「……鷹臣様」
その名を呼ぶ唇が、歓喜に震えた。
迎えに来てくださった。
鷹臣様が私を。
あぁ、こんなことを考えている場合ではないのに、うれしくてたまらない。
物置の暗闇で、いつか誰かが扉を開けてくれるのを夢想していたあの日々。
その夢の先にいたのは、間違いなくこの人だったのだ。
「動くな」
班目は千歳のすぐ傍に立ち、抜いた軍刀の切っ先を細い喉元へ向ける。
ピタリと足を止めた鷹臣は獣のような唸り声を漏らした。
「千歳を離せ」
地底から響くような、低く重い声。
鷹臣の纏う空気が物理的な質量となって、洞窟内の酸素を奪っていく。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた班目も、本能的な恐怖に顔を引きつらせ、軍刀を握る手がわずかに震えた。
「おまえの望みはなんだ?」
「あんたに俺と同じ苦しみを味わわせること」
「それは、あなたが『班目』の姓を名乗ることと、何か深い関わりがありますか?」
気配もなく鷹臣の後ろからスッと現れた森部に、班目が一瞬怯む。
「森部さん。この方は、班目勲さんのご子息だそうです」
千歳の言葉を聞いた森部は、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、班目の顔をじっと観察するように見つめた。
「班目勲大将にご子息はおりません」
「非嫡出子は認めないなんて、お貴族様らしい血も涙もない発想だな」
「いえ、認めないのではなく、生物学的に『存在しない』のです」
森部は下がってもいない眼鏡のブリッジをグイッと押し上げる。
「班目勲大将は戦傷が元である病を患い、生涯子を為せぬ身体でした」
軍医の正式な診断であり、大将自身も公言していたと森部は淡々と告げた。
「嘘だ! 貴様、神楽坂に買収されてデタラメを言っているんだろう!」
「班目勲大将はあなたを息子だと認めましたか?」
森部の指摘に班目はギリッと奥歯を鳴らす。
「班目勲大将は誰もが憧れる英雄でした。それゆえ、大将の種を宿したと偽り、後妻の座を狙う女は掃いて捨てるほどおりました」
「黙れ、黙れ! 俺は息子だ! あのお方がそう言ったんだ!」
動揺した班目の軍刀の先が大きく揺れ、千歳の首に近づく。
千歳はとっさに顔を刀ではない方向に背けた。
「転がれ!」
鷹臣の指示に、千歳は自由な両足で力一杯地面を蹴り、必死に身体を横へと転がす。
後ろ手に縛られた腕に己の全体重がのしかかり、鈍い衝撃と激痛に息が止まった。
もっと遠くへ。
頭では理解していても、自由を奪われた身体は思うように動かない。
「小癪な真似を!」
獲物を逃した班目が、狂気に血走った目で千歳に刀を向ける。
千歳の首に触れるよりも早く、鷹臣の軍靴が班目の胸元へ叩き込まれた。
肺腑を潰さんばかりの一撃を受けた班目の身体は吹き飛び、数メートル先の壁に激突する。
「ぐっ……」
班目は崩れ落ち、手放された軍刀が甲高い音を立てて転がった。
「千歳! よく動いた」
鷹臣がすぐに千歳の手首を縛り付けていた忌々しい縄を軍刀で断ち切る。
解放された赤紫色の痛々しい両手を、鷹臣は包み込むようにそっと掬い上げた。
「痛むか? ……すまない」
苦しげに顔を歪めながら鷹臣は千歳の手を自分の頬に押し当てる。
千歳は凍えていた身体が芯から解けていくような感覚に瞳を潤ませた。
千歳の傷ついた手首に鷹臣はそっと唇を寄せ、冷え切った指先を自分の吐息で温めるように丹念に口づけていく。
そのあまりに献身的で甘い仕草に、千歳は気恥ずかしさと愛しさで胸がいっぱいになった。
自分を案じてくれる人がいるという奇跡のような幸せは、私が得られて、あの人が得られなかったもの。
あの人にも、この幸せが訪れればいいのに。
千歳は鷹臣の腕の中で、壁際に力なく座り込む班目を悲しげに見つめた。
「あなたはなぜ班目勲の名で斎宮家にお金を振り込み続けたのですか?」
森部は班目を拘束しながら、苦悶の声を上げる班目に問いかける。
「……なんのことだ?」
「彼女の誕生日に毎年……」
「俺があの女の誕生日など知るはずがない」
自分の誕生日さえ知らないのに、そんなものには興味がないと吐き捨てるように言い放った班目の言葉に、森部と鷹臣は顔を見合わせた。
「……鷹臣様、お金を振り込んだとはどういうことですか?」
初めて聞く話に千歳は困惑する。
「千歳が18歳になるまで、毎年かかさず誕生日に班目勲の名で斎宮家に金が振り込まれていた」
「18歳……?」
以前、18歳の誕生日に鷹臣との縁談を持ちかけたと鳳夫人はおっしゃっていたけれど、これは偶然なのかしら……?
「振り込みは大将が亡くなった後も続いていました。大将の名を継いだと豪語する貴方が、何らかの意図を持って動いているのかと推測していたのですが……」
「俺には一銭の金も、一言の愛も残さなかったんだぞ!」
「それはあなたが大将の息子ではないからでしょう」
いい加減、余所者だと認めるべきだと森部は冷酷に告げる。
「そんなはずはない! あのお方は極秘の家系図を見せてくれた。そこにはちゃんと」
自分が存在していたと、班目は血走った目で森部を睨みつけた。
「あのお方とは誰ですか?」
「……名前は、知らない。軍の偉い人としか……」
だが、自分を日陰から救い出し、復讐する力をくれたのはその人だと、必死に語る班目の声が洞窟の壁に虚しく反響する。
森部と班目のやり取りを聞きながら、千歳は鷹臣の軍服の胸元を、縋るように強く掴んだ。
その名を呼ぶ唇が、歓喜に震えた。
迎えに来てくださった。
鷹臣様が私を。
あぁ、こんなことを考えている場合ではないのに、うれしくてたまらない。
物置の暗闇で、いつか誰かが扉を開けてくれるのを夢想していたあの日々。
その夢の先にいたのは、間違いなくこの人だったのだ。
「動くな」
班目は千歳のすぐ傍に立ち、抜いた軍刀の切っ先を細い喉元へ向ける。
ピタリと足を止めた鷹臣は獣のような唸り声を漏らした。
「千歳を離せ」
地底から響くような、低く重い声。
鷹臣の纏う空気が物理的な質量となって、洞窟内の酸素を奪っていく。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた班目も、本能的な恐怖に顔を引きつらせ、軍刀を握る手がわずかに震えた。
「おまえの望みはなんだ?」
「あんたに俺と同じ苦しみを味わわせること」
「それは、あなたが『班目』の姓を名乗ることと、何か深い関わりがありますか?」
気配もなく鷹臣の後ろからスッと現れた森部に、班目が一瞬怯む。
「森部さん。この方は、班目勲さんのご子息だそうです」
千歳の言葉を聞いた森部は、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、班目の顔をじっと観察するように見つめた。
「班目勲大将にご子息はおりません」
「非嫡出子は認めないなんて、お貴族様らしい血も涙もない発想だな」
「いえ、認めないのではなく、生物学的に『存在しない』のです」
森部は下がってもいない眼鏡のブリッジをグイッと押し上げる。
「班目勲大将は戦傷が元である病を患い、生涯子を為せぬ身体でした」
軍医の正式な診断であり、大将自身も公言していたと森部は淡々と告げた。
「嘘だ! 貴様、神楽坂に買収されてデタラメを言っているんだろう!」
「班目勲大将はあなたを息子だと認めましたか?」
森部の指摘に班目はギリッと奥歯を鳴らす。
「班目勲大将は誰もが憧れる英雄でした。それゆえ、大将の種を宿したと偽り、後妻の座を狙う女は掃いて捨てるほどおりました」
「黙れ、黙れ! 俺は息子だ! あのお方がそう言ったんだ!」
動揺した班目の軍刀の先が大きく揺れ、千歳の首に近づく。
千歳はとっさに顔を刀ではない方向に背けた。
「転がれ!」
鷹臣の指示に、千歳は自由な両足で力一杯地面を蹴り、必死に身体を横へと転がす。
後ろ手に縛られた腕に己の全体重がのしかかり、鈍い衝撃と激痛に息が止まった。
もっと遠くへ。
頭では理解していても、自由を奪われた身体は思うように動かない。
「小癪な真似を!」
獲物を逃した班目が、狂気に血走った目で千歳に刀を向ける。
千歳の首に触れるよりも早く、鷹臣の軍靴が班目の胸元へ叩き込まれた。
肺腑を潰さんばかりの一撃を受けた班目の身体は吹き飛び、数メートル先の壁に激突する。
「ぐっ……」
班目は崩れ落ち、手放された軍刀が甲高い音を立てて転がった。
「千歳! よく動いた」
鷹臣がすぐに千歳の手首を縛り付けていた忌々しい縄を軍刀で断ち切る。
解放された赤紫色の痛々しい両手を、鷹臣は包み込むようにそっと掬い上げた。
「痛むか? ……すまない」
苦しげに顔を歪めながら鷹臣は千歳の手を自分の頬に押し当てる。
千歳は凍えていた身体が芯から解けていくような感覚に瞳を潤ませた。
千歳の傷ついた手首に鷹臣はそっと唇を寄せ、冷え切った指先を自分の吐息で温めるように丹念に口づけていく。
そのあまりに献身的で甘い仕草に、千歳は気恥ずかしさと愛しさで胸がいっぱいになった。
自分を案じてくれる人がいるという奇跡のような幸せは、私が得られて、あの人が得られなかったもの。
あの人にも、この幸せが訪れればいいのに。
千歳は鷹臣の腕の中で、壁際に力なく座り込む班目を悲しげに見つめた。
「あなたはなぜ班目勲の名で斎宮家にお金を振り込み続けたのですか?」
森部は班目を拘束しながら、苦悶の声を上げる班目に問いかける。
「……なんのことだ?」
「彼女の誕生日に毎年……」
「俺があの女の誕生日など知るはずがない」
自分の誕生日さえ知らないのに、そんなものには興味がないと吐き捨てるように言い放った班目の言葉に、森部と鷹臣は顔を見合わせた。
「……鷹臣様、お金を振り込んだとはどういうことですか?」
初めて聞く話に千歳は困惑する。
「千歳が18歳になるまで、毎年かかさず誕生日に班目勲の名で斎宮家に金が振り込まれていた」
「18歳……?」
以前、18歳の誕生日に鷹臣との縁談を持ちかけたと鳳夫人はおっしゃっていたけれど、これは偶然なのかしら……?
「振り込みは大将が亡くなった後も続いていました。大将の名を継いだと豪語する貴方が、何らかの意図を持って動いているのかと推測していたのですが……」
「俺には一銭の金も、一言の愛も残さなかったんだぞ!」
「それはあなたが大将の息子ではないからでしょう」
いい加減、余所者だと認めるべきだと森部は冷酷に告げる。
「そんなはずはない! あのお方は極秘の家系図を見せてくれた。そこにはちゃんと」
自分が存在していたと、班目は血走った目で森部を睨みつけた。
「あのお方とは誰ですか?」
「……名前は、知らない。軍の偉い人としか……」
だが、自分を日陰から救い出し、復讐する力をくれたのはその人だと、必死に語る班目の声が洞窟の壁に虚しく反響する。
森部と班目のやり取りを聞きながら、千歳は鷹臣の軍服の胸元を、縋るように強く掴んだ。



