帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

「なぜ減る?」
「今の帝都の人々は、他人の足を引っ張り嫉妬の毒を吐くよりも、隊長と千歳様の仲睦まじい噂話に花を咲かせる方が楽しいのでしょう」
 幸福な物語はどんな結界よりもあやかしを退けますと語りながら、森部は部下に持たせていたケーキを鷹臣に差し出した。

「銀座一のモンブランです。愛妻家が手ぶらで帰っては、格好がつきませんからね」
「あちらの大きい箱はなんだ?」
「隊員の分です」
「なぜ隊員の分まで俺の金で買うんだ?」
「英雄だからです」
 森部の淡々とした回答に呆れながら、鷹臣は千歳のためのケーキの箱を受け取る。

「おまえたち、あとはまかせた」
「御意!」
 敬礼する隊員たちの姿にも、軍服の裾を翻し一刻も早く戻ろうとする鷹臣にも、婦人たちの熱烈な吐息が漏れる。
 
「見て、閣下があんなに急いで。きっと奥様がお待ちなんですわ」
「本当、なんて素敵なの。あんなふうに愛されてみたいものね」
 背後から聞こえてくる世迷い言を鷹臣は無視し、帰路を急いだ。
 
 屋敷の門をくぐれば、そこには騒がしい喧騒も英雄を崇める視線もない。
 ただ、夏の夜気に混じる梔子(くちなし)の香りと、窓から漏れる柔らかな琥珀色の明かりがあるだけだ。

「鷹臣様、おかえりなさいませ!」
 玄関を開けるより早く、パタパタと小走りの音と共に千歳が顔を出す。
 その無防備で一点の曇りもない笑顔を見た瞬間、鷹臣の胸の奥に澱んでいた戦いの熱が霧散していった。

「ただいま、千歳」
 差し出された箱を受け取った千歳が顔を輝かせる。

「森部が言うには、銀座一のモンブランだそうだ」
「ありがとうございます! お夕飯のあとに紅茶を淹れますね」
 世間がどれほど自分を神格化しようと、この腕の中に収まる小さな体温さえ守り抜けるのならそれでいい。
 2ヶ月後に控えた祝祭を思い描きながら、鷹臣は千歳にそっと口づけた。

   ◇

 帝都がかつてないほどの祝祭ムードに包まれた、雲ひとつない秋の日。
 明治神宮の深い森は静謐な空気に包まれていた。
 まだ新しい大鳥居をくぐると、そこには砂利を踏む音さえ憚られるような神聖な静寂が広がっている。
 雅楽の調べが遠くから響き渡る中、朱塗りの大きな番傘の下を二人はゆっくりと進んだ。

 千歳が纏うのは、一点の曇りもない純白の「白無垢」。
 頬には日の光で輝く水鏡の紋章があったが、人々は千歳の凛とした美しさに目を奪われた。
 
「……千歳、震えているのか?」
 隣を歩く鷹臣が、民衆には聞こえないほどの低声で囁く。
 
「幸せすぎて、少しだけ足元がふわふわいたします」
 隣を歩く鷹臣の姿は、まさに帝都の守護神そのもの。
 
 金色の飾緒を肩に垂らし、胸元には数々の勲章が朝日に煌めく陸軍正装。
 腰に下げた軍刀の鞘が歩くたびにカチリと硬質な音を立て、冷徹なまでに整った容貌と隙のない軍人の佇まい。
 しかし、その視線は常に隣を歩く千歳の足元を気遣い、躓かぬよう目に見えないほど細やかな歩幅の調整を繰り返している。
 まさに愛妻家な男だと、参道の両脇を埋め尽くした民衆から感嘆の溜息が漏れ聞こえた。

「まるで絵巻物のようだ」
「神楽坂閣下が、あんなに大切そうに花嫁を見守って……」
 森部が仕掛けた「愛妻家の英雄」という物語は、今この瞬間、完璧な真実となって人々の心に刻まれる。
 
 拝殿へと続く石段を前に、鷹臣は一度だけ足を止めた。
 
「千歳。この先の人生、苦しみも、喜びも、すべて俺が引き受ける。おまえはただ、俺の隣で笑っていればいい」
「はい。鷹臣様。どこまでもお供いたします」
 誰からも愛されず、誰にも必要とされなかった人生の最期は鬼神の生贄。
 もし許されるなら、死ぬ前に一度でいいから誰かに優しく抱きしめられたい。
 かつて絶望の淵で、孤独だった自分に、虐げられながら耐えた日々を送っていた自分に、もし会えるのなら伝えてあげたい。

 こんなに素晴らしい旦那様と出会える未来があることを。

 神前の儀を終え、参道を戻る二人に盛大な拍手が浴びせられる。
 鷹臣は、千歳の足取りがわずかに乱れたのを敏感に察すると、躊躇うことなくその腰を強く引き寄せた。