帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

『湖に手の紋章をかざしながら祈りを捧げると……』
 水たまりに顔の紋章を近づけながらなんて随分伝承と違うけれど、祈りを捧げてみるしかない。
 
「古のあやかしよ、鎮まれ」
 千歳の祈りに呼応し、氷穴の床一面がまるで底なしの湖面へと変貌したかのように深く澄み渡っていく。
 鷹臣と古のあやかしの足元に浮かび上がった巨大な水鏡の紋章は、神々しいまでの蒼い光を放ち、荒れ狂うあやかしの瘴気を吸い込み始めた。

「ガ、アァァア……ッ!?」
 古のあやかしが、逃れられぬ光の鎖に縛られたように動きを止める。
 鷹臣の身体が、弾丸のような速度で地を蹴った。
 
 水鏡の上を滑るその足跡からは、飛沫の代わりに光の粒が舞い上がる。
 絶叫を上げる古のあやかしの懐へ深く踏み込む姿は、人とは思えないほど鬼気迫り、千歳の命を削るような蒼い光と鷹臣の紅い闘気が、まるで刀身の先でひとつに溶け合うようだった。

 横一文字に振り抜かれた刃は、巨大なあやかしの巨躯を切り裂いた。
 断末魔の叫びさえ上げる間もなく、神代の化け物は黒い霧となって霧散していく。
 氷の壁がキラキラとダイヤモンドダストのように降り注ぐ氷穴の中で、鷹臣は刀を地面に突き刺しながら膝をついた。

「鷹臣様!」
「来るな……!」
 駆け寄ろうとする千歳を、鷹臣の鋭い声が拒絶する。
 刀を支えに辛うじて膝をついている鷹臣の身体からは、禍々しい黒煙のような気が噴き出し続けていた。

 鷹臣が呻き声を上げ、自身の右腕を左手で激しく掴む。
 右手の甲から肘にかけて血管が浮き上がるように這い回る鬼の紋章は、もはや肉を突き破らんばかりに脈打っていた。

「森部!」
 顔を上げた鷹臣の瞳は、白目の部分が血に染まったように赤く、瞳孔は縦に裂けている。

「早く俺を」
 ガリッと音を立て、獣の鉤爪のように鋭く変じてしまった鷹臣の爪が氷を削る。
 喉の奥から絞り出されるのは、獣の咆哮が混じった濁った声だった。
 
「鷹臣様!」
「千歳様、お戻りを」
 千歳は森部の静止を聞かずに、鷹臣の元へ走った。
 
 鷹臣の下にはまだ水鏡の紋章が光っている。
 ならば、まだ私にできることがあるということだ。

「来るな、千歳……」
「いいえ。その命令は聞けません」
 千歳は唸り声を上げる鷹臣の硬い右手を取ると、自分の頬に押し当てた。

「鎮まれ、鬼よ」
 先ほどは、わざと古のあやかしだけ鎮まるように祈った。
 鷹臣の力を削ぎたくなかったからだ。

「……あ、あああああ!」
 人の理性と、鬼の衝動。
 その境界線で、鷹臣が必死に己を繋ぎ止めていることがよくわかる。

「鷹臣様は鬼にはなりません。私がいる限り、鬼には堕としません!」
 千歳は鷹臣のどす黒い手を頬に当てたまま、鷹臣を抱き寄せようと右腕を伸ばした。
 
 ふと、千歳は下に映った鬼の姿に気が付いた。
 水鏡の中に映っているのは、自分と鬼。
 目の前は鬼に落ちそうになっているとはいえ、まだ鷹臣の姿なのに。

「森部さん! 水鏡の中の鬼を斬って!」
「水鏡の中……?」
 森部は千歳の真後ろに移動し、地面の水鏡を覗き込んだ。

「……鬼?」
 森部は息を呑む。
 現実の世界では、千歳に抱き寄せられた鷹臣はまだ人の形を保っている。
 だが、足元に広がる蒼い水鏡の底には千歳の細い腕に縋り付き、彼女の首筋に今にも牙を立てようと顎を開く、巨大な角を持つ漆黒の化け物がいた。

「実像ではなく、魂の因果を映しているのか……!」
 現実の鷹臣を斬れば、彼は死ぬ。
 しかし、この水鏡の中にだけ実体化している「鬼の因果」を断ち切ることができれば、神楽坂の血に流れる千年の呪いだけをこの世から消し去ることができるかもしれないと、森部は瞬時に状況を理解した。

「千歳様、そのまま離さないでください!」
 森部は先祖代々伝わる鬼絶刀を引き抜き、切っ先を地面の水鏡へと向けた。
 本来、水面など斬れるはずがない。
 しかし今の森部は、千歳が命を削って広げた「聖域」の中にいる。

「第五十八代、神楽坂守護『護辺』が命ずる。千年の呪縛、ここで断絶せよ!」
 森部は迷いなく全力で、水鏡の中に映る「鬼」の心臓目掛けて刀を突き立てた。