神楽坂家の紋章が刻まれた黒塗りの自動車が、銀座の街を滑るように走る。
車の外に広がるのは、煉瓦造りの建物と瓦斯灯の文明開化。
斎宮家の裏庭から空を眺めることしかできなかった千歳にとって、そこはあまりにも場違いで眩しすぎる場所だった。
おしろいもなく、長い前髪もなく、顔を布で覆う市女笠もないのに。
こんなに大勢の人々が行き交う大通りに身を晒していいはずがない。
化け物だと石を投げられ、呪われた娘だと罵られてしまうのではないだろうか。
鷹臣様にご迷惑が掛からないだろうか?
恐怖に指先を震わせる千歳の上に、まるで逃げ道を塞ぐかのように鷹臣の大きな手が乗せられた。
自動車は帝都一の老舗呉服店の前へ。
店主らしき老紳士は鷹臣の軍服を見るなり、床に額をこすりつけて平伏した。
「神楽坂閣下……! 本日はどのような御用向きで……」
「この者に似合う最高級の反物を」
鷹臣は千歳の肩を抱き寄せ、その身を店主に向ける。
その瞬間、店内にいた人々の視線が一斉に千歳に突き刺さった。
軍服を完璧に着こなした鷹臣の姿に令嬢たちが嬌声を上げたかと思えば、その隣に立つ千歳へ嫌悪の視線が向けられる。
店員たちの間にも「なぜあんな娘が」「見て、あの痣」と囁き声が広がり始めた。
千歳は俯き、左頬を隠そうと縋る思いで髪に手を伸ばす。
だが女中たちが綺麗に結い上げた夜会巻きは簡単に下りてこない。
「申し訳ございません……私のような者が……」
両手で顔を隠しながらその場から逃げ出そうとする千歳の肩を、鷹臣はグイッと引き寄せた。
「この者は俺の妻だ」
鷹臣は千歳の顎を指先でくいと持ち上げ、逃げることも隠すことも許されない。
「帝都を護る聖なる紋章だ。これを呪いと呼ぶ無知なる者は、我が神楽坂家への反逆と見なす」
静まり返った店内の客たちを見渡した鷹臣は、店主を睨みつけた。
「店主はいつまでそこに突っ立っている」
「は、はいっ、ただいま」
店主が震える手で奥から持ってきたのは、表面に細かな凹凸があり肌触りの良い錦紗ちりめんだった。
生地全体に細い銀糸を織り込んだ銀通しに、大輪の乱菊が鮮やかな朱色で染め上げられた息を呑むほど美しい反物。
豪華な布を身体に当てられた千歳は、鏡に映る自分の不釣り合いさに申し訳なくなってしまった。
義妹の百合子のように器量の良い顔立ちだったら、もっとこの柄が映えただろうに。
「あ……、あぁ。なんという純白の輝き……」
店主の視線は反物ではなく、千歳の左頬に刻まれた「紋章」に。
「……見すぎだ」
鷹臣は氷のように冷たい声を発しながら、軍刀の鞘をカチリと鳴らす。
店主は悲鳴を飲み込むと、「少々お待ちください」と再び奥の部屋へと駆け出していった。
店主が奥の蔵から抱えて戻ったのは、桐の箱に納められた天蚕糸で織られた極上の薄絹。
「光を吸い込み、同時に発光しているかのような神々しさが奥方様にお似合いかと」
布が放つ気品が頬の紋章にふさわしいと店主は千歳の身体に反物を当てる。
「さすが帝都一だな」
「恐れ入ります」
「他には?」
「はい、お待ちを」
再び奥に入った店主が持っていたのは螺鈿織。
絹糸に砕いた貝殻の輝きを練り込み、瑠璃色から深緋、深緑へと色彩を変えていく不思議な布だ。
「……ほう」
反物を当てた千歳の紋章がさらに映える。
鷹臣は満足げに目を細めると、着物を仕立てるように店主に告げた。
「天蚕糸で織られた薄絹と、螺鈿織の両方でございますか?」
店主の声が驚愕に震える。
いずれも一生拝めるかどうかという国宝級の品だ。
「あぁ、帯も小物もすべてそろえてくれ」
店主の動揺を余所に、鷹臣は千歳の華奢な腰を引き寄せた。
逃げ場を塞ぐように顔を寄せ、耳元で低く、熱い独占欲を孕んだ声を落とす。
「好きな色や柄があったら言え」
どれでもいくつでも買ってやると言われた千歳はあまりの身に余る光栄に、ただ首を横に振るしかなかった。
「滅相もございません。このように素晴らしいお品を私のような者がいただくなんて……」
義妹の百合子でさえ、こんなに美しい着物を着ているところは見たことがない。
斎宮家では幼いころからずっと使用人と同じ麻の着物だった。
冬は凍えるほど薄く、夏は肌を刺すように粗い麻の感触。
それが千歳にとっての日常であり、分相応なのだと叩き込まれてきたのに。
「店内すべて買い占めてもいいが、似合わない物を身に付けさせるわけにはいかないからな」
鷹臣は千歳が義妹の影に怯えていることを見透かしたように笑うと、千歳の左頬を熱い手のひらで包み込んだ。
「もっと望め」
命じるようなその低音は、千歳の卑屈な心を甘く溶かす誘惑のようだった。
車の外に広がるのは、煉瓦造りの建物と瓦斯灯の文明開化。
斎宮家の裏庭から空を眺めることしかできなかった千歳にとって、そこはあまりにも場違いで眩しすぎる場所だった。
おしろいもなく、長い前髪もなく、顔を布で覆う市女笠もないのに。
こんなに大勢の人々が行き交う大通りに身を晒していいはずがない。
化け物だと石を投げられ、呪われた娘だと罵られてしまうのではないだろうか。
鷹臣様にご迷惑が掛からないだろうか?
恐怖に指先を震わせる千歳の上に、まるで逃げ道を塞ぐかのように鷹臣の大きな手が乗せられた。
自動車は帝都一の老舗呉服店の前へ。
店主らしき老紳士は鷹臣の軍服を見るなり、床に額をこすりつけて平伏した。
「神楽坂閣下……! 本日はどのような御用向きで……」
「この者に似合う最高級の反物を」
鷹臣は千歳の肩を抱き寄せ、その身を店主に向ける。
その瞬間、店内にいた人々の視線が一斉に千歳に突き刺さった。
軍服を完璧に着こなした鷹臣の姿に令嬢たちが嬌声を上げたかと思えば、その隣に立つ千歳へ嫌悪の視線が向けられる。
店員たちの間にも「なぜあんな娘が」「見て、あの痣」と囁き声が広がり始めた。
千歳は俯き、左頬を隠そうと縋る思いで髪に手を伸ばす。
だが女中たちが綺麗に結い上げた夜会巻きは簡単に下りてこない。
「申し訳ございません……私のような者が……」
両手で顔を隠しながらその場から逃げ出そうとする千歳の肩を、鷹臣はグイッと引き寄せた。
「この者は俺の妻だ」
鷹臣は千歳の顎を指先でくいと持ち上げ、逃げることも隠すことも許されない。
「帝都を護る聖なる紋章だ。これを呪いと呼ぶ無知なる者は、我が神楽坂家への反逆と見なす」
静まり返った店内の客たちを見渡した鷹臣は、店主を睨みつけた。
「店主はいつまでそこに突っ立っている」
「は、はいっ、ただいま」
店主が震える手で奥から持ってきたのは、表面に細かな凹凸があり肌触りの良い錦紗ちりめんだった。
生地全体に細い銀糸を織り込んだ銀通しに、大輪の乱菊が鮮やかな朱色で染め上げられた息を呑むほど美しい反物。
豪華な布を身体に当てられた千歳は、鏡に映る自分の不釣り合いさに申し訳なくなってしまった。
義妹の百合子のように器量の良い顔立ちだったら、もっとこの柄が映えただろうに。
「あ……、あぁ。なんという純白の輝き……」
店主の視線は反物ではなく、千歳の左頬に刻まれた「紋章」に。
「……見すぎだ」
鷹臣は氷のように冷たい声を発しながら、軍刀の鞘をカチリと鳴らす。
店主は悲鳴を飲み込むと、「少々お待ちください」と再び奥の部屋へと駆け出していった。
店主が奥の蔵から抱えて戻ったのは、桐の箱に納められた天蚕糸で織られた極上の薄絹。
「光を吸い込み、同時に発光しているかのような神々しさが奥方様にお似合いかと」
布が放つ気品が頬の紋章にふさわしいと店主は千歳の身体に反物を当てる。
「さすが帝都一だな」
「恐れ入ります」
「他には?」
「はい、お待ちを」
再び奥に入った店主が持っていたのは螺鈿織。
絹糸に砕いた貝殻の輝きを練り込み、瑠璃色から深緋、深緑へと色彩を変えていく不思議な布だ。
「……ほう」
反物を当てた千歳の紋章がさらに映える。
鷹臣は満足げに目を細めると、着物を仕立てるように店主に告げた。
「天蚕糸で織られた薄絹と、螺鈿織の両方でございますか?」
店主の声が驚愕に震える。
いずれも一生拝めるかどうかという国宝級の品だ。
「あぁ、帯も小物もすべてそろえてくれ」
店主の動揺を余所に、鷹臣は千歳の華奢な腰を引き寄せた。
逃げ場を塞ぐように顔を寄せ、耳元で低く、熱い独占欲を孕んだ声を落とす。
「好きな色や柄があったら言え」
どれでもいくつでも買ってやると言われた千歳はあまりの身に余る光栄に、ただ首を横に振るしかなかった。
「滅相もございません。このように素晴らしいお品を私のような者がいただくなんて……」
義妹の百合子でさえ、こんなに美しい着物を着ているところは見たことがない。
斎宮家では幼いころからずっと使用人と同じ麻の着物だった。
冬は凍えるほど薄く、夏は肌を刺すように粗い麻の感触。
それが千歳にとっての日常であり、分相応なのだと叩き込まれてきたのに。
「店内すべて買い占めてもいいが、似合わない物を身に付けさせるわけにはいかないからな」
鷹臣は千歳が義妹の影に怯えていることを見透かしたように笑うと、千歳の左頬を熱い手のひらで包み込んだ。
「もっと望め」
命じるようなその低音は、千歳の卑屈な心を甘く溶かす誘惑のようだった。


