帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

「ふん、そんなに拒否することないじゃない」
 百合子は肩をすくめると、門番の隙を突き、格子門の隙間へ強引に小箱をねじ込もうと手を伸ばす。
 その瞬間、空気がバシッと激しく震え、小箱は百合子の手ごと猛烈な力で弾き飛ばされた。

「きゃっ……!」
 百合子の身体は無様に後ろにのけぞり、人力車に叩きつけられるように尻餅をついた。
 自慢の牡丹色の着物は乱れ、狐の襟巻きが泥混じりの地面に転がる。
 
「何をしたのよ! このバケモノ!」
 百合子は乱れた髪を振り乱し、地面に這いつくばったまま、顔を真っ赤にして千歳を罵った。
 
「百合子さん、大丈夫ですか?」
 思わず門に駆け寄ろうとした千歳だったが、百合子の背後に転がった小箱を目にした瞬間、全身の血が凍りついた。
 黒い煙が実体を持つかのように揺らめき、百合子の影に吸い込まれていく。
 
「……あ」
 百合子の瞳から光が消え、陶器のように白かった肌が黒く変わっていった。
 まるで鳳公爵夫人の夜会であやかしに変わってしまった父のように。

「逃げて!」
 千歳は恐怖を振り絞り、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
 ハッとした門番や人力車の車夫は一斉に駆け出す。

「奥方様も早くお屋敷の中に」
 花を摘んだ竹籠を奪われ、早く走ってくださいと門番に指示される。
 背後から聞こえる何かが砕けるようなおぞましい音に、千歳は必死に駆けた。

「ひっ、あ、あぁ……!」
 逃げ惑う車夫の悲鳴が遠ざかる。
 千歳は屋敷の玄関へたどり着く直前、一度だけ肩越しに振り返った。

 門の外に百合子の姿はない。
 ビリビリに破れた鮮やかな牡丹色の着物と、毛足の長い真っ白な狐の襟巻きが、黒いあやかしには不釣り合いだった。

 お父様と、同じ……?
 どうして?

「千歳様、こちらへ!」
 玄関の重い扉が開くと同時に、中から飛び出してきた女中が千歳の腕を掴んで屋敷の中へと引き入れる。
 千歳は震える身体を女中の腕に預けながら、どうにか玄関ホールへと滑り込んだ。
 
「千歳様、お怪我はございませんか?」
「私は……、でも」
 千歳は冷たい大理石の床に膝をつき、激しく打ち鳴らされる心臓を抑えた。

「すぐ鷹臣様がお見えになります。それにこのお屋敷は森部様がお守りくださっていますので案ずることはありませんわ」
 女中は千歳の震える背中を落ち着かせるように、何度もさすってくれる。
 温かいその手のおかげでようやく思考が回って来た千歳は、ふと、ある残酷な真実に思い当たった。

 もしあの贈り物を受け取っていたら、あやかしになったのは私……?
 もし門番が代わりに受け取っていたら……?
 なんの非もない人たちが、突然あやかしに……?

 千歳の心臓がどくんと跳ねる。
 百合子を襲った悲劇は、本来自分に向けられたものだったのだ。
 そう確信した瞬間、めまいが千歳を襲った。
 
「奥様、こちらへ! ここは危険です」
 切迫した声と共に、廊下の向こうから軍服姿の男性が駆け寄る。
 見慣れた帝国陸軍の軍服、鷹臣と同じ金ボタンが薄暗い廊下で鈍く光った。
 男性は千歳の細い腕を掴むと、半ば引きずるようにして屋敷の奥へと促す。

「は、離してください……っ。まだみなさんが」
「閣下の命令です、早く!」
 閣下……?
 男の言葉に違和感を覚えた千歳は目を見開いた。
 
 彼らと会ったのは数回だが、鷹臣のことを隊長と呼んでいなかっただろうか……?

「あなたは誰ですか?」
 千歳が渾身の力でその手を振り払うと、軍帽を深く被った男の口元が、歪に吊り上がった。

「おや、意外に鋭い」
 軍帽の庇の下で光ったのは、愉悦に満ちた蛇のように冷ややかな眼光だった。

 この人は帝国劇場で百合子と一緒にいた……!
 悲鳴を上げようとした瞬間、班目の指先が千歳の額に触れる。

「鷹……」
 助けて。
 どろりとした闇が視界を塗り潰し、千歳の意識は遠のいていく。
 力なく崩れ落ちる千歳の身体を抱えた班目は、静かに屋敷から姿を消した。