帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

「中にもうあやかしはいないが、この氷穴に誰も入れないように封鎖」
「現状維持に努めます!」
 鷹臣は頷くと、千歳を後部座席に乗せ、自分も滑り込んだ。
 バタンと重厚なドアを閉めると外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
 敬礼をする部下たちに見送られながら車は走り出した。

「鷹臣様……本当に、帰れるのですね。私たちの家に」
 千歳が隣に座る鷹臣の袖を、祈るようにぎゅっと握りしめる。

「あぁ、帰ろう」
 鷹臣は千歳の震える手を、大きな掌で包み込みながら「千歳のおかげだ」と微笑んだ。
 
 馬車では丸一日かかる道のりも、軍用車であれば6時間程度だと森部は教えてくれた。
 傾いた日の光に照らされた富士は、壮大で美しかった。
 揺れる車内、エンジン音だけが心地よく響く空間。
 これまで緊張の連続だった千歳にとって、鷹臣の体温を感じながら過ごすこの時間は、生きていることを実感できる幸せな時間となった。

 うとうとしはじめた千歳の肩に鷹臣は軍服の外套を掛け直してくれる。

 あぁ、よかった。
 まだお側にいられる。
 千歳はゆっくりと目を閉じ、夢の中へと落ちて行った。
 
    ◇

「おはよう、千歳」
 翌朝は鷹臣の極上の笑顔で目が覚めた。
 
「……お、おはようございます、鷹臣様」
 まだ夢の続きにいるような心地で、千歳はたどたどしく答える。
 枕元のすぐ近くに肘をつきながら自分を見つめている鷹臣は、濃紺の落ち着いた着物姿。
 ゆったりと寛いだ胸元からは、逞しい鎖骨が覗いている。
 昨日の戦場での鬼気迫る表情が嘘のように、鷹臣は穏やかで甘い空気を纏っていた。

 ふと、鷹臣の肩越しに大理石の置時計を見た千歳は息を呑んだ。
 針はすでに、十時を回っている。

「えっ? お仕事、あの、よろしいのですか?」
 軍務に身を捧げる鷹臣が、この時間まで布団に留まっていることなど、今まで一度もなかった。
 寝過ごしてしまったと慌てる千歳を鷹臣は笑った。

「森部が帰ったのは深夜3時だ」
 さすがに朝8時に迎えに来いは可哀想だと鷹臣は話す。
 よかったとホッとしながら起き上がろうとした千歳は、自分が全身筋肉痛だとようやく気が付いた。

 凍てつく石の床に横たわり、氷の上を履き慣れないブーツで歩き、転びそうになった瞬間は必死で堪えた代償が、一気に押し寄せてきたのだ。

「あの、鷹臣様。今日は起き上がれそうにありません」
「無理もない。あれだけの力を使い、あの悪路を歩いたんだ」
 鷹臣は千歳の背中に腕を回し、そのまま軽々と抱き上げる。

「顔を洗うのも、着替えるのも、俺がやってやる。筋肉痛なら、まずは湯殿へ連れて行くのが正解か」
「湯殿……!」
 真面目な顔でとんでもないことを言い出す鷹臣に、千歳は慌てて首を振る。

「お、お湯は……! お湯は自分で行けます!」
「攫われては困る」
「そんな場所で攫われたりしません」
 訴え虚しく湯殿に連行された千歳は、一緒に入浴するのではと心臓が止まる思いだったが、扉の前で女中たちに引き渡されホッとした。
 朝食というよりも昼食になってしまった食事を二人で取り、新聞を眺める鷹臣の姿を見ながら紅茶をいただく。

 新聞をめくるカサリという音と、陶器が触れ合う小さな音。
 昨日までの命を懸けた騒乱が嘘のように、神楽坂邸には春の微睡のような平和が満ちていた。
 
 凍てついていた枝には、気の早い蕾がいくつか膨んでいる。
 古のあやかしの瘴気が消えたせいか、空気そのものが澄み渡り、降り注ぐ陽光さえ柔らかい気がした。

「……千歳」
 不意に新聞を置いた鷹臣が、低く甘い声で名を呼ぶ。
 
「……昨日から、おまえが足りない」
 突拍子もない言葉に千歳が目を丸くした瞬間、鷹臣は椅子を立ち、千歳の背後から包み込むように腕を回した。