囲の通行人たちも思わず足を止め、感嘆の吐息を漏らした。
「よく似合う」
鷹臣は満足げに目を細めると、千歳の頬を指先でなぞる。
紋章だけを見ている鷹臣の姿に、これは「この紋章に似合う」と言う意味だと千歳は理解した。
何かを与えられるたびに「私なんかのために」と申し訳なさが先に立った。
だが、彼が惜しみなく与えてくれるのは、物欲を満たすための品々ではない。
「ここにいろ」という繋ぎ止めなのだ。
ここが自分に初めて与えられた居場所。
たとえ自分自身が紋章のおまけだとしても、居場所を与えてもらえることは本当にありがたい。
千歳はぎゅっと抱えていた包みを握りしめ、おずおずと顔を上げた。
「ありがとうございます、鷹臣様」
千歳は初めて前髪で隠すこともなく、鷹臣の目を見ながら微笑む。
その瞬間、鷹臣の指がぴくりと止まった。
「……次は甘味でも」
甘味でもどうだと鷹臣が言おうとした瞬間、ドンッと空気が重くなる。
周囲の瓦斯灯が不自然に明滅し、路地裏の影がドロリと重油のごとく溶け出した。
その影から這い出したのは、無数の人間の「口」を歪に繋ぎ合わせたような、名もなき異形のあやかしだった。
「ひっ……!」
鷹臣は千歳を背後に隠すと、手袋を脱ぎ捨てる。
鷹臣の殺気と共に、右手の甲にある赤い紋章があやかしの瘴気に呼応するように脈打ち始めた。
「逢瀬を邪魔した罪は重いぞ」
鷹臣が軍刀の鞘を指先で弾いた瞬間、抜刀と共に赤い閃光が爆ぜる。
千歳が見たのは、美しくも残酷な鬼の化身、鷹臣の背中だった――。


