特務部隊の隊長が鷹臣であることは知っている。
だが、副隊長の森部以外は名前すらわからない。
ましてや創設者のことなど、物置暮らしをしていた千歳が知る由もない。
「あいつは……神楽坂は、自分を庇って死んだ男のことを一度も話していないというのか?」
「……何も、うかがっておりません」
班目は千歳を突き飛ばすと、狂ったように笑い声を上げた。
その乾いた笑いは、洞窟の奥底へと虚しく反響していく。
「あははっ……! 隠していたのか、あの男は」
班目は地面に這いつくばる千歳を見下ろし、その瞳に宿る絶望をさらに深い闇で塗りつぶそうと顔を近づけた。
「いいか、よく聞け。あいつはな、俺の親父を身代わりにして生き延びた『化け物』なんだよ」
班目は千歳に向かって堰を切ったように語り出した。
「俺は、班目勲が娼館の女に産ませた不義の子だ」
母が亡くなり、あのお方の力でようやく父に会えた。
だが、その傍らにいたのは自分ではなく神楽坂鷹臣だったのだ。
「俺が泥水を啜って生き延びていた間、あいつは親父の隣で『息子』のように笑っていた。誰からも認められず、愛されず、ただ捨て置かれた俺の絶望がおまえにわかるか!」
班目勲は死ぬまで自分のことを息子とは認めなかったと、班目は悔しそうに壁を殴りつけた。
この方も、愛されたかったのだわ。
それは千歳にも身に覚えのある痛みだった。
斎宮家で誰からも愛されず、誰にも必要とされなかった日々。
暗い物置の中で膝を抱え、自分という存在が消えてしまわないように必死に息をしていた夜。
私も願った。
『誰かに優しく抱きしめられたい』
『ここにいていいのだと、誰かに言ってほしい』
自分は鷹臣という唯一無二の光に救い上げられた。
だがこの男は、手を差し伸べてくれる誰にも出会えぬまま、凍てつく冬に取り残されてしまったのだ。
「俺から親父を、愛情を奪ったあいつを俺と同じ地獄に引きずり下ろさなきゃ、俺の人生は救われないんだよ!」
もし輿入れの日に、私も鷹臣様に拒否されていたら、彼と同じような歪んだ気持ちを持ってしまっただろうか?
千歳は班目の憎悪に燃えるその目の奥に、独り取り残されて泣きじゃくる子どものような孤独が透けて見えた気がした。
「あんたみたいにな、温かい飯を食い、羽毛の布団に包まれて大事に育てられたお嬢様には……俺の絶望なんて、これっぽっちも解りゃしないだろうが!」
班目は千歳の絹のような髪を乱暴に掴み上げると、その顔を強引に引き寄せた。
「俺はな、認知すらされず帝都の裏路地を這いつくばって生きてきたんだ。残飯を漁り、冬の夜は凍え死なないように泥水の溜まった溝で身を寄せ合って」
そんな惨めな暮らしなんて想像もつかないだろうと班目は千歳を睨む。
「……私は、物置で育ちました」
「あぁ?」
「妾の子ですので……。でも、雨風をしのぐ場所があって、家族の残り物とはいえ、毎日食べ物をいただけておりました」
百合子のように美しい服を纏い、家族に愛されて過ごすことができればどれほど幸せだろうかと、暗い物置の中で考えたことは何度もある。
だが、己の不幸に閉じこもっていた自分は、目の前の彼が味わってきた「地獄」の深さなど、想像すらしたことがなかった。
「あなたのような凄惨な苦労を、私は何も知りませんでした。……ごめんなさい」
「すまない」でも「申し訳ない」でもない、千歳のたどたどしくも心の底から紡がれた「ごめんなさい」。
その清廉な言葉の暴力に、班目は毒気を抜かれたように言葉を失った。
「……あんた、あの女と全然違うんだな」
班目の手が、呆然としたまま千歳の髪から離れていく。
「あんたの妹は俺に縋ったよ。あんたを不幸にしてくれるなら、なんだってするってな」
班目は吐き捨てるように言葉を続けた。
「あんたもあの女が憎かっただろう? 」
「……羨ましいとは思っていましたが、憎んではいません」
千歳は俯いたまま、静かに答える。
「私は呪われた娘なので、生きていてはいけないと言われながら育ちましたから」
薄暗い洞窟の湿った空気に千歳の震える声が染み込んでいく。
「でも鷹臣様が居場所をくださったんです。生きていて良いと、こんな私でも役に立つと言ってくださったんです」
千歳は顔を上げ、班目の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「班目様。あなたのお父様の仇は、鷹臣様ではなく、あやかしではないのでしょうか?」
「……っ!」
千歳のあまりに真っ当な正論に、班目の顔に剥き出しの狼狽が走る。
「だから、鷹臣様を憎むのではなく……」
「黙れ!」
班目の叫びが洞窟の壁に反響した瞬間、洞窟の入り口から軍靴の規則正しい足音が響き渡る。
「千歳を返せ」
地を這うような低温の怒声に、千歳は弾かれたように顔を向けた。
だが、副隊長の森部以外は名前すらわからない。
ましてや創設者のことなど、物置暮らしをしていた千歳が知る由もない。
「あいつは……神楽坂は、自分を庇って死んだ男のことを一度も話していないというのか?」
「……何も、うかがっておりません」
班目は千歳を突き飛ばすと、狂ったように笑い声を上げた。
その乾いた笑いは、洞窟の奥底へと虚しく反響していく。
「あははっ……! 隠していたのか、あの男は」
班目は地面に這いつくばる千歳を見下ろし、その瞳に宿る絶望をさらに深い闇で塗りつぶそうと顔を近づけた。
「いいか、よく聞け。あいつはな、俺の親父を身代わりにして生き延びた『化け物』なんだよ」
班目は千歳に向かって堰を切ったように語り出した。
「俺は、班目勲が娼館の女に産ませた不義の子だ」
母が亡くなり、あのお方の力でようやく父に会えた。
だが、その傍らにいたのは自分ではなく神楽坂鷹臣だったのだ。
「俺が泥水を啜って生き延びていた間、あいつは親父の隣で『息子』のように笑っていた。誰からも認められず、愛されず、ただ捨て置かれた俺の絶望がおまえにわかるか!」
班目勲は死ぬまで自分のことを息子とは認めなかったと、班目は悔しそうに壁を殴りつけた。
この方も、愛されたかったのだわ。
それは千歳にも身に覚えのある痛みだった。
斎宮家で誰からも愛されず、誰にも必要とされなかった日々。
暗い物置の中で膝を抱え、自分という存在が消えてしまわないように必死に息をしていた夜。
私も願った。
『誰かに優しく抱きしめられたい』
『ここにいていいのだと、誰かに言ってほしい』
自分は鷹臣という唯一無二の光に救い上げられた。
だがこの男は、手を差し伸べてくれる誰にも出会えぬまま、凍てつく冬に取り残されてしまったのだ。
「俺から親父を、愛情を奪ったあいつを俺と同じ地獄に引きずり下ろさなきゃ、俺の人生は救われないんだよ!」
もし輿入れの日に、私も鷹臣様に拒否されていたら、彼と同じような歪んだ気持ちを持ってしまっただろうか?
千歳は班目の憎悪に燃えるその目の奥に、独り取り残されて泣きじゃくる子どものような孤独が透けて見えた気がした。
「あんたみたいにな、温かい飯を食い、羽毛の布団に包まれて大事に育てられたお嬢様には……俺の絶望なんて、これっぽっちも解りゃしないだろうが!」
班目は千歳の絹のような髪を乱暴に掴み上げると、その顔を強引に引き寄せた。
「俺はな、認知すらされず帝都の裏路地を這いつくばって生きてきたんだ。残飯を漁り、冬の夜は凍え死なないように泥水の溜まった溝で身を寄せ合って」
そんな惨めな暮らしなんて想像もつかないだろうと班目は千歳を睨む。
「……私は、物置で育ちました」
「あぁ?」
「妾の子ですので……。でも、雨風をしのぐ場所があって、家族の残り物とはいえ、毎日食べ物をいただけておりました」
百合子のように美しい服を纏い、家族に愛されて過ごすことができればどれほど幸せだろうかと、暗い物置の中で考えたことは何度もある。
だが、己の不幸に閉じこもっていた自分は、目の前の彼が味わってきた「地獄」の深さなど、想像すらしたことがなかった。
「あなたのような凄惨な苦労を、私は何も知りませんでした。……ごめんなさい」
「すまない」でも「申し訳ない」でもない、千歳のたどたどしくも心の底から紡がれた「ごめんなさい」。
その清廉な言葉の暴力に、班目は毒気を抜かれたように言葉を失った。
「……あんた、あの女と全然違うんだな」
班目の手が、呆然としたまま千歳の髪から離れていく。
「あんたの妹は俺に縋ったよ。あんたを不幸にしてくれるなら、なんだってするってな」
班目は吐き捨てるように言葉を続けた。
「あんたもあの女が憎かっただろう? 」
「……羨ましいとは思っていましたが、憎んではいません」
千歳は俯いたまま、静かに答える。
「私は呪われた娘なので、生きていてはいけないと言われながら育ちましたから」
薄暗い洞窟の湿った空気に千歳の震える声が染み込んでいく。
「でも鷹臣様が居場所をくださったんです。生きていて良いと、こんな私でも役に立つと言ってくださったんです」
千歳は顔を上げ、班目の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「班目様。あなたのお父様の仇は、鷹臣様ではなく、あやかしではないのでしょうか?」
「……っ!」
千歳のあまりに真っ当な正論に、班目の顔に剥き出しの狼狽が走る。
「だから、鷹臣様を憎むのではなく……」
「黙れ!」
班目の叫びが洞窟の壁に反響した瞬間、洞窟の入り口から軍靴の規則正しい足音が響き渡る。
「千歳を返せ」
地を這うような低温の怒声に、千歳は弾かれたように顔を向けた。



