帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 神楽坂邸の主寝室に、薪の爆ぜる音が響いた。
 暖炉の中に小さな火花が飛び、高い天井へと揺らめく影を投げかける。
 窓の外は帝都を凍てつかせる雪だというのに、この部屋は暖かい空気で満たされていた。
 
「座れ」
 テーブルの傍らに置かれた椅子を指差された千歳の心臓は、壊れそうなくらい早く動いた。
 テーブルに準備されているのは陶器の洗面鉢に入った水。

 私の顔を洗うつもりなの?
 千歳はごくっと唾を飲み込んだ。
 
 このおしろいが落ちれば、父が呪いと呼び、母の命を奪った醜い痣があらわになる。
 その瞬間、あの枕元に立てかけられた剣で斬られるのだろうか。
 それともこの雪の中、外に放り出されるのだろうか。
 千歳は震える手で、椅子の背もたれを掴んだ。
 
「……あの、私は、その……」
「早く座れ」
 感情の読めない目で千歳を見据えた男性は、白い布を水に浸した。
 絞り上げる水の音さえ、今の千歳には処刑前の恐怖の音に聞こえてくる。
 観念して椅子に腰を下ろすと、男性の大きな影が千歳を覆い尽くした。
 
 逃げ場はない。
 もとからそんなものはないけれど。
 
 千歳の顎は男性に強引に持ち上げられた。
 恐怖で固く目を閉じることしかできない千歳の頬の分厚いおしろいを、温かな水分を含んだ布が拭い去っていく。
 
 あぁ、もうおしまいだわ……。
 これ以上ないほど強く目を閉じた千歳は、男性の罵声を待った。

 呪われた娘。
 疫病神。
 父にも義母にも何度言われたことか。
 家族でさえそう言うほど醜い痣を、他人が、ましてや結婚相手が認めるわけがない。
 千歳は震えながら、ごくっと唾を飲み込んだ。
 
 ……なぜ、何もおっしゃらないの?

 男性の手が千歳の痣を撫でていく。
 沈黙に耐えきれなくなった千歳は、恐る恐る目を開けた。
 
「……え?」
 千歳の目の前にあったのは、歪んだ嫌悪の表情ではなかった。
 男性は千歳の不吉と蔑まれてきたその痣を熱を帯びた眼差しで見つめている。

 どうしてそんな宝物を見るかのような目で……?
 初めて向けられる視線に千歳は戸惑う。
 吸い込まれそうな紅い瞳が、千歳の視線とぶつかった。
 
「なぜ隠していた?」
「……不吉な痣を見せるなと……呪いを隠せと……」
 これでは神楽坂家を呪って没落させろと言われたことをバラしているようなものだ。
 だが、答えないという選択肢は千歳にはない。
 
「誰がこれを呪いだと言った?」
「父が……この痣のせいで母も亡くなり、事業もうまくいかないと……」
 厄介払いのため、嫁に来させられたと自白するなんて、自分でも馬鹿だと思う。

 でも一番の被害者は目の前のこの男性だ。
 きっとこの人が鬼神だと恐れられている男性本人だと思うが、外套を貸してくれたり、顔を拭いた布も水ではなく人肌程度に温かく、噂とはだいぶ異なっている。
 
「……そうか」
 男性は低い声で呟くと、千歳の頬から手を離し、濡れた布を静かに陶器の洗面鉢へ戻した。

「事業の失敗を子のせいにするとは。斎宮の当主は己の無能を棚に上げる臆病者だったようだな」
「え……?」
「千歳……だったか? 鏡を見てみろ」
 男性は部屋の隅にある大きな姿見を指差す。
 千歳はおずおずと立ち上がり、恐る恐る鏡の中の自分を覗き込んだ。

 そこに映ったのは、いつもの青紫色の見慣れた痣。
 暖炉の火を反射していつもより少し頬が赤みを帯びているが、どこからどう見ても、母を死に追いやり、周りを不幸にした呪いの痣にしか見えない。
 
「それは呪いではない。昂った鬼を鎮める『水鏡』の紋章だ」
 男性は千歳の背後に音もなく立ち、鏡越しに視線を合わせた。
 
「水鏡……?」
 男性は後ろから千歳の顎を持ち上げると、鏡の前で顔の角度を変える。
 一瞬だけ何かが映った気がした千歳は、真剣に鏡を見つめた。

「……見えたか?」
「なにか模様のようなものが……」
 自分で角度を変えてみると、ほんの一瞬、白銀の模様が浮かび上がる。

「おまえに触れるだけで、俺の中の『鬼』が静まる。」
 男性はそう囁くと、千歳の頬に大きな右手を添えた。

 その瞬間、男性の手の甲に燃え盛るような紅蓮の模様が浮かび上がる。
 彼の肌に浮かんだのは、禍々しくも美しい鬼の紋章。
 鏡の中の模様を食い入るように見つめた千歳は、思わず息を呑んだ。